主よみもとに近づかん



非道く腹が立った。

それは自分の間の悪さに対してであり、又、進藤ヒカルの軽薄さにでもあった。

そして何よりそんな進藤に自分がプレゼントを用意した、それが何より腹立たしかった。


誕生日でもバレンタインでも何でも無いその日にぼくが進藤に贈り物をしようと思ったのは、彼が初めて
タイトルを獲得したからだった。


リーグに残ってからじりじりと半年以上、粘りに粘って奪い取った天元。その瞬間進藤は輝くように嬉しそ
うで、だから負けた元天元のぼくも悔しいけれど嬉しかった。


思う存分戦って負けた、それに異存があるはずも無く、ましてやそれが進藤相手なら尚更だった。

彼の碁は始終揺らぐこと無く「いい碁」だったし、対する自分の碁も負けてはいなかったと思う。まさに切
迫する戦いだった。だからこそ彼が天元になったその瞬間を心から喜ぶことが出来たのだった。


(そうだ、お祝いに何かをあげよう)

勝者として取材を受ける彼の顔を見詰めながらぼんやりとぼくはそう思っていた。

一生に一度の初めてのタイトル。だからこそ何か記念になるものを贈りたい。

そしてふと目を落とした先にはスーツの袖から覗き見える彼の腕時計があり、それが非道く古ぼけている
のに気がついた瞬間、何を贈るかが決まったのだった。


(時計をあげよう)

仮にも天元があんな時計じゃいけない。

余計なお世話とは思ったものの、座ったその椅子に相応しいものを身につけて欲しいと思ったのだ。

そしてその日からぼくは手合いの帰りなどにそっとデパートやブランドを巡り、かなりな時間をかけてそこ
そこ満足のいくものを見つけたのだった。


しっくりと腕に馴染むその時計は重すぎず軽すぎず、シンプルなデザインが彼によく似合っていると思っ
た。


だから速攻で買って、そのままリボンをかけて貰うことさえした。

そして恥ずかしげも無く翌日の手合いに持って行ったりもしたのだ。その日、彼もまた手合いがあって棋
院に来るのがわかっていたから。


ところが朝彼を見つけて声をかけようとした瞬間ぼくが目にしたのは、院生仲間に囲まれて照れたような
顔をした彼が真新しい時計を腕にはめている姿だった。


「どう?」

一人が尋ねるのに進藤は腕を回してみて「うん、結構いい」と答えた。

「でもこんないい時計、おれには勿体無いんじゃねえ?」

「何言ってんだよ、仮にも天元だろ、おまえ。いつまでもおもちゃみたいな時計してたら笑われるぞ」

そう言っているのは和谷くんで、ああ彼が声がけをして仲間内で彼にお祝いをあげたのだと悟った。

(なんて間の悪い)

喜んで貰えるだろうか? そんなことを考えていた気持ちが一気に冷えて行くのを感じる。

「あ、塔矢、見て見てこれ」

しかし当の進藤はそんなぼくの気持ちにはこれっぽっちも気付かずに、けれどぼくの姿には気がついて
無邪気に声をかけて来た。


「…おはよう」

「おはよっ、なあ、見てくれよ、これ」

イイ時計だろ、みんなに貰ったんだといかにも嬉しそうなのがまた癪に触った。

「…良かったね」

「なんだよ、ノリ悪いな。もっと他に言うこと無いん?」

「別に…でも何か言えって言うなら、タイトルの一つではしゃいでいないで、次の手合いに向けて気を引き
締めて貰いたいな」


これであっさり何かの予選なんかで敗退することがあったら元天元として恥ずかしいと、つっけんどんな口
調で言ってしまったのは感情がモロに出てしまったからだ。


なんでキミはそんなにぼく以外の人に貰った時計で喜んでいるのだ――と。

その瞬間、場の空気が一気に白けたものになった。

「なんだよ塔矢、おまえ進藤に負けたからってその言いぐさは無いだろう」

進藤本人よりも腹が立ったらしい、和谷くんが剣のある目つきでぼくに言った。

「別に負けた腹いせに言っているわけじゃない。本当にそう思っているから言っただけだ」

「おまえ…」

「いいよ、もう。これでやめておこうぜ」

こんなことで喧嘩するなんてバカみたいだと止めたのは驚いたことに進藤だった。

「いいじゃん和谷。塔矢の口の悪いのなんていつもなんだし」

「でもよぉ」

「おれがいいったらいいんだ!」

そしてぼくの方を見ると溜息を一つついてから言った。

「バカみたいにはしゃいで悪かった。おまえには『タイトルの一つ』でも、おれにとっては『念願のタイトル』
だったからさ」


ちゃんと手合いには集中する。他の棋戦でも恥ずかしい結果を残すようなことはしないと。

「悪かったな」

言い方は静かだった。でも目が笑っていない。

静かに静かに心の奥底で怒っている。

それがよくわかったのでぼくは黙って顔を背けると一人その場を離れたのだった。


その日一日、ぼくの評判は最低なもので、ふとした合間にこれみよがしにひそひそと言う陰口が聞こえた。

進藤は決して味方が多いわけでは無いが、ぼくのした事に対する反感の方が強かったらしい。親友の勝
ちを素直に祝えないひねくれものと大人しい言い方ですらこう言われた。


傲っていると、人として大切な物が欠けていると、聞こえるように言う声は若手ばかりでは無くて、いかに自
分が日頃反感を買っているのかがよくわかって苦笑してしまった。


(…これで当分進藤とは打てないな)

打てないどころか話をすることも出来なくなった。

彼はさっぱりとした気性だけれど、自分に非がないと思っている時には決して折れない。増してや今回はタ
イトル獲得に水を差されたようなものだから余計に怒りは深いはずだった。


一ヶ月や二ヶ月では済みそうに無い。下手をしたら半年くらい話をして貰えないかもしれいなと絶望的なこと
を考えていたくらいだ。


だから手合いが終わった後、呼び出された時には非道く驚いたし、同時に納得もした。

進藤は今までどんなに非道い言い争いをしても一度もぼくに手を出したことは無かった。

噂に聞く限りでは結構喧嘩早い方らしいのに、どうして殴らないのだろうかと不思議に思ったものだけど、た
ぶんきっと遠慮というか、そこにはらしくない気遣いがあったのだろう。


ぼくはどう見ても喧嘩をし慣れてはいなくて、まともに殴り合いでもしたら勝負にならないのは目に見えてい
るからだ。


(でも今日はその気遣いも失せる程怒っているということか)

自分でもひねくれたことを言ったという自覚がある。だからむしろ殴って貰った方がぼくには気持ちが楽だ
った。




「どこまで行くんだ?」

最初は棋院の中で話したかったらしい進藤は、でも人目が無くならないのに気がついて、小さく舌打ちする
とぼくを外に連れ出した。


ものすごい早足でぼくが付いて来ているのか確認もせずに街中を歩き、気がついたら川沿いの土手を二
駅分は優に歩いた。


「進藤…」

「もうここならいいかな」

市ヶ谷の周辺では人の姿が多い土手の道も、二駅も歩くとほとんど人の姿が無い。

進藤はきょろきょろと辺りを見回すと、いきなりぼくに向かって手を突き出して来た。

(殴られる)

反射的に目を瞑った顔は、けれど痛みを感じることは無く、しばし音が無くなったかのような沈黙が訪れた。

「出せよ」

「え?」

あまりに何事も起こらないので恐る恐る目を開いて見ると、進藤の掌がぼくの目の前にあった。

「今すぐ出せよ、おまえの持ってるもん」

「…お金なら、二万くらいしか持っていない」

「カツアゲじゃねーって!」

真っ赤な顔で怒鳴ってから、進藤は自分を落ち着かせるように大きく息を吸ってからもう一度言った。

「おまえ、何か持ってたじゃん。朝、エレベーターから下りた時は」

見られていた、そう思ったらカッと頬が熱くなった。

「別に何も持ってなんか…」

「持ってた。なのにおれを見たらすぐにそれを隠して、それでその後ずっと変な顔してる」

どうしてそんな傷ついたような顔をしているんだと、それはその隠した物のせいなんだろうと言われて更に
頬の熱さは増して行った。


「別にそんなことは」

「あるだろ。おまえのことはおれ、いつだってちゃんと見てるんだから」

おかしな時はちゃんと解る。だからごちゃごちゃ言っていないで大人しくそれを出して見ろと言われてそれ
でも渋っていたら無理矢理鞄を引ったくられた。


「あーっ、もう、面倒臭いな、おまえ」

そして止める間も無く乱暴に鞄を開けると中を探ってぼくの用意したささやかな贈り物を見つけてしまった。

「やっぱ、あるじゃん」

「それは別にキミとは…」

「関係あるだろ、おれを見て引っ込めたんだから」

そして喋りながらどんどん包装を解いてしまった。

「最初から素直に見せてれば―」

リボンが足元に落ちて風に吹かれる。包装紙はびりびりに破かれて辺りに散った。

そして小さな白い箱の蓋が開かれた瞬間、ぼくは彼が大きく目を見開くのが解った。

「これ――」

「キミのだよ」

観念してぼくは呟くように言った。

「キミにあげたくて持って…来たんだ」

どうだ、もう気は済んだだろうと言ったのに進藤は何故かぼくに時計を返してくれない。

「進藤、もういいだろう、頼むから返してくれ」

「…やだ、だってこれ、おれにくれるんで持って来たんじゃん」

なのにどうして持って帰るなんて言うんだと尋ねられて知らず口調は拗ねたようになった。

「だってキミはもう、素敵な時計を貰ってしまったじゃないか。大切な友達からお祝いとして贈り物を貰って
しまった」


本当はぼくが一番にお祝いをしたかった。なのにキミはそれより早く友達から祝って貰ってしまったのだか
らぼくからの贈り物なんていらないだろうと拗ねた口は言った。


「大体時計なんて、一つあれば充分なのに」

二つもあってどうするとぼくが言った瞬間、進藤は自分がはめていた時計を外した。

そしてぼくが見ている目の前でそれを大きく振り上げると、遠く川面に向かって投げてしまったのだった。

「進―――」

「これで一つになった」

にっこりと笑った顔にぼくは瞬間怒鳴りたくなった。バカじゃないのか、折角友達がくれたものをそんなにあ
っさり捨てるなんてと、でも声は出なかった。


「おれ、おまえのだけでいいんだ」

おまえがくれる物より大切な物なんかこの世に一つも無いんだからと言って、ぼくのあげた時計をその腕
にはめたのだった。


「…キミ、こんなことをしていたら友達を無くすよ」

「だから?」

それが何?と無邪気な顔で彼は言う。

「おれ、おまえだけでいいんだからってさっき言わなかったっけ?」

「言って無い。…そんなこと聞いて無い」

「じゃあもう一回、言ってやるよ」

だからもう二度とこんなことで傷ついたりするなと、そしてぼくの耳元に囁いたのだった。

おれはおまえが居てくれたら、他にはなんにもいらないんだ―と。

そしてぼくを抱きしめる。

その腕にぼくが贈った時計の文字盤が光るのを見詰めながら、ぼくは自分がどれ程罪深い人間であるか、
静かに噛みしめたのだった。



※アキラは悪く無いですよね。でもたぶんヒカルも悪く無い。ただヒカルはこんなことやっていたら本当に友達無くしそうですよね。
毎回恒例の置き土産。冬祭りの代わりにはとてもなりませんが少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。
2014.12.28 しょうこ