地を這うことしかできなくても



「死ね」と書かれた文字に、岡は一瞬凍り付いた。

手合いの後、靴箱から靴を出そうとして見つけた紙切れ。

何だろうと軽い気持ちで摘み上げてみたら、殴り書きのような文字でそう書いてあったのだ。

(誰だ)

咄嗟に顔を上げて周りを見たが、それらしい者は見当たらない。皆岡のことなど気にも留めず自分の靴を取
り上げて去って行く。


気がついたらぽつりと一人きりになっていた。


実を言えば今までも嫌がらせだろうかということは何度かあったのだ。

控え室に置いておいた鞄の中にゴミが入っていたり、靴箱の靴が何故か水で濡れていたり。

上着に泥のようなものが擦り付けられていたこともある。

ただどれも気のせいとも思える出来事だったので、仲の良い庄司にも相談せずに居た。

そうしたら今回はこれである。さすがに岡も落ち込んだ。

そこまで自分を嫌う―憎んでいる誰かが居るということが岡の気持ちを暗くしたのだ。と、そこへ聞き慣れた
声がかけられた。


「あれ? 岡じゃん。おまえ一人で何やってんの」

庄司は? と聞かれて反射的に答える。

「来てません。あいつ今日は手合いじゃ無いので」

エレベーターから降りて来たのは大先輩である進藤ヒカルと塔矢アキラで、院生だった頃若獅子戦で当た
ったのをきっかけに、岡は友人である庄司と共に親しくさせて貰っている。


「進藤さん達も手合いですか?」

「いや、おれらは野暮用。雑誌の取材があってさ、写真も何枚か撮りたいって記者の人が言うもんだから、
いい所無いかなって」


殺風景な記者室よりはと洗心の間を見に来たらしい。

「でもおまえが居るってことは、まだ終わって無いヤツもいるのかな。だったらここは使えないな」

「いえ、大丈夫です、もう誰もいません。ぼくだけです」

そう言いながら岡は慌てて靴を履こうとした。

ショックのあまり立ち尽くし、まだ履いていなかったのを思い出したからだ。

けれど焦ったのが悪かったのか、岡は手に持っていた紙切れを落としてしまった。

「あっ」

声を上げるのと足下に滑って来たそれを塔矢アキラが拾い上げるのは同時だった。

「ふうん」

アキラは興味深そうにそれを見つめた後、隣に居るヒカルにも見せた。

「へえ」

ヒカルは驚いたように目を見開いた後、苦笑のような顔になって言った。

「もうそんな時期かよ。大変だな、おまえも」

「すみません…返してください」

ばつの悪い思いで岡はアキラに手を伸ばした。

尊敬する先輩達に自分の恥部を見られたような、そんな居たたまれない気分だった。

「もしかしておまえ、それで落ち込んでたりした?」

岡の表情や態度から察したのだろう、ヒカルが言う。

「それは…だって、こんなにもぼくを嫌っている人が居るわけですから」

言いながら岡は泣きそうになるのをぐっと堪えた。いくらなんでもそこまでみっともない真似は出来ない。

「んー、まあ気分の良いもんじゃないけどな、でも棋士としては良かったんじゃねーの?」

「はあ?」

思わず頓狂な声が出てしまった。

「いや、そこまでさせる程、おまえが強くなって来たってことだろ」

「岡くん、確かこの前天元戦の予選で結構良い所まで行っていたよね。碁聖戦の予選も今の所勝ち残って
いるし」


「同世代ん中じゃ、庄司とおまえ頭一つ抜けてるよな」

言われても岡にはぴんと来ない。化け物と呼ばれる先輩二人はどうだか知らないが、自分達…少なくとも
自分は人に憎まれる程突出して強いとは思えないからだ。


「あ、おまえ『そんなこと無い』って今思っただろう」

ヒカルに言われて岡は思わず言い返してしまった。

「だって本当にそうですから。進藤さんや塔矢さん達みたいに若手のトップを走っているわけじゃない。ぼく
なんか…全然普通です」


「過ぎた謙遜は時に嫌味にもなるものだけれどね」

アキラに言われて岡はカッと頬を赤く染めた。

「すっ、すみません。そういうつもりじゃ」

「うんうん、わかった。つか、わかってる。岡は滅茶苦茶素直だからなあ。でも努力してるのは本当だろ?
 努力は必ずしも結果に結びつくもんじゃないけど、でもおまえは伸びてる。そこを否定するもんじゃない
よってこと」


「…すみません」

「でも、だからそういうものを貰うはめにもなってしまうんだけれどね」

苦笑しつつアキラが言い、ヒカルを振り返った。

「キミもこのくらいの頃から嫌がらせをされたんだっけ?」

「いや、もうちょっと前かなあ、おれ生意気だから。新人のくせに偉い人と知り合いなのも気にくわなかった
みたいで随分色々意地の悪いことされたよ」


えっと岡が顔を上げる。

「そうなんですか? 進藤さんもこういう…嫌なことをされたんですか?」

「うん。だから言ったじゃん、『もうそんな時期か』って。強いヤツ、ちょっと目立つヤツ、みんなが通る道だか
らさ、岡もあんまり気にすることは無いって」


「そう言えばキミ、昔よく研究会に遅刻して来たよね」

思い出すような口調でアキラが言った。

「そーそー、何故かおれにだけ間違った時間や日付で会の連絡が来たりな。でもそういうおまえだってよく
靴隠されてたよな?」


「あれは迷惑だった。帰るのなんか別に裸足で帰ればいいけれど、また買わなければならないし、そうそう
安いものでも無いし、余程代金を請求してやろうかと思ったくらいだ」


静かな口調ながら不快の念を滲ませてアキラが言う。

「しかも時々片方だけ隠されたりもしたんだ。もしかしたら後でもう片方が返って来るかもしれないから無下
に捨てることも出来なくて、一時は家に片方だけの靴が随分あったよ」


「そう…なんですか」

他に言い様が無くてそう返す。

「それと塩な、塩コーヒー! あれクソ不味いよなあ」

「飲食物関係はよくあったよね。味噌汁に砂糖を入れられたこともあるし」

「さり気なく自分の分だけ無いってのも日常茶飯事だったよなあ」

陰湿な出来事を二人の先輩はなんでも無いことのようにさらりと笑って話している。それが岡には信じられ
なかった。


「誰かに言ったりしなかったんですか?」

「誰に? 篠田師範とかにでも? イジメられてるから助けてって? そんなことしてみろ、舐められまくりだ
ぞ」


「ここは学校じゃない。仮にもぼく達はプロなんだし、そのくらいの盤外戦は切り抜けられるようで無ければ
とてもやっては行けないよ」


じっとアキラに見据えられて岡はごくりと唾を飲み込んだ。

「どうした? びびったか?」

「い、―――いえ」

臆していないと言えば嘘になる。もし強くなることで更に嫌がらせを受けることになるのだとしたら正直穏や
かな気持ちにはなれない。


(でも)

「進藤さんも塔矢さんもそれを乗り越えて来たんですよね?」

「うん、乗り越えたって言うか今も継続中? なにしろおれもこいつもクソ生意気な若造だから」

「一緒にするな。でも確かに中々楽はさせて貰えないね」

「だったら平気です。何されても気にしないようになります。だって、ぼくも強くなりたいから」

顔を上げ、しっかりとヒカルとアキラを見据えて言う岡に先程までの弱気な表情は消えて無くなっていた。

「打って、打って、もっと強くなって、いつか進藤さんや塔矢さんよりも強くなります。だから何をされても負
けません」


きっぱりとした口調にヒカルとアキラは驚いた顔をすると、それから顔を見合わせて笑った。

「言うじゃん」

「まあ、それくらいで無ければね」

大先輩を相手に堂々の追い越す宣言をしたのだということを岡が気がついたのは数秒後だ。

「わ、あっ、わわっ、すみません。つい生意気なことを」

「いや、いいって、こいつも言ってたけどそれくらいじゃなきゃ面白くねーし。来いよ、待ってるから」

「そうだね、ぼく達もまだまだ追いかける側だけれど、追って来て貰えるなら光栄だ。戦う時に容赦はしない
けれど」


「のっ、望む所ですっ」

あははとヒカルが笑った。本当に嬉しそうな声だった。

「じゃあ、そんな岡におれからいいもんプレゼントしようかな」

「は…、え?」

ヒカルはズボンのポケットを探ると中から小さな袋菓子を取り出して岡に渡した。

「なんですか? これ」

「ベビース●ーだよ、知らないのか?」

「いえ、知ってますけど」

何故それをヒカルがくれたのかが解らない。

「さっき言っただろう、よく自分の分だけ無いことがあるって。これからおまえも研究会とか色々顔出すよう
になると思うからこれ持っとけ! 結構いいんだよ、これ。軽い割にちゃんと腹が膨れて」


「だったらぼくからはこれかな」

アキラが肩から提げていた鞄の中から携帯スリッパを取り出して岡に渡した。

「出先でスリッパが無いというのもよくあるんだ。そのくせ裸足で家の中を歩くと失礼だとか文句を言われる。
帰る時に靴を隠されてもこれで帰ればいいしね」


持っているといいと言われて岡は改めてまじまじと先輩二人の顔を見た。

(努力してるんだ)

日々、負けない努力をしている。それを自分も見習いたいと思った。

「ありがとうございます。使わせて頂きます」

ぺこりと頭を下げる岡にヒカルが言った。

「おう、がんばれよ。それで、もしこの先庄司が浮かない顔してることがあったら、おまえが庄司にベビ●ス
ター渡してやるんだぞ」


「そうだね、たぶん彼も近い内に『そういう時期』に入りそうだから」

「はい! 重ね重ねありがとうございます」

「ばあか、塩送ってやったんだよ。近い将来の強敵に」

精々有り難がれよ〜と笑って先輩二人は去って行った。

撮影現場を探しに行ったはずなのにいつまでも帰って来ないと、記者が迎えに来たからだ。

岡は二人が乗り込んだエレベーターにいつまでも深く頭を下げていたけれど、やがてゆっくりと体を起こした。

手の中には小さな袋菓子と携帯用スリッパ。そしてアキラから返された『死ね』と書かれたメモがある。

最初に見た時は心臓を掴まれるような気持ちがしたそれは、今見るとなんでも無いただの二つの文字だった。

「こんなもの…」

気にしない。

気にしている暇は無い。自分はもっと強くなるのだからと心の中で思いながら、岡はメモを握りつぶして側に
あったゴミ箱に捨てた。


スッとした。

その瞬間少しだけ尊敬する先輩達に近づけたような気持ちになって、岡は晴れやかな表情を浮かべると、一人
六階を後にしたのだった。



※誤解される方はいないと思いますが、虐めに耐えろという話ではありません。年齢、岡くん高校生くらい。ヒカルとアキラは二十歳ちょいくらい。
ヒカルもアキラも突出しているし何かとイレギュラーなので叩かれることが多いだろうなと、妬まれたり嫌われたりもするだろうと。
でも黙ってやられるままにはなってないだろうなと思いこういう話になりました。仕返しは碁で、普段は知恵を使ってかわしていることと思います。
岡くんと庄司くんがどれだけ伸びるか未知数ですが強くなるといいなと思います。2015.6.3 しょうこ