情慾
「あの木―」
塔矢が唐突に指した先には、こんもりと茂る濃いピンク色の花があった。
「木…っていうか花じゃん?」
細かい花がわさわさと集まって葡萄の房のようになっている。葡萄とその花の違う所は、細長い枝の先に咲いていて、
上を向いていることだろうか。
「木だよ。さるすべりって言うんだ」
「へえ…もしかして猿が滑るから『さるすべり』?」
冗談で聞いたら、そういう説もあるみたいだよと塔矢は笑いながら言った。
「幹や枝がつるつるなんだって。なんだったらキミ…登って見る?」
「おれは猿かよ」
「いや、キミって木登りとか上手そうだから」
子どもの頃によくやっていたのじゃないかといわれて、じいちゃんの家では登っていたと答える。
「でも、こりゃ無理だよ。枝が細すぎる」
おれなんかが登ったら最初の一足でぽきりと折れてしまいそうだった。
「この木は細いものね」
目を眇めるようにして見てから、独り言のように続ける。
「昔、大きなさるすべりを見たんだ。幹も太くてぼくの背よりもずっと高くて」
それは子どもの頃、夏休みに父に連れて行かれた老棋士の家に植えられていた。
通りから外れた小道を通り、門前に着いた時、ぐるりと庭を囲っている木塀の上から咲き誇る花が見えた。
「はっとするくらい鮮やかな真っ赤な花だったんだ」
四方に枝を伸ばす様は塀の向こうで炎が燃え上がっているようで、しばし言葉を忘れて立ち尽くした。
『どうしたアキラ』
『いえ、綺麗だなって…』
『ああ、あれは先生が大切にしてらっしゃる木だからな』
樹齢百年近いのでは無いかと言われて、更に目を見開いてぼくは花を見続けた。
青い空に燃え立つ赤い炎。
鳴いていた蝉の声と共にそれは鮮烈なイメージとして記憶の中に残っている。
「あれから何度も夏を越して、さるすべりもたくさん見て来たけれど、あんなに見事な花は見たことが無いな」
あんな深い赤も、あんなに鮮やかな色味も他で一度も見たことは無いと。
「ふうん、そんな立派なんだったら、おれも見てみたかったな」
「先生はぼくが中学の頃に亡くなったけれど、お宅はそのまま残っているよ」
だから見る気になればいつでも見られると塔矢は言った。
「でも…」
「でも?」
「何年か後に見た時はあんなに鮮やかには見えなかったんだ」
同じ木、同じ花なのにまるで違うもののように見えたのだと言う。
「生命力って言うか、迫力が全然違っていた」
「木が年を取ったんじゃん?」
それに年によって花にも当り外れがあるのでは無いかと祖父宅で聞きかじった知恵を言って見ると、塔矢はうっすら
と微笑んだ。
「うん、そうなんだよね。それに見た時の気分やぼくが小さかったっていうのも影響したのかもしれないし」
でもねと塔矢はさるすべりを見詰めながら続けた。
「それだけじゃないんじゃないかな…って」
「どういう意味?」
「あの花は本当に燃え上がる炎みたいだった。でもぼくはもっと激しい炎を見てしまったから」
だから色褪せて見えたのじゃないかと言いながら塔矢は俯いて、それから唐突にふっと顔を上げておれを見た。
「ぼくだっていつまでも子どもじゃ無い、綺麗なものばかりじゃなくて、汚いものもどろどろしたものも知るようになっ
た」
あの夏の日の赤い花よりも激しい炎を知ってしまったからと塔矢は笑う。
「だからもう、あんなに綺麗に見えなかったのかもしれない」
他人事のようにぽつりと言った。
「おれだって、大人って胸張って言える程大人じゃないけどさ」
言いながら塔矢の顔を見詰める。
じっとおれを見るその顔は端正で大人びて、でもどこか痛々しい程あどけなかった。
「それでもやっぱり、その花をそんなにも綺麗だとは思わないと思うよ」
赤く、赤く、目に染み入るように赤い。
それはおれにとって、青空に広がる花の色では無い。
初めて抱き合った後に、塔矢の白い足に伝い流れ落ちた血の色と、抱き合った後に掻きむしられた背中の痕だ
った。
「汚れちまったってことかな?」
「違うよ」
ひたりと夏なのに日に焼けることが無い、目の前の白い頬に手で触れる。
「だからそれが――」
大人になったってことなんだろうと、塔矢は言うとおれの手を自分の手でずらし、口元に宛がうと愛しそうにそっと
口づけたのだった。
※百日紅のエピソードは前にも書いたかもです。だから以前に書いたどれかと被っていてもぬるく見守って許してやって下さい。
しかし、この時期あちこちで咲いていますけれど、白やピンクばかりで燃える火のような赤は滅多に見ないですねえ。
やっぱり夏場は暑苦しいからでしょうか? 2010.8.2 しょうこ