西暦 元号 干支 月日 沖田総司房良 年齢 月日 土方歳三義豊 年齢 月日 新撰組
(試衛館・旧幕軍関係)
具体的内容・関係者 月日 幕府・新政府軍ほか 具体的内容・関係者
1864 元冶01年 06.16#
(07.19)
佐藤彦五郎方へ、書簡が届く。また、佐藤は近藤へ書簡を送る(『橋本家日記』)この書簡は現存しない 06.17#
(07.20)
小島鹿之助に、近藤より書簡と借用した金子として3両の返金(『小島政則聴書』) 佐藤彦五郎、池田屋の報を聞く(『小島政則聴書』)江川太郎左衛門の手附の柏木荘造より伝えられる 06.16
(07.19)
水戸藩士、一橋家家老・円四郎を暗殺
1864 元冶01年 06.18#
(07.21)
小島鹿之助、近藤より返済の金子のうち1両1分を、野津村の石坂又次郎に渡す(『小島家日記』) 06.16
(07.19)
長州軍、京へ向け進発 先鋒として久坂玄瑞・真木和泉率いる藩兵300名。後、福原越後300名、来島又兵衛600名、益田右衛門600名
1864 元冶01年 この頃# 隊士2名、市中で不逞浪士に惨殺される(『甲子雑録』)
1864 元冶01年 06.20#
(07.23)
佐藤彦五郎宛書簡(池田屋事件の武功に対し、禄位を与える内示が下ったことについて)
筆写のみで現存せず
06.21#
(07.24)
夜半会津藩よりの要請で、隊士らが東六条近辺を探索(『島田魁日記』) 西本願寺境内で一泊、翌日続いて探索し、壬生に帰陣 06.21#
(07.24)
長州軍(先鋒)、大阪上陸 家老:福原越後、国司信濃、益田右衛門介
1864 元冶01年 06.24#
(07.27)
未明、近藤、隊士を率いて東本願寺で一服(『東本願寺史料』)(『幕末維新京都町人日記』) 06.22
(07.25)
政治総裁職・松平直克を罷免。以後、同職は廃止
1864 元冶01年 06.24#
(07.27)
会津藩からの要請により、武田街道警備に出陣し、九条河原に宿陣(『島田魁日記』)(7月2日付佐藤彦五郎宛土方歳三書簡)(加太邦憲『桑名藩京都所司代中の事情』) 総司は不参加? 06.24#
(07.27)
前神奈川奉行・安部正外、老中に任命
1864 元冶01年 06.24#
(07.27)
夜半、厳戒態勢の中で諸藩兵らと分担して市中警備(『甲子雑録』) 26日には、見物客などが多数押しかける(『甲子雑録』)(『元治甲子戦争記』) 06.24#
(07.27)
伊藤博文、井上馨、四カ国砲撃の報を受けて、英国留学を中止し帰国
1864 元冶01年 06.27#
(07.30)
長州軍襲来の報が、九条河原に届く(『京都守護職始末』) この急報に、九条河原から東寺に近い四つ塚へ警備のため転陣
会津藩士伊東弄花、九条河原の新撰組や幕府諸隊を目撃、陣屋にて写生(同図添書)(同図は、会津若松の鶴ヶ城内に保管)
06.24#
(07.27)
勝海舟、池田屋事件の報を聞き、新撰組を批判(『勝海舟日記』)
1864 元冶01年 06.28#
(07.31)
四つ塚より、九条河原に戻る(『七年史)』 06.25#
(07.28)
長州軍(先鋒)、天王山に布陣 福原越後が伏見(24日)、来島又兵衛・国司信濃が嵯峨天龍寺(28日)、益田右衛門介が八幡(24日)に布陣
1864 元冶01年 07.01#
(08.02)
近藤、佐藤彦五郎、小島鹿之助宛書簡(『橋本家日記』)
伏見へ出陣の旨を記す
8月2日、この手紙日野へ着。写本が現存するが未公表
1864 元冶01年 07.02#
(08.03)
佐藤彦五郎宛書簡(長州軍と対峙している報告)
筆写のみで現存せず
07.02#
(08.03)
川島勝司、嵐山方面の長州軍を探索。2度報告書を送る(『会津藩庁記録』)
1864 元冶01年 07.03#
(08.04)
近藤、養女(13歳)を得たとの風聞が郷里に届く(『小島政則聴書』) この養女は、周平を娶わせるためのものか?
また、総司に恋心を打ち明け懐剣で自害しようとした女性は、この女性か?
1864 元冶01年 07.05#
(08.06)
警備していた東洞院通りを通った西瓜売りを不審に思い調べた結果、刀などが発見されたので捕縛(『風説書』)
1864 元冶01年 07.06#
(08.07)
岡山藩の偵察のため派遣されていた、新選組密偵・松山幾之介が斬殺される(『新選組松山幾之介等岡山ニ潜伏一件』) 翌7日、首級が梟首。
犯人:岡元太郎ら7名
07.07#
(08.08)
松前藩主・松前崇広、老中格 11月10日、老中に昇進
1864 元冶01年 07.08#
(08.09)
四条付近で、長州藩斥候2名を捕縛。屯所で尋問後、九条の陣所へ連行中逃走され、1名のみ再捕縛(『会津藩庁記録』) 07.11#
(08.12)
永井尚志らを、伏見に布陣する国司信濃の元へ派遣し、撤退要請するも、拒絶される
1864 元冶01年 07.13#
(08.14)
池田屋惣兵衛、六角獄舎内で病没(浄円寺過去帳) 世間を慮ってか笹谷重助名で埋葬 07.11#
(08.12)
佐久間象山、暗殺*T29 犯人は、肥後・河上彦斎、因州・南長次郎
1864 元冶01年 07.17#
(08.18)
長州との戦闘目前の中、優柔不断な一橋慶喜に怒り、会津兵と共に宿舎に乱入(『京都守護職始末』) 07.18#
(08.19)
長州軍、会津藩討伐を名目に進撃(『藝藩誌』)(『近藤勇』) 夜10時ごろから、翌未明にかけて御所を目指して出立
1864 元冶01年 07.17#
(08.18)
佐久間象山の子・佐久間恪次郎(三浦啓之助)、入隊 象山の敵を討つべく、会津藩士山本覚馬の紹介で入隊
1864 元冶01年 07.19#
(08.20)
蛤御門の変(禁門の変)に、九条河原の新撰組、堺町御門まで出動(『島田魁日記』)(『近藤勇』)(加太邦憲『桑名藩京都所司代中の事情』)*T29 永倉・原田、負傷 07.19#
(08.20)
蛤御門の変(禁門の変) 御所に発砲した長州軍を退ける
兵火により、21日まで燃え、811町、約28000戸が焼失(鉄砲焼け)
1864 元冶01年 07.20#
(08.21)
天王山集結の長州兵らを追討のため、会津藩兵らと共に、京都を出陣し、伏見に泊まる(『島田魁日記』) 鳥羽伏見の戦いの折、一緒に伏見を警護した林権助と、この時一緒。
また、この伏見での探索で潜伏している兵を討ち取る(『官武通紀』)
07.20#
(08.21)
六角獄舎で惨殺(『改訂肥後藩国事史料』)(『新撰組顛末紀』) 六角獄舎に収容されていた国事犯33名を町奉行所が惨殺。古高俊太郎も。新撰組の仕業と言われていた
1864 元冶01年 07.21#
(08.22)
山崎天王山の戦い(『島田魁日記』)(『七ヶ所手負場所顕ス』)(『甲子雑録』)(柴太一郎『史談会速記録』九八輯)(『改訂肥後藩国事史料』)
天王山に真木和泉ら17名を攻める。真木和泉自刃。*T29
早朝より、伏見より天王山へ出陣。隊と二分して、一隊は土方が率い山下に詰め、近藤は残りを率いて、会津藩の神保内蔵之助とともに、天王山へ上った。山下では、隊士が村に火を放つ。
この時は総司も参加?
07.21#
(08.22)
孝明天皇、長州藩に対する追討令
1864 元冶01年 07.21#
(08.22)
天王山での戦闘終結後、橋本で休憩。その後枚方を経、船で大坂御堂に入る(『島田魁日記』)
1864 元冶01年 07.22#
(08.23)
大坂で残党狩り(『島田魁日記』) 2日間、残党狩りを行う
1864 元冶01年 07.22#
(08.23)
安藤早太郎、死亡(壬生寺墓碑銘)(『同志連名記』)(『新選組遺聞』) 前後して、新田革左衛門も死亡
1864 元冶01年 07.23#
(08.24)
大坂市中探索後、昆陽宿で押収品を得、屯所へ戻る(『島田魁日記』)(『官武通紀』)(『莠草年録』) この日付は、実質25日に山崎烝、河合耆三郎が出張し、27日荷物の引渡し 07.23#
(08.24)
朝廷、禁裏守衛総督の慶喜に長州藩追討の勅命
1864 元冶01年 07.24#
(08.25)
大坂町奉行所は以下で市中見回りの任務につく(『大阪市史』) 07.24#
(08.25)
幕府、西国21藩に出兵命令
1864 元冶01年 07.27#
(08.28)
小島鹿之助、佐藤彦五郎に、近藤と土方の安否を尋ねる(『小島家日記』)(『小島政則聴書』) 禁門の変での大火の報を受けてのもの 07.27#
(08.28)
江戸の長州藩邸を没収 庄内藩が新徴組隊士を使い行う。
8月8日、取り壊し処分
1864 元冶01年 07.28#
(08.29)
小島鹿之助に、小林某より近藤戦死の風聞が伝えられる(『小島家日記』)(『橋本家日記』) 07.某# 残りの見廻組、旗本交代寄合松平康正が率いて入京
1864 元冶01年 08.01#
(09.01)
小島鹿之助父子、京より帰還した会津藩士に面会した近藤家生家の話により、近藤と土方の無事を確認(『小島政則聴書』) 08.02#
(09.02)
第一次長征令下る 西国の35藩に出兵を命じる
1864 元冶01年 08.02#
(09.02)
佐藤彦五郎より、近藤と土方の書簡が小島鹿之助に届く(『小島家日記』)(『橋本家日記』) 近藤の書簡は、7月1日付のもの。土方の書簡は7月2日付のもの 08.03#
(09.03)
一橋慶喜より、朝廷に対し、禁門の変における幕軍戦死者や戦果の報告(『嘉永明治年間記録』)
1864 元冶01年 08.04#
(09.04)
松本喜次郎と河合耆三郎、摂津国嶋上郡高浜村に出張し、村民らに長州軍との関係を尋問(『島本町史』) 前月、山崎大念寺に宿陣していた長州軍との係わり合いを調査 08.05
(09.05)
紀州藩主・徳川茂承を征長総督、越前藩主・松平茂昭を副総督に命じる 2日後、徳川茂承は総督を辞退。元尾張藩主・徳川慶勝を征長総督に任命
1864 元冶01年 08.04#
(09.04)
幕府から池田屋事変の恩賞金が支給(『会津藩庁記録』) 08.05
(09.05)
馬関戦争(アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻、下関の長州軍を攻撃) 8日までにすべての砲台を破壊
1864 元冶01年 08.11#
(09.11)
武州の後援者らに、再度、近藤死去の風聞が伝わる(『小島政則聴書』) 小山田村の丹二郎より伝えられる 08.08
(09.08)
長州藩、高杉晋作を正使として連合国に講和を求める 14日、停戦協定成立
1864 元冶01年 08.12#
(09.12)
小島鹿之助ら後援者3名、連名で近藤ら旧知の首脳5名に安否を気遣う書簡(『小島政則聴書』)(『橋本家日記』) 土方の甥の源之助に、近藤・土方・山南・沖田・井上宛の手紙を託す。
この書簡は現存せず
08.11
(09.11)
鴻池善右衛門、加島屋作兵衛に、各6万両を、その他京坂の豪商14人に対し、長州征討の軍資金献納を命じる
1864 元冶01年 08.15#
(09.15)
老中稲葉正邦から、容保に宛てて将軍名で、新撰組らに対し、禁門の変の感状が下される(『会津藩庁記録』)(『盤錯録』) 08.13
(09.13)
第一次長州征伐発令
1864 元冶01年 08.19#
(09.19)
小島鹿之助・橋本道助らに宛、二通の書簡(新入隊士の上洛を要請)
近藤の次兄宮川総兵衛に書簡を託す
08.18#
(09.18)
斎藤弥九郎の義弟・斎藤九一郎ら5名捕縛(『見聞録抜抄』)(『新撰組始末記』) 禁門の変の折、西本願寺侍臣らとともに同寺門主を警護して御所内に入り、長州勢と合流する計画を立てていた。
この斎藤九一郎は、谷三十郎と神陰流の同門
1864 元冶01年 この頃# 西本願寺侍臣ら2名を、長州藩士ら援助の嫌疑により捕縛(『新撰組始末記』) 08.22
(09.22)
朝廷、長州藩主・毛利敬親と、世子・定広の官位を剥奪
1864 元冶01年 08.23#
(09.23)
武州の後援者ら、近藤らの無事を正式確認(『小島政則聴書』)(『橋本家日記』) 佐藤彦五郎から、小島家に、京にいた宮川総兵衛(近藤らの無事を報告)と、沖田淋太郎(江戸の会津藩邸で新撰組の無事を確認)からの書簡の写しを添えた書状が届く 08.23#
(09.23)
坂本龍馬、勝海舟邸を訪ね、京での見聞を語り、市民が新撰組に批判的であると報告(『勝海舟日記』) 坂本龍馬は、池田屋事件直後に京に入り、禁門の変直前の混乱を実見
1864 元冶01年 08.24#
(09.24)
武州で新撰組に威名高まる(『小島政則聴書』) 08.25
(09.25)
長州藩領への武器・食糧などの輸送・搬入を禁止
1864 元冶01年 08.
下旬#
容保に建白書提出(『新撰組始末記』)*T30 近藤が増長したため、永倉・原田・斎藤・尾関雅次郎・島田魁・葛山武八郎ら6名が、建白書を提出 08.30
(09.30)
朝廷、家茂進発の勅命
1864 元冶01年 08.
下旬頃#
藤堂、近藤の東下に先立ち、江戸へ出立。隊士募集のため(『新撰組顛末記』) 藤堂の東下の時期は確定しておらず、天王山に参戦したとも言われるが、それより以前の池田屋事件直後に、療養のため東下可能性もある。また、宮川総兵衛とともに出立した可能性もある
1864 元冶01年 09.04#
(10.04)
近藤と土方の書簡、小島鹿之助らの元へ届く(『橋本家日記』)
どちらも現存せず
5日、小島政則、日記に前日の近藤の書簡の内容を記す(『小島政則聴書』) 09.03
(10.03)
弁天岬台場の工事終了
1864 元冶01年 09.05#
(10.05)
近藤、将軍上洛を促すためと、隊士募集の為江戸に出立(『新撰組顛末記』) 永倉新八・武田観柳斎・尾形俊太郎同行
1864 元冶01年 09.06#
(10.06)
葛山武八郎、切腹(『往詣記』)(『同志連名記』)*T31 建白書提出の全責任を取っての切腹と思われる。他は3ヶ月もしくは100日の謹慎
1864 元冶01年 09.07#
(10.07)
市中に張り紙をし幕府や会津藩を糾弾した水口貢が捕縛され、更に新撰組は一味と思われる町人を捕縛(『会津藩庁記録』)(『盤錯録』) 水口貢は、鷹司家家臣。捕縛した町人は4名
1864 元冶01年 09.09#
(10.09)
近藤ら、夕刻江戸着(『橋本家日記』)*T31 箱根の関所も駕籠から降りず乗り打ち。武家伝奏坊城克俊を護衛して
1864 元冶01年 09.10#
(10.10)
江戸の会津藩邸を挨拶に訪問(『新撰組顛末記』) 藩邸内で西郷と会ったというが、西郷がこの時期江戸にいた可能性はない 09.11
(10.11)
征長軍総参謀・西郷隆盛、勝海舟と大坂で会見 勝海舟の「雄藩連合」に共鳴
1864 元冶01年 09.10#
(10.10)
小島鹿之助ら、近藤帰着の報を受け、江戸へ(『小島政則聴書』)(『小島家日記』) 15日、小島鹿之助、近藤との面会を終え帰宅
1864 元冶01年 09.12#
(10.12)
佐久間恪次郎(三浦啓之助)、義母の順子宛書簡 新撰組への入隊報告。
順子は、勝海舟の妹
1864 元冶01年 09.16#
(1016)
勝海舟宛書簡(三浦啓之助について・代筆) 09.17#
(10.17)
橋本皆助、橋本才蔵、石坂又次郎ら3名、近藤不在で会えず(『橋本家日記』) 18日、橋本皆助ら3名、再訪し、近藤と面談(『橋本家日記』)
1864 元冶01年 09.18#
(10.18)
芹沢の一周忌。この頃、壬生村共同墓地に芹沢鴨、平山五郎の名を連刻した墓と、7名連刻の墓を建立(壬生寺墓碑銘) 7名の墓の右脇に詩文が刻まれている(魂魄帰天地 此生奈有涯 定知泉下鬼 応是護皇基)。
この2基の墓碑に刻まれた字は同じもので、尾形俊太郎の筆跡と考えられる
1864 元冶01年 09.
中旬#
近藤ら、松前伊豆守に面会(『近藤勇』) 尾形、武田も同行。永倉は脱藩者のため同行せず
1864 元冶01年 09.
中旬#
近藤、伊東甲子太郎と面談(『新撰組顛末記』)(『新撰組始末記』)*T31 藤堂は、以前出入りしていた伊東道場の道場主伊東甲子太郎に入隊を要請する 09.21
(10.21)
徳川慶勝(前尾張藩主)、入京
1864 元冶01年 09.21#
(10.21)
小島鹿之助宛書簡(付け文の束を一緒に送る) この頃# 武田観柳斎、本所在住の旧友を訪ね、池田屋事件の折に捕縛した志士から奪取した書『傍観紀事』を譲り渡す(『丁卯雑拾録』) 09.22
(10.22)
四国の外交代表と下関取極書に調印 300万両の賠償金支払いと下関または瀬戸内海の一港開港を約束
1864 元冶01年 09.23
(10.23)
浅野藤太郎とともに、北沢正誠を訪れ、佐久間恪次郎(三浦啓之助)の帰藩を検討させ、25日3名の松代藩士が屯所を訪ね、帰藩を促すが、謝絶 09.28
(10.28)
近藤、歳三宛書簡
1864 元冶01年 09.30#
(10.30)
近藤、日野佐藤家で、小島鹿之助・橋本道助らと面談(『橋本家日記』) 29日、翌30日日野へ訪れる旨、連絡が届く(『小島政則聴書』)
1864 元冶01年 10.01#
(10.31)
近藤、日野から八王子へ出張。夜、江戸へ戻る(『橋本家日記』) 近藤、八王子にて子安村の医師秋山佐造に愛刀を見せ、刀剣の話をし、秋山は虎徹を見て漢詩を作る(10月13日付小島鹿之助宛秋山佐造書簡)
この頃、中島登、入隊を希望するも長男のため、在野のまま近国の状況偵察を命ぜられる
1864 元冶01年 10.05#
(11.04)
笹塚峰三、依頼により新撰組を除隊し、旧主の元へ戻る(10月9日付近藤勇・佐藤彦五郎宛土方歳三書簡) 10.05#
(11.04)
元尾張藩主・徳川慶勝、征長総督に就任 副総督は越前藩主・松平茂昭
1864 元冶01年 10.07#
(11.06)
武州より近藤の門人2名上京し、入隊のため屯所を訪れる(10月9日付近藤勇・佐藤彦五郎宛土方歳三書簡) 門人:松木元太郎、小林重太郎。入隊は不許可
1864 元冶01年 10.09#
(11.08)
近藤・佐藤彦五郎宛書簡(門人が刀を持たずに入隊を希望) 10.08#
(11.07)
近藤が9月28日に送った書簡が、土方の元に届く(10月9日付近藤勇・佐藤彦五郎宛土方歳三書簡) 現存せず
1864 元冶01年 10.11#
(11.10)
神田和泉橋の医学所に医学所頭取・松本良順を訪れる(『蘭疇自伝』)*T31 諸外国について尋ね、西洋文明の進歩を聞く。八王子の医師・秋山の紹介らしい 10.11#
(11.10)
徳川慶勝、長州藩への攻撃開始を11月18日と定め、諸般に通達
1864 元冶01年 10.12#
(11.11)
江戸での入隊希望者名を、会津藩に通達(『会津藩庁記録』) 入隊者22名 10.21
(11.20)
長州藩、幕府への恭順謝罪を表明するため、奇兵隊ほかの諸隊に解散を命じる
1864 元冶01年 10.14#
(11.13)
近藤、松本良順を再訪し胃薬をもらい、京での再会を約す(『蘭疇自伝』) 東下の間の宿舎は、小石川にある東本願寺の末寺の新福寺 10.22
(11.21)
大坂城で軍議
1864 元冶01年 10.15#
(11.14)
近藤ら、江戸を、新入隊士を伴い出立(井上家文書) 佐藤彦五郎の書簡には、出立は16日。藤堂は残留 11.01
(11.29)
幕府軍、征長軍総督大坂を出発
1864 元冶01年 10.
下旬
伊東甲子太郎の妻うめ、伊東の母こよに一同出立を報じる この手紙によると、伊東の出立も近藤と同じ15日 11.01
(11.29)
元水戸藩執政・武田耕雲斎、天狗党勢と合流し、一橋慶喜に攘夷を訴えるため京へ
1864 元冶01年 10.26$
(11.25)
長姉みつ、久満を出産 10.27#
(11.25)
近藤ら、帰京(11月27日付小島鹿之助宛橋本道助書簡)*T32 この書簡は現存するが、未公開。
篠原の記録には、伊東一派は別隊をとったとされるが、意図的な間違い
11.03
(12.01)
西郷隆盛、周防に入り、長州藩に幕府への恭順を勧告 岩国藩主・吉川経幹を通じて行う
1864 元冶01年 11.01#
(11.29)
郷里に、近藤は書簡を、土方は鉄扇を送る(11月27日付小島鹿之助宛橋本道助書簡) いずれも現存せず 11.04
(12.02)
高杉晋作、脱藩して筑前の福岡に上陸 10日から、野村望東尼の平尾山荘に潜伏
1864 元冶01年 11.17#
(12.15)
近藤、銀蔵と名乗る隊士1名を伴い、会津藩邸を訪れる(『小野権之丞日記』) この時点で在隊が確認される「銀蔵」は、小原銀蔵がいる 11.10
(12.08)
勝海舟、軍艦奉行を罷免され、謹慎を命じられる 慶応1年3月、神戸海軍操練所は閉鎖
1864 元冶01年 11.某# 長州出兵に備え、『軍中録』「軍中法度書」作成(『異聞録』)(『新撰組史録』) 永倉は、近藤批判で謹慎処分中 11.11
(12.09)
長州藩、蛤御門の変の責任者として、三家老を切腹。翌日参謀役4名斬罪
1864 元冶01年 11.某# 四条南座上演中に新選組隊士が粗暴行為(『維新史跡図説』) 演目は忠臣蔵。芸妓の君尾に狼藉。けれど、えらく出来すぎのような話 11.15
(12.13)
中山忠光、暗殺 潜伏先の田耕村(山口県豊北町)で
1864 元冶01年 12.02#
(12.30)
隊士50名、夕刻瀬田へ出張(『中山忠能日記』) 水戸天狗党西上の報に、翌3日、一橋慶喜が出陣する。それに先立っての出動と思われる 11.16
(12.14)
幕府軍、広島に布陣
1864 元冶01年 12.
上旬頃#
近藤、容保の名で、大阪の豪商から銀6600貫(金7万1000両)を借金(『鴻池善右衛門』)(『筆叢拾遺』) 加賀屋からの献金と合わせ、5万両は会津藩へ供出。残り2万5000両ほどは、新撰組の元へ 11.18
(12.16)
長州総攻撃の予定
1864 元冶01年 12.13#
(01.10)
大坂の加賀屋より新撰組に銀60貫の軍用金を調達する旨の請書(大東市立歴史民族資料館文書) 近藤の加賀屋への借用依頼は、前月11月15日。グループ全体として3500両の献金 12.16
(01.13)
高杉晋作、遊撃隊・力士隊を率いて決起 下関の藩会所を襲撃制圧
1864 元冶01年 12.20#
(01.17)
大村安宅(24歳)、横浜で切腹刑(『秦林親日記』)(秦林親『史談会速記録』八〇輯)(『新撰組始末記』) 江戸での隊士募集に応じた一人だが、かつて横浜で外国人に暴行した責を問われた 12.16
(01.13)
天狗党、新保村(福井県敦賀市)で、加賀藩兵に降伏 慶応1年2月4日、首謀者の斬刑
1864 元冶01年 12.25#
(02.02)
酩酊して壬生に佐藤安二郎を訪ね、醜態をさらした幕府奥詰の戸田祐之丞に改易の処分 元治1年2月中に起きた事件の処分言い渡しと思われ、元治1年12月の誤記と思われる
1864 元冶01年 12.某# 五条坂に潜伏中の不貞浪士11名捕縛(『島田魁日記』) 12.27
(01.24)
徳川慶勝、征長軍に解散・撤収を命じる

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