トンネル
本因坊戦七番勝負第七局、二日目。
ホテルの大広間を貸し切って行われた解説会でアキラが大盤を使って解説していると、ふいに野次るような
声が飛んだ。
「偉そうに解説してんじゃねえ、このホモ野郎が!」
それに追従するように別な所からも「碁界の恥さらし」、「変態」、「引退しろ」、などの声が上がった。
ざわっと揺れた人々の中、壇上のアキラは一瞬声のした方を見て、けれど特に大きく表情を変えることも無く
解説の続きを行った。
助手としてアキラの隣に控えていた女流棋士と、盤の石を動かすために壇上に居た岡と庄司は動揺して顔も
声も引きつってしまったけれど、アキラは最後までそのまま揺らぐことなく落ち着いた態度で解説をやり切った。
結果は挑戦者が一目半で勝利し本因坊のタイトルを手にした。
タイトルホルダーであった緒方精次元本因坊天元十段は忌々しそうに新本因坊を睨んだが、碁の内容に不
満は無かったようで、その後はクサること無く相手の健闘を讃えた。
解説会の方も勝利者が決定した祝賀ムードで、参加者へのプレゼントの当選発表などが行われ、こちらもま
た和やかな雰囲気でお開きになろうとしていた。
――――アキラが閉会の言葉を述べた後、いきなり壇上から降りて一人の観客の前に立つまでは。
「先ほどは解説の途中でしたので返答出来なかったのですが」
アキラが立ったのは60才はとうに過ぎているであろう白髪の上品そうな男性の前だった。
「な、何かね」
「先ほどあなたがぼくに投げかけた言葉、事実とは異なるものでしたので訂正させて頂きます」
ざわついていた周囲がいきなりしんと静かになった。
「あなたはぼくを『ホモ』だと言いましたが違います。ぼくは同性が好きなわけでは無く、『進藤ヒカル』が好きなん
です」
その声は特に大声だったわけでは無いが、会場の隅から隅まで響き渡った。
「今後二度とお間違えの無きようお願いします。男も女も関係無く、ぼくは彼だから愛している。そしてそのことを
心から誇りに思っています」
そう言って顔を上げると、アキラは呆気に取られたような人々の中、更に何人かをじっと見据えてから踵を返した。
「それだけです。失礼しました」
残された男性は最初こそ顔を真っ赤に染めて何か言い返してやろうと口を開きかけたが、責めるような周囲の視
線にそそくさと荷物を持って会場から出て行った。
今の一幕で、その男性こそが解説中のアキラに野次を飛ばした張本人だったと、会場中の全ての者に解ってしま
ったからだ。
そして同様にばつの悪そうな顔でそれに続いた数人が、便乗して野次った者達だった。
アキラはヒカルと恋人同士であると公言して以来、色々と批判や差別に晒されていたが、今回のように公の場で大
勢の人の前で侮辱されたのは初めてだった。
しかしそれに感情的になるで無く凜として返したアキラの態度は高く評価された。
やっぱり塔矢アキラは凄いと、立派であると、評価がぐんと上がったのである。
「はあ? なんだよそれ、おれの知らない所でそんなんなってたなんて!」
後になってそのことを聞かされたヒカルは当然ながら激怒した。
「面と向かって言えないからって、解説してる時に言うなんて卑怯だろ!」
「まあ、あの人ちょっと顔が赤くなっていたから少し飲んでいたんだろうね。酔っぱらって気が大きくなったのかも」
「だからって言っていいことと悪いことってのがあるんだよ」
ヒカルの怒りは収まらない。
「大体どうしておまえもおれを呼ばないんだよ! 居たらそのオヤジぼっこぼこにしてやったのに」
食ってかからんばかりのヒカルにアキラは思わず笑ってしまった。
「だってキミ、本因坊戦の決勝のまっただ中だったじゃないか」
あの時、解説をしていた緒方の相手の挑戦者こそが他でも無いヒカルだったのである。
「どこの世界に本因坊戦を放り出して野次の相手をする棋士が居る。それにそもそもキミは別の部屋で打っていた
んだから呼べるわけが―」
「それでも呼べよ! そういう時は!」
悔しそうに言うヒカルにアキラは苦笑しつつ言葉を続けた。
「だったらキミもぼくを呼ばなくちゃ」
「は?」
「聞いてるよ。キミも結構色々な目に遭っているみたいだよね」
今回はたまたま自分だったが、ヒカルも日々同じように差別や偏見に晒されているのだ。
「いいんだよ、おれは」
ふて腐れたようにヒカルが言う。
「良くないよ」
「いいんだって! おれはなんて言われても。おまえのこと何にも知らないくせに悪く言われる方がずっと腹立つ」
「…同じだね」
穏やかに言われてヒカルは鼻白んだような顔になった。
「何がだよ」
「ぼくもキミを悪く言われる方が百万倍腹が立つ」
キミをよく知りもしないくせに一部の情報だけで悪し様に言う輩には、腸が煮えくりかえるくらい不愉快で腹が立つの
だと。
「それに比べたらあのくらいの野次なんでもない」
「嘘つき」
「本当だよ」
だから頼むからそんなに心配しないでくれと優しい腕に抱きしめられて、ヒカルはまだ不満気な顔ながらも「おまえこそ」
と愛しそうにアキラをそっと抱きしめ返したのだった。
※どんな逆風にも堂々と臆することなく正面向いて生きて行って欲しい。ヒカアキにはそうあって欲しいなと願います。
望むように生きるのは先の見えない長いトンネルを歩くようなものだと思うので『トンネル』です。
2014.6.25 しょうこ