ぱらいそ



ぽつんと呟かれた言葉が妙に耳に響いたのは、普段進藤が口にすることが無い類の言葉だったからかもしれない。


「なあ」


いつものように碁会所で打っていて、これもまたいつもの如くじっくりと時間をかけて検討をして、その後市河さんの
いれてくれたお茶を飲んでいる時にふいに碁盤を見詰めながら進藤が呟いたのだった。



「なあ、ぱらいそって何?」

「え?」

「ぱらいそ。ひらがなだかカタカナだか英語だか知らないけど、それってどういうことだか知ってる?」


ぼくの方に向き直って言う彼の目はどこかきょとんととしていて小さな子どものようだった。


「この間、桑原のじーちゃんと飲んでた時になんかそんなこと言ってたんだけど、おれちっともわかんなくてさぁ」


回りに居る人に聞くのもしゃくだからわかったふりをして帰って来たのだと。その理由に少しばかりほっとしながら
ぼくは笑った。



「別に聞けば良かったのに、知らなくてもおかしな言葉じゃないよ」

「でもおまえは知ってるんだろ。なあ、何? 英語?それとももしかしてフランス語か何か?」

「ポルトガル語」


ぼくの言った言葉に彼は一瞬目を見開いて、それからふうんと感心したように言った。


「なんだ、じゃあおれ知らなくても全然いいんじゃん」

「だからそう言ったじゃないか」


もちろん少し歴史をかじったことがある人や本を読むのが好きな人なら聞いたことがあるような言葉だけれどと
付け足したら進藤は口を尖らせながら「それってどういう意味」と聞いた。



「天国―それとも楽園かな?」


昔、キリシタンの人達が天国のことをそう呼んでいたんだよと言い、キリシタンの説明をしようと口を開きかけた
ら「いくらおれでもそれくらい知ってる」と言われてしまった。



「…満足したか?」

「うん、まあ」


ことりと湯飲みをテーブルに置いて、進藤は部屋の奥の水槽を見る。

ゆったりと淡い光に照らされながら泳ぐ魚の影が壁に映り、それをしばらくの間ぼくも無言で見詰め続けた。


「なあ」


彼の2度目の呼びかけは鮮やかなブルーの魚が三度ほど往復した後で、その影を相変わらず目で追いながら
進藤はまたぼくに呟くように言ったのだった。



「昔の人が行ったその天国って、おれ達が行く所と同じかな」

「何故?」

「だってそれってキリスト教徒の人達の天国なんだろう? おれんち仏教だし、他にも色々宗教あるじゃん?」


それにそれより前に生きていた人達がポルトガル語の天国に行くとも思えないんだけれどと、今まで考えたこと
も無かったけれど、至極もっともなことを言われて少し驚いた。



「そうだね…うん、もしかしたらみんな違う『天国』に行くのかもしれないね」


大昔、まだ裸同然の暮しをしていたような人達はそんな彼等の天国に。

平安の、雅な時代を生きていた人達はそんな雅な天国へ。


「おれ達はどの天国に行けばいいのかなあ」

「その年でもうそんな心配をしているのか?」


人は死ぬ。いつか必ず死ぬけれど、少なくともぼくも進藤もそんなに切羽詰まって考えなければいけないような
年ではまだ無い。



「んー、いや、だからさ桑原のじーちゃんが、わしもそろそろお迎えが近いかもなんて縁起の悪いこと言ってい
てさ」



ぱらいそに行って待っているから、お主らは後からゆっくり来るがいいとそう豪快に笑って言ったのだという。


「でもおれ、方向音痴だし、しゅーきょーとかそういうのわかんないし」

「いいんじゃないか? そんなこと心配しなくても」

「え?」

「八百万の神と言うけれど、そしてみんなそれぞれ自分の信じている『天国』に行くのかもしれないけれど、ぼく
達が行くとしたらそれは同じ所だから」



きょとんとした彼に笑いながら言う。


「ぼく達が行くとしたらそれは間違い無く『碁』の神様の居る『天国』だろう?」


だから行きはぐれることは無いし、会いたい人に会いそびれることもきっと無いと、ぼくの言葉に彼はしばらく黙
ってそれから言った。



「大昔の人でも?」

「え?」

「大昔のさ、例えばさっきおまえが言ってた平安時代とかの人でも、碁をやっていたら碁の『天国』に来るかな」

「来るんじゃないか、その人にとっての命が碁なら―」


そうかと、頷いて笑った進藤の笑顔は嬉しそうだった。

良かったと小さく何度も呟くのは心当たりがあるからなのかもしれないが、その心当たりが『誰』なのかはぼく
は知らない。



「安心した?」

「うん、少なくとも最悪、おまえだけは一緒だもんな」


にっこりと邪気無く言う進藤は、その言葉がどれ程の意味を持っているのか果たして知っているのだろうか。

死んだ後、他の誰とも会えなくてもぼくとだけ会えればそれでもいいと。


「そうだね、キミもぼくも信じられないくらいの碁バカだから」


きっと死して後の世界で相手に困ることは無い。

永遠に差し向かい、又は同じ碁に取憑かれた人達と笑いながら、年を取ることも無く、終わることの無い対局
を続ける。


何局も何局も。

数え切れない程の局を重ねる。

それはそら恐ろしいような気もするけれど間違い無く『天国』だと、ぼくはいつか行くだろうぱらいそに思いを馳
せて、それから改めて進藤を見詰め、幸せだなと思ったのだった。



※それでは今日も行って来ます。皆様良いGWを!2014.5.4 しょうこ