西暦 元号 干支 月日 沖田総司房良 年齢 月日 土方歳三義豊 年齢 月日 新撰組
(試衛館・旧幕軍関係)
具体的内容・関係者 月日 幕府・新政府軍ほか 具体的内容・関係者
1864 文久04年 甲子 01.02
(02.09)
小島家と佐藤歳四郎宛、賀状の記録のみがある 23 30 01.02#
(02.09)
海路上洛の将軍家茂の警護のため下坂(『島田魁日記』) この在坂中に、大阪船場の呉服店「岩木升屋」に乱入の浪士を討ち取る話があるが、前年7月2日の事件と混同の可能性あり。この時山南の折れた刀が「赤心沖光」で、この押型が小島家に残る。またこの時山南は致命的な怪我を負った可能性がある。(『異聞録』) 01.07#
(02.14)
松平容保、寒中を御所の白馬の説会に参加(『会津藩庁記録』) 以後、風邪をひき、体調を崩す
1864 文久04年 01.10#
(02.17)
平忠兵衛・作平宛に年賀状(天保山警固図・将軍で迎えの際の布陣図付)
祐筆による代筆か?
01.08#
(02.15)
安治川河口付近で、将軍を出迎え、大坂城入城まで警備(1月10日付平忠兵衛ら宛土方歳三書簡) 公用人仮役・鈴木多門、公用方・秋月悌次郎も同行 01.08#
(02.15)
将軍家茂再上洛のため大坂到着(『勝海舟日記』)(1月10日付平忠兵衛ら宛土方歳三書簡) 6日、天保山沖に着
1864 文久04年 01.14#
(02.21)
家茂上洛の先供として、伏見に先着し、伏見城裏を警備(『勝海舟日記』)(『島田魁日記』)
1864 文久04年 01.15#
(02.22)
家茂の入洛に同道し、二条城裏を守備し、帰陣(『島田魁日記』)(『新撰組史録』) 01.15#
(02.22)
将軍家茂再上洛して、二条城に入城(『島田魁日記』)(『新撰組史録』) 14日に、淀川を水路で京へ向かう
1864 文久04年 01.16$
(02.23)
近藤、中羽田村庄屋代官小沢文次郎宛書簡
1864 文久04年 01.21#
(02.28)
家茂の参内に同道か(4月付土方歳三書簡) 01.21#
(02.28)
家茂、参内し、孝明天皇より庶政委任・攘夷緩和の勅旨(『盤錯録』) 容保ら、同道
1864 文久04年 01.27#
(03.03)
山南、小島鹿之助宛年賀状(『異聞録』) 現物は現存せず。また、この年賀状の追伸に書かれた近藤の書簡も現在ない 01.26
(03.02)
長州藩士・長井精一ら、薩摩藩士・大谷仲之進を暗殺
1864 文久04年 02.01#
(03.08)
四条大橋東詰の高札場に、会津藩と新選組を中傷した高札が建てられる(『甲子雑録』) 01.27
(03.03)
家茂。参内し天皇と会見
1864 文久04年 02.02#
(03.09)
富沢政恕(武州日野領蓮光寺村名主)、屯所を訪問、歳三・総司・源三郎らと酒宴。近藤は不在。山南は病(『旅硯九重日記』) 02.02#
(03.09)
近藤、容保に拝謁(『旅硯九重日記』)
1864 文久04年 02.03#
(03.10)
近藤、富沢政恕の宿舎を訪問(『旅硯九重日記』) 富沢政恕は、地頭の天野雅次郎の用人格として、1月2日出立し、17日着京。4月13日京を出立。
1864 文久04年 02.04#
(03.11)
近藤、土方、容保より8月18日の政変の恩賞として銀を下賜(『両雄逸事』)
1864 文久04年 02.
上旬
近藤、容保に勧められ、病気治療のため、7・8日間湯治に行く(5月20日付中島次郎兵衛宛近藤書簡) 2月13日頃、容保の京都守護職辞任の報に、急ぎ帰京
1864 文久04年 02.06#
(03.13)
夜、五条大橋付近の遊女屋で、乱暴を働いた武州人2名を、巡察中の隊士が捕縛、屯所へ連行(『旅硯九重日記』)
1864 文久04年 02.07#
(03.14)
井上、昨夜の事件を富沢政恕に報告に行くが、不在(『旅硯九重日記』) 02.08#
(03.15)
容保、孝明天皇より御宸翰を賜る
1864 文久04年 02.09#
(03.16)
土方、井上と共に、富沢政恕の宿を訪問するも、不在(『旅硯九重日記』) 02.08#
(03.15)
富沢政恕、屯所に出向き、捕縛された武州人を引き取り、京都から追放(『旅硯九重日記』) 富沢政恕は、ともに上洛していた中小姓格の江坂勝衛に、1月19日の乱酒暴行により、21日に長暇を申し渡す。しかし、これが再度事件を起こし、新撰組に捕縛された 02.11#
(03.18)
容保、京都守護職から陸軍総裁職へ転任を命ぜられる(『会津藩庁記録』) 病身の容保に代わって、家老・神保内蔵之助が、二条城へ登城し、下知を受ける
1864 文久04年 02.11#
(03.18)
富沢政恕、屯所に出向き、江坂勝衛の事件での迷惑を詫びる(『旅硯九重日記』) 02.13#
(03.20)
容保、陸軍総裁職から軍事総裁職へ転出(『会津藩庁記録』) 征長戦の折は、副将として出陣するよう、幕府より内命
1864 文久04年 02.12#
(03.19)
元新徴組を自称する2名の浪士(塩沢・手塚)、木曽妻籠宿で捕縛。(『官武通紀』) 新撰組入隊を希望するが、真偽は不明 02.15#
(03.22)
松平慶永(福井藩主)、京都守護職就任(『盤錯録』)
1864 元冶01年 甲子 02.26#
(04.02)
北野上七軒町の茶屋で遊興中の武士1名と左官2名を捕縛(『風説書』) 02.20#
(03.27)
改元(『孝明天皇紀』)
1864 元冶01年 03.02#
(04.07)
枡屋喜右衛門宅の表戸に体制側を批判する張り紙(『鹿児島県資料・忠義公資料』) 「皇国鋭民」を名乗り、現体制を批判した張り紙で、枡屋の自作自演の可能性が高い 02.28
(04.04)
山内容堂、朝議参与を辞任し帰国 3月9日には、島津久光ら5人の一斉辞職により、朝議参与制度が解体
1864 元冶01年 03.03#
(04.08)
井上と共に、富沢政恕と清水寺を参拝し、祇園の茶屋で酒宴(『旅硯九重日記』) 03.03#
(04.08)
新撰組が従来どおり、会津藩の旗下に置く内定を通達(『会津藩庁記録』)(『京都守護職始末』) 2月下旬ごろ、幕閣に宛てて上書を提出したと思われる 02.29
(04.05)
朝廷、国事参政・国事寄人の制を廃止
1864 元冶01年 03.05#
(04.10)
島原木津屋で桃花の宴(『旅硯九重日記』) 会津藩の指揮下に置かれることになった喜びの宴。
富沢政恕が参加。近藤、土方、井上、沖田、藤堂の名がある
02. 西郷隆盛、薩摩藩の召還を受け、流刑地の沖永良部島から鹿児島に帰還 3月に藩軍の賦役を命ぜられて上洛
1864 元冶01年 03.
上旬#
新撰組中傷の高札が、再三掲げられる(『甲子雑録』)
1864 元冶01年 03.10#
(04.15)
会津藩公用方文書に、会津藩所属が所司代より要請された旨明示(『会津藩庁記録』) 03.18#
(04.23)
大坂東町奉行所与力・北角源兵衛、殺害(『甲子雑録』)
1864 元冶01年 03.11#
(04.16)
島原・千紅萬紫楼にて花見の宴。木津屋で二次会を開く(『旅硯九重日記』) 土方が富沢政恕に参加を促す書状。
富沢政恕が参加。近藤、土方、井上、沖田、藤堂、武田の名がある
03.22
(04.27)
フランス公使・ロッシュ、就任
1864 元冶01年 03.19#
(04.24)
会津藩公用方文書に、新京都守護職の松平慶永の元に配属された折は、慶永を天誅するとの風聞が流れていたと記される(『会津藩庁記録』) 03.25
(04.29)
将軍後見職を廃し、朝廷の指示により一橋慶喜を禁裏守衛総督に
1864 元冶01年 03.某# 長州人医師の倅某を捕縛(『維新日乗纂輯』) 03.27 水戸天狗党の乱 筑波山で藤田小四郎率いる水戸天狗党の挙兵。
1864 元冶01年 03.23
(04.28)
松平容保に京都市中の巡邏を命じられる 04.05#
(05.10)
松平慶永(福井藩主)、京都守護職解任
1864 元冶01年 04.06#
(05.11)
僧介石ら5名、五条通の酒屋小堀某と結託、新撰組を騙り市中で金策したため、捕縛(『世話集聞記』) 04.07#
(05.12)
容保、京都守護職に復職(『会津藩庁記録』)
1864 元冶01年 04.12#
(05.17)
佐藤彦五郎宛に鉢金を贈り、その添え状(「三条繩手のたたかひ」と称する)。富沢政恕に託す 04.11#
(05.16)
千紅萬紫楼で、富沢政恕の送別の宴(『旅硯九重日記』) 04.11
(05.16)
松平定敬、京都所司代に就任 会津藩主・松平容保の実弟
1864 元冶01年 04.12#
(05.17)
佐藤彦五郎・土方為次郎宛の書簡(皇朝よりのご直筆)。富沢政恕に託す 04.15#
(05.20)
小島鹿之助、佐藤彦五郎より新撰組の動静を書簡で報告される(『小島家日記』) 04.14#
(05.19)
容保、京都守護職復職を固辞するも、慰留の幕命が下る(『盤錯録』)
1864 元冶01年 04.12#
(05.17)
佐藤彦五郎宛に日記帳1冊を贈り、その添え状。富沢政恕に託す 04.16#
(05.21)
小島鹿之助、近藤に書簡(『小島家日記』) 内容不明 04.18
(05.23)
中川宮の諸太夫、家が襲われ、母と幼児が惨殺
1864 元冶01年 04.13#
(05.18)
井上と共に、富沢政恕を伏見まで見送る(『旅硯九重日記』) 04.20#
(05.25)
武州柴崎村・中島次郎兵衛、近藤に書簡(5月20日付中島次郎兵衛宛近藤勇書簡) 内容不明 04.20
(04.25)
幕府、朝廷より「諸事幕府への委任」の御沙汰を手にする
1864 元冶01年 04.22#
(05.27)
松原通木屋町での火災の際、不振人物2名のうち1名をを捕縛連行(『幕末維新京都町人日記』) この時、長州人が多数京都に潜伏という自白を得る 04.24#
(05.29)
京都市中の民家に、夜間の木戸門の戸締りと不振人物の注意を徹底させる町触れが提示(『近世野史』)
1864 元冶01年 04.
末頃#
22日に捕縛した浪士の自白に伴い、監察部は随所で探索活動を開始(『島田魁日記』) 『島田魁日記』では5月下旬とあるが。
監察は島田魁、浅野藤太郎、山崎烝、川島勝司
04.24#
(05.29)
京都見廻組、江戸にて結成(『続徳川実記』)*T27 備中浅尾藩主蒔田広孝と旗本交代寄合松平康正が組頭。
幕臣の次男三男が構成員
1864 元冶01年 04.29 *T1(桂捕縛に) 04. 佐久間象山、幕命により上洛*T26 幕府の海陸御備向手付御雇(軍政顧問格)に任命される
1864 元冶01年 05.03#
(06.06)
近藤、新撰組の進退を伺う書状(『改訂肥後藩国事史料』) 会津藩公用方を通じ、幕府老中に宛てて 05.01
(06.04)
横浜鎖港と長州に対する寛大な処分を朝廷に対し誓約
1864 元冶01年 □『流行り?!』 05.某# 男色が流行(5月20日付中島次郎兵衛宛近藤勇書簡) 05.02
(06.05)
諸生党の結成 水戸藩校・弘道館の学徒、天狗党などの藩内激徒を鎮圧することを決議
1864 元冶01年 05.某# 阿部十郎ら、多数が脱走(阿部隆明『史談会速記録』八三輯)(『時勢叢談』) このため脱走者追討の隊記を作成か 05.06
(06.09)
冷泉為恭(画家)、斬殺 大和の丹波市村(天理市)で長州藩士に
1864 元冶01年 05.07#
(06.10)
下坂の家茂の警護に同行(『勝海舟日記』)(『島田魁日記』) 近藤、下坂中に大坂城に登城し、老中松平雅楽頭と会談 05.07
(06.10)
家茂、二条城を出て下坂
1864 元冶01年 05.15#
(06.18)
小島政則、富沢政恕が委託された土方の鉢金や日記帳を見る(『小島政則聴書』) 05.14#
(06.17)
見廻組、会津藩に新撰組隊士の召抱えを申し入れ(『会津藩庁記録』) 会津藩江戸公用方・上田一学へ申し入れ
1864 元冶01年 05.16#
(06.19)
安治川河口で、家茂の東帰を見送る(『勝海舟日記』)(『島田魁日記』) 翌日、帰京か? 05.16
(06.19)
家茂、天保山沖から軍艦で出港
1864 元冶01年 05.18 将軍警護の功労として銀百枚の恩賞を下賜(5月20日付中島次郎兵衛宛近藤勇書簡) 05.20
(06.23)
家茂、江戸へ帰還
1864 元冶01年 05.20#
(06.23)
近藤、多摩郡柴崎村・中島次郎兵衛宛に書簡(5月20日付中島次郎兵衛宛近藤書簡) 前月の中島の書簡への返書
(男色流行などが書かれたもの)
05.21
(06.24)
神戸港に海軍操練所を開設 勝海舟が総管。坂本龍馬ら入所
1864 元冶01年 05.20#
(06.23)
大阪天神橋で内山彦次郎暗殺(『元治新聞紙』)(『新撰組始末記』)*T26 尊攘派による暗殺とも。慶応3年11月の伏見奉行所与力・横田蔵之允殺害との混同の可能性も。実行者は原田・永倉・総司・井上と言われる 05.22
(06.25)
会津肥後守家来・松田鼎、暗殺の上晒し首
1864 元冶01年 05.某# 近藤、谷三十郎の弟谷周平を養子にする(元治1年6月8日付近藤周斎ら宛近藤勇書簡)*T27 勇の独断。周斎にも事後報告 05.25
(06.28)
京都見廻組、組頭の一人備中浅尾藩主蒔田広孝に率いられて入京
1864 元冶01年 この頃# 洛中の市中巡察体制が強化(『孝明天皇紀』) 守護職二組、所司代一組、新撰組一組などとなっている 05.27
(05.30)
中川宮の家臣・高橋健之丞、暗殺
1864 元冶01年 06.01#
(07.04)
宮部鼎蔵の下僕を捕縛(『宮部鼎蔵先生殉難百年記念誌』)(「乃美織江覚え書」) 下僕を南禅寺に生き晒し 05.30#
(07.03)
容保、病状悪化(『会津藩庁記録』)
1864 元冶01年 06.01#
(07.04)頃
鴨川東岸で中間体の不審人物2名捕縛(『時勢叢談』) 拷問で、浪士らが多数潜伏の自白
1864 元冶01年 06.03#
(07.06)頃
潜伏浪士探索の過程で、市中で粗暴行為を起こす(『莠草年録』)
1864 元冶01年 06.04
(07.07)
三条井筒屋父子、捕縛(『住谷信順上京日記』) この父子の捕縛が、池田屋事件の発端と書かれる
1864 元冶01年 06.05#
(07.08)
朝、黒谷の会津本陣を訪れ、不審者探索のため、藩士の協力を要請(『会津藩庁記録』)
1864 元冶01年 06.05#
(07.08)
午前7時ごろ、炭薪商・桝屋の主人、桝屋喜右衛門こと古高俊太郎を捕縛連行(『紀聞集』)(『甲子雑録』)(『会津藩庁記録』)(『改訂肥後藩国事史料』)*T27 捕縛者は武田ら8名。
近藤・土方が拷問(『近藤勇』)(『元治新聞紙』)。拷問風景は創作の可能性大。
市中放火計画を自白(『維新前後之雑記』)。
1864 元冶01年 06.05#
(07.08)
桝屋方を探索、不審な武具を確認し、書状を押収(『甲子雑録』)(『改定肥後藩国事資料』)(『会津藩庁記録』)(『加賀藩資料』)(『京都守護職始末』) 桝屋の土蔵が破られ、武具などが奪取される 06.05#
(07.08)
長州藩邸に、桝屋捕縛の報(「乃美織江覚え書」)
1864 元冶01年 06.05#
(07.08)
急使が再度会津藩本陣へ向かい、公用方の屯所来訪を要請し、会津藩などの本日中の出動も要請(『会津藩庁記録』)(『甲子雑録』) 06.05#
(07.08)
会津藩邸内で藩重役による緊急会議(『会津藩庁記録』)(『甲子雑録』) 容保の決断によって、幕府諸隊に出動要請。新撰組には出動要請受諾の報告
1864 元冶01年 06.05#
(07.08)
昼、隊士はおいおいに屯所を出て、祇園会所に向かう(『新選組遺聞』) 祇園会所で出動準備と、不審箇所の再チェック(『莠草年録』) 06.05#
(07.08)
長州藩邸内で志士ら、善後策を練る(「乃美織江覚え書」) 宮部鼎蔵、吉田稔麿らも交えて会議。当初計画に加えて、新選組屯所襲撃も計画
1864 元冶01年 06.05#
(07.08)
夕刻、新撰組の姿が池田屋近くで目撃(『時勢叢談』)
1864 元冶01年 06.05#
(07.08)
夜、捕縛側の体制整う(『改訂肥後藩国事史料』)(『時勢叢談』) 06.05#
(07.08)
御所の各門前に、浪士探索決行を告知する高札が掲示(『官武通記』)
1864 元冶01年 06.05#
(07.08)
午後7時ごろ、祇園会所を出動、不審箇所の御用改めを開始(『改定肥後藩国事資料』)(『会津藩庁記録』)(6月8日付近藤周斎ら宛近藤勇書簡) 会津藩の出動前に出発
1864 元冶01年 06.05#
(07.08)
土方隊、祗園頼房を探索(『孝明天皇紀』)(『会津藩庁記録』) 06.05#
(07.08)
会津・桑名など、祗園井筒を御用改めは、四つ半時(池田屋襲撃の1時間後)
1864 元冶01年 06.05#
(07.08)
池田屋事件。
午後10時ごろ、近藤隊、池田屋を御用改め(『時勢叢談』)(『改定肥後藩国事資料』)(6月8日付近藤周斎ら宛近藤勇書簡)(『新撰組始末記』)(『七ヶ所手負場所顕ス』)(『島田魁』)(『西川正義先生伝』)(『孝明天皇紀』)(『甲子雑録』)
土方隊、戦闘中の近藤隊に合流*T28
先頭は約一時間。宮部鼎蔵ら9名死亡。
奥沢栄助がほぼ即死、安藤早太郎・新田革左衛門が後日死亡。藤堂額に重傷、永倉指を軽傷、総司昏倒(労咳ではないと言われる)(6月8日付近藤周斎ら宛近藤勇書簡)(『京師騒動見聞雑記録』)(『七ヶ所手負場所顕ス』)(『新撰組始末記』)(『近藤勇』)(『旧夢会津白虎隊』)
1864 元冶01年 06.05#
(07.08)
池田屋内で、志士らの遺留品を調査(『改定肥後藩国事資料』) 私的書簡類が中心で、計画の補強証拠は発見されず
1864 元冶01年 06.06#
(07.09)
未明、戦闘が終結し、隊士の一部は機に応じて幕府諸兵らと合同で随所に御用改めのため援軍出動(『甲子雑録』)(『改定肥後藩国事資料』)(『莠草年録』) 吉田稔麿は、総司に斬られたと言われるが、長州藩邸目前の加賀藩邸前で、会津藩士らと戦闘の末、惨殺されるとも(『防長回天史』) 06.06#
(07.09)
長州藩邸、武装を固めて新撰組らの突入に備える(『孝明天皇紀』)(「乃美織江覚え書」)
1864 元冶01年 06.06#
(07.09)
早朝、新撰組はじめ各藩兵、三条一帯周辺に待機(『莠草年録』)(『甲子雑録』)
1864 元冶01年 06.06#
(07.09)
午前8時ごろ、屯所への帰陣開始(『甲子雑録』)(『莠草年録』) 途中、十津川浪士中井庄五郎と、頭分の隊士が対峙(中沼清蔵『西川正義』)
1864 元冶01年 06.06#
(07.09)
昼ごろ、屯所に帰陣(『島田魁日記』)(『新撰組遺聞』) 捕縛した浪士らを、駕籠にて屯所に連行(『甲子雑録』)
1864 元冶01年 06.06#
(07.09)
会津藩より、医師2名が派遣(『会津藩庁記録』)(『鹿児島県史料・忠義公史料』)(『時勢叢談』)(『官武通紀』)(『甲子雑録』)(『改定肥後藩国事資料』(『孝明天皇紀』)) 奥沢栄助、屯所にて死亡埋葬(即死とも)
1864 元冶01年 06.06#
(07.09)
一隊、即日、再び市中巡察(『西川正義』)
1864 元冶01年 06.06#
(07.09)
夕刻、会津藩より応援として7人の藩士が派遣される(『会津藩庁記録』) この中に、柴司がいる
1864 元冶01年 06.07#
(07.10)
会津藩より、池田屋の恩賞として、金500両などが下賜。近藤には新刀が贈られる(『会津藩庁記録』)(6月8日付近藤周斎ら宛近藤勇書簡)(『島田魁日記』) この日の祇園祭は、決行された
1864 元冶01年 06.07#
(07.10)
朝、四条小橋北の茶屋に不審人物3名の捕縛に出動。四条通の祗園嶋村屋にも出動(『甲子雑録』) 偽証した嶋村屋夫婦も斬殺する。
死番制度があったと旧桑名藩士・加太邦憲が語り残す(『桑名藩京都所司代中の事情』)
1864 元冶01年 06.07#
(07.10)
隊士2名、慈光寺三位邸門前に警備に立ち、不審者らと衝突(『甲子雑録』)
1864 元冶01年 06.07#
(07.10)
会津藩、新撰組の見廻組の加入要請に謝絶の返書を送る(『会津藩庁記録』) 京都町奉行・永井玄蕃とも相談の上、謝絶
1864 元冶01年 06.08#
(07.11)
朝、五条大橋に池田屋事件を批判する張り紙(『甲子雑録』)
1864 元冶01年 06.08#
(07.11)
長州人らが屯所に斬り込むとの噂が流れ、警備を厳重に(『島田魁日記』)
1864 元冶01年 06.08#
(07.11)
浪士らからの押収品の数々を会津藩に引渡し(6月8日付近藤周斎ら宛近藤勇書簡)(『幕末維新京都町人日記』) 5日の御用改めの際尋問した大仏下河原町の本山七郎宅から押収した武具を京都所司代に引渡し(『甲子雑録』)
1864 元冶01年 06.08#
(07.11)
近藤、近藤周斎・島崎近藤三郎・宮川音五郎・萩原多賀次郎・寺尾与次郎・蔭山新之丞宛、書簡 池田屋事件の報告。幕府より与力上席のポストの提示。周平の養子報告も。
6月19日に、日野に届く(『橋本家日記』)
06.09#
(07.12)
長州藩京都留守居役乃美織江、一橋慶喜に対し、池田屋事件を抗議し責任の所在を問う上書を送る(『甲子雑録』)(『莠草年録』)
1864 元冶01年 06.10#
(07.13)
明保野亭事件(6月16日付柴寛次郎宛柴幾馬書簡)(『甲子雑録』)(『莠草年録』)
柴司の兄幾馬、屯所を訪ね、事情を聞く(6月16日付柴寛次郎宛柴幾馬書簡)
東山料亭・明保野に長州浪士の探索のため、武田が率いて隊士15名・応援の会津藩士5名出動。逃走しようとした土佐藩士・麻田時太郎を会津藩士・柴司が槍で手傷を負わせる。総司も共に居たとも。 06.10#
(07.13)
幕府、諸藩へ池田屋事件残党の追捕を命ずる通達(『京都守護職始末』)
1864 元冶01年 06.10#
(07.13)
土佐藩士らが、明保野に集まり、会津本陣や、屯所へ斬りこみするべく気勢を上げる(6月16日付柴寛次郎宛柴幾馬書簡)
夜半、土佐藩氏ら、藩邸に戻る(『会津藩庁記録』)
会津藩に土佐藩より抗議があったとの風聞(『甲子雑録』)
土佐藩士の襲撃に備えて、屯所は終夜体制で厳戒警備(『会津藩庁記録』)(6月16日付柴寛次郎宛柴幾馬書簡)
1864 元冶01年 06.10#
(07.13)
古高俊太郎の身柄を、屯所から六角獄舎へ移す(『同方会誌』)
1864 元冶01年 06.11#
(07.14)
朝、柴司、屯所を出て、黒谷の会津本陣へ(6月16日付柴寛次郎宛柴幾馬書簡) 途中、兄幾馬、外三郎と面談。
会津藩は土佐藩に対し、藩医や見舞い品を遣わすが、拒絶される
1864 元冶01年 06.11#
(07.14)
隊士20名、1人の人物を駕籠で屯所に連れ帰る(『幕末維新京都町人日記』)
1864 元冶01年 06.11#
(07.14)
土佐藩士・麻田時太郎、土佐藩邸内で自刃(6月16日付柴寛次郎宛柴幾馬書簡) 後ろ傷だったため、詰め腹を斬らされる
1864 元冶01年 06.12#
(07.15)
会津藩士・柴司(21歳)、兄外三郎の介錯で切腹(6月16日付柴寛次郎宛柴幾馬書簡) 06.13#
(07.16)
池田屋事件の第一報が長州藩に(『浦靭負日記』) 7日に、京を出立した有吉熊十郎によって届けられる
1864 元冶01年 06.13#
(07.16)
会津藩士・柴司、葬儀(6月16日付柴寛次郎宛柴幾馬書簡) 歳三・井上・河合耆三郎、葬儀に参列。武田・浅野、葬儀に参列し弔歌を詠む。黒谷の会津墓地に墓がある 06.15
(07.18)
五稜郭、完成

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