西暦 元号 干支 月日 沖田総司房良 年齢 月日 土方歳三義豊 年齢 月日 新撰組
(試衛館・旧幕軍関係)
具体的内容・関係者 月日 幕府・新政府軍ほか 具体的内容・関係者
1865 元冶02年 乙丑 01.02#
(01.28)
小島鹿之助宛年賀状 24 31 01.08#
(02.03)
大坂ぜんざい屋事件(『新撰組始末記』)(『維新土佐勤皇史』) 谷万太郎らが松屋町のぜんざい店・石蔵屋を急襲、大坂焼き討ちを画策する大利鼎吉を討ち取る 01.02 高杉晋作ら、挙兵
1865 元冶02年 01.03#
(01.29)
小島鹿之助と小島家参人宛年賀状。前日のものと文面が似ているため、前日の追伸文に書き足した第二の年賀状とも推察されるが、慶応2年以降の可能性も 01.03#
(01.29)
佐藤芳三郎宛年賀状(総司代筆)。
同日の総司の年賀状と内容が酷似。
慶応2年以降の可能性も
01.10#
(02.05)
谷万太郎、正木直太郎、石蔵屋事件の報告書を屯所へ送る(『会津藩庁記録』) この中に、新撰組を脱隊していた阿部十郎こと高野十郎がいる 01.08#
(02.03)
松平慶永、山科宮らに書簡を送り、長州を脱藩した浪士らを、再暴発阻止のため新撰組形式で幕府へ雇用する意図があることを伝える(『続再夢紀事』)
1865 元冶02年 01.03#
(01.29)
土方隼人・土方伊十郎宛年賀状(総司代筆)。
同日の総司の年賀状と内容が酷似。
慶応2年以降の可能性も
※ふっふっふ。総司ったら、土方さんの代筆なんかしちゃって〜v
01.11#
(02.06)
大坂天神橋に、新撰組執筆による、容保の賞賛と不逞人物への天誅予告を告げる檄文を張り出す(『鍾奇斎近世風聞雑記』) 書名はないが、新撰組の有志によって張り出されたと思われる 01.15 長州藩主父子の服罪により、将軍進発を中止する旨の布告
1865 元冶02年 01.19#
(02.14)
津藩士中村佐馬、屯所を訪ね、大坂の情勢などを聞く(『朝彦親王日記』) ※津藩って言ったら、藤堂藩の事だよねぇ。この時藤堂平助はここにはいないわけだけど……
1865 元冶02年 01.26#
(02.21)
京都市中に佐々木六角源氏を名乗る不審者の一団が跋扈し、新撰組も出動し、捕縛(『幕末維新京都町人日記』)(『島田魁日記』)
1865 元冶02年 01.27#
(02.22)
隊士30名、大坂堂島の播磨屋庄兵衛方に潜伏中の佐々木六角源氏太夫一味の不逞浪士らを、1名斬殺。24名捕縛(『元治漫録』) 前々日に見廻組が捕縛した中心人物からの自白により、京・大坂で成果を上げる。播磨屋事件といわれる 01.30#
(02.25)
容保、家茂の上洛要請のため、東下を志し、朝廷に裁可を請う(『盤錯録』)
1865 元冶02年 01.某 前年7月の活躍を賞した感状を下賜。朝廷からと思われる(『新撰組史録』) 感状原文は伝わっていないが、『近藤勇/松村巌』にも「新撰組へ」との表書きで同感状が収録されている
1865 元冶02年 02.
上旬#
容保に拝謁して、東下に同行を希望するが、慰留される(2月9日付佐藤彦五郎宛土方歳三書簡) 02.22#
(03.19)
山南敬介、脱走(『新撰組顛末記』)*T32 追っ手は総司。大津にて捕まる。
また、この日40〜50名の隊士が、出動する騒ぎがあった
02.01#
(02.26)
容保の東下希望、朝廷に裁可される(『京都守護職始末』) 容保の東下は実現せず
1865 元冶02年 02.09#
(03.06)
佐藤彦五郎宛書簡(行軍録に永倉の名前がない理由など) 02.23#
(03.20)
山南敬介(32歳)、屯所にて切腹(『新撰組顛末記』)(『新撰組始末記』)(『両雄士伝』)(『同志連名記』)(『残しおく言の葉草』)*T33 介錯は総司 02.14 真木和泉の息子・菊四郎、下関で暗殺
1865 元冶02年 02.24#
(03.21)
山南敬助の葬儀。光縁寺へ埋葬(『新選組遺聞』)(『往詣記』)(『光縁寺墓碑銘』)
1865 元冶02年 02.
下旬#
屯所移転のため、西本願寺と交渉を開始(『新撰組始末記』) 交渉は、土方・斎藤・山崎ら
1865 元冶02年 02.28#
(03.25)
西本願寺側は新撰組の同寺使用許可を下し、朝廷にその旨を通達(『九条家国事記録』)
1865 元冶02年 03.
初旬#
西本願寺の改築を始める(『新撰組顛末記』)
1865 元冶02年 03.01#
(03.27)
佐藤彦五郎宛書簡(西本願寺への移転を報告) 03.03#
(03.29)
大谷良輔、切腹(『往詣記』) 切腹理由は不明。後年弟郁三郎の手により郷里に改葬
1865 元冶02年 03.05 *T34(寺田屋大騒動) 03. 家茂、江戸を出立 八王子千人同心が同行
1865 元冶02年 03.06#
(04.01)
三条通り白河西入の甲冑屋で不審な農民ら6名捕縛(『幕末維新京都町人日記』)
1865 元冶02年 03.07#
(04.02)
京都で捕縛した佐々木六角源氏の残党と思われる一団20名、大坂に引き渡されるとの風聞が流れる(『幕末維新京都町人日記』)
1865 元冶02年 03.10#
(04.05)
西本願寺へ屯所を移転(新撰組遺聞)*T35
1865 元冶02年 03.18 近藤、蔭山新之丞宛書簡
1865 元冶02年 03.20#
(04.15)
京都興正寺の関係者福田内蔵助、350両の金子借用の要請を受け、200両を用立て(『起殿諸記』)
1865 元冶02年 03.21#
(04.16)
佐藤彦五郎宛書簡(歳三東下・山南の死を報告) 03.20#
(04.15)
近藤、小島鹿之助に伊藤東涯と大石内蔵助の書幅を贈呈。書簡を認め、東下する土方に託す 2点の書幅は現存する。
土方の東下はこの直後と思われる
1865 元冶02年 03.26#
(04.21)
祗園一帯で大火災発生。見廻組などと共に、群衆整理に出動(『幕末維新京都町人日記』)(『元治漫録』)*T36(見廻組との対決) ※そういえば、大河では土方さんいたけど、この時は江戸に向かってるはずでは??
1865 元冶02年 03.末頃 原田左之助と、堀川の高嶋屋こと菅原長兵衛の次女・マサと結婚
1865 元冶02年 04.01#
(04.25)
公家久世家の臣、過日新撰組から受けた粗暴行為に抗議し、松原忠治を詰問(『莠草年録』) 下加茂社と思われる神社へ参詣に向かう途中の久世家の行列に乱暴を働いた数名の隊士に抗議して、同家の家臣が西本願寺の屯所に赴いた
1865 元冶02年 04.05#
(04.29)
土方、隊士募集のため、東下。夜、江戸に到着(『小島政則聴書』) 同行者は伊東甲子太郎、斎藤一。宿泊場所は試衛館
1865 元冶02年 04.06#
(04.30)
佐藤彦五郎、試衛館に出向き、土方と面談(『小島政則聴書』)
1865 慶応01年 乙丑 04.10#
(05.04)頃
新入隊希望者第一陣名簿、作成(『異聞録』) 04.07#
(05.01)
改元(『幕末維新京都町人日記』)(『孝明天皇紀』)
1865 慶応01年 04.12#
(05.06)
日野へ帰り、佐藤彦五郎宅に逗留。佐藤家を訪問してきた小島政則らを交えて面談し、小島家に近藤より委託された書幅を贈る(『小島政則聴書』)(4月13日付小島鹿之助ら宛小島政則書簡)
姪のぬいに手土産
04.13#
(05.07)
小島政則、小島鹿之助と橋本道助に宛てて、日野から書簡を送り、土方の様子などを報告 04.12
(05.06)
第2次長州征伐発令
1865 慶応01年 04.14#
(05.08)
小島鹿之助、佐藤家を訪問し土方と面談して1泊(『小島家日記』) 04.14#
(05.08)
周防人金作、入隊を志し、大坂で尾関弥四郎の配下の人物と接触(山口県文書館所蔵) 妻子を十里余のところへ預ければ、入隊できたらしい
1865 慶応01年 04.15#
(05.09)
小島鹿之助、日野より帰る。おそらくこの日、土方、試衛館に戻る(『小島家日記』) この頃# 近藤、浅野薫らを伴い、大坂へ隊士募集に出向く(阿部隆明『史談会速記録』八三輯) 池田屋事件直前に脱隊した阿部十郎、浅野と接触して、復帰
1865 慶応01年 この頃 許婚の琴に別れを告げる 04.27#
(05.21)
土方、新入隊士を伴い、江戸を出立(『異聞録』) 新入隊士52名。藤堂も一緒に帰京
1865 慶応01年 04.27#
(05.21)
大坂の商人平野屋武兵衛、日記に新撰組の悪評を記す(『幕末維新京都町人日記』) 04.某# 西本願寺侍臣西村兼文、西国探索から帰京し、滞在中に綴った見聞記録をまとめる(『改訂肥後藩国事史料』)
1865 慶応01年 05.09#
(06.02)
土方ら一行、草津本陣に宿泊(「大福帳」) 草津本陣は、材木商を営んでいたため木屋本陣とも言われていた田中七左衛門方
1865 慶応01年 05.10#
(06.03)
土方、帰京 篠原泰之進、大坂より上京し入隊(『秦林親日記』) 05.16 家茂、江戸を出立
1865 慶応01年 05.
下旬頃#
江戸と京坂で募集した新入隊士を合わせ、新組織編成。四か条の隊規も作成(『新撰組始末記』)(『新撰組顛末記』)
1865 慶応01年 05.某# 下寺町の万福寺を屯営に割り振られる(『島田魁日記』)(『御触及口達』) 家茂の上洛と下坂に備えて、警備のため諸藩や幕府諸隊次々に下坂
1865 慶応01年 05.25#
(06.18)
隊士2・3名、儒者藤井藍田捕縛のため、書生に変装し藤井宅を訪れるも不在(『玉生堂事蹟問答記』)
1865 慶応01年 05.26#
(06.19)
藤井藍田を捕縛、大坂の宿舎万福寺へ連行(『玉生堂事蹟問答記』)(『連城紀聞』) 十数名の隊士が出動した
1865 慶応01年 05.27#
(06.20)
再調査のため、藤井藍田宅を訪れる(『玉生堂事蹟問答記』) この日、藤井は万福寺内で新撰組に刺殺された可能性あり
1865 慶応01年 閏05.05#
(06.27)
京橋北詰で職務質問などを行う(『御触及口達』)(『中山忠能履歴資料』)(『近来年代記』)(閏5月7日付谷合勘吉宛近藤勇書簡) 家茂の上洛と下坂に備えて、大坂より京都潜入を意図する不逞浪士らを取り締まるため、京橋両詰に検問所が設置
1865 慶応01年 閏05.07#
(06.29)
近藤、谷合勘吉宛書簡 新撰組後援者だった谷合弥七の死を悼み、弟の勘吉に書簡を送る
1865 慶応01年 閏05.11#
(07.03)
京都松ヶ崎にて長州人を捕縛。潜伏人について尋問(『世話集聞記』) 閏05.11
(07.03)
武市瑞山、切腹。岡田以蔵(28歳)、斬首
1865 慶応01年 閏05.12#
(07.04)
幕府から会津、新撰組等に警備地域の割付が下命(『加賀藩史料』)
1865 慶応01年 閏05.12#
(07.04)
大坂で巣内式部ら5名を捕縛(『連城紀聞』)(『巣内信善遺稿』) 巣内は、膳所藩士・河瀬太宰らと西上途上の将軍襲撃計画を立てていたとされ、捕縛される
1865 慶応01年 閏05.12#
(07.04)
鳩居堂で矢野玄道、捕縛(『大匠記』) これも、膳所藩事件の関係者。16日には鳩居堂で軟禁処分。18日、6月8日・11日に輪堂貞三が訪問。捕縛者は武田観柳斎
1865 慶応01年 閏05.13#
(07.05)
京都興正寺関係者、前月に同寺が屯所移転祝いとして、木綿50反と薦樽5挺を下賜した旨を報告(『興殿諸記』) 閏05.13
(07.05)
膳所藩事件発覚 膳所藩の俗論派(親幕派)と正義派(親長州派)との対立から、将軍暗殺をもくろむ
1865 慶応01年 閏05.14#
(07.06)
会津藩が捕縛した不逞浪士の身柄を屯所に預かり、調査を行う(『連城紀聞』) 18日にも、同様の処置となり、その総数29名 閏05.14#
(07.06)
膳所藩士・河瀬太宰ら数名、将軍暗殺計画の嫌疑により、幕吏に捕縛される(『改訂肥後藩国事史料』)(中沼清蔵『西川正義』)
1865 慶応01年 閏05.15#
(07.07)
膳所藩事件に関し、河瀬太宰宅を家宅捜索のため、大津の尾花川に出動(『改訂肥後藩国事史料』)(『新撰組始末記』) 出動隊士は、佐野七五三之助ほか。家宅捜索中に河瀬の妻、自害を図る 閏05.16
(07.08)
家茂、名古屋城を出立
1865 慶応01年 閏05.中旬頃# 井上謙三を捕縛。屯所にて尋問後、伊東甲子太郎の尽力により放免(『新撰組始末記』) 井上謙三は、鯉沼伊織こと後の香川敬三の代わりに捕縛された
1865 慶応01年 閏05.18#
(07.10)
河内国狭山藩士山本時次郎を捕縛。同藩藩士山本郷衛に報告書を送る(坂野家文書) 膳所藩事件に絡むものと思われる
1865 慶応01年 閏05.22#
(07.14)
家茂入京を三条蹴上まで出迎え、二条城入城までの道中警備(『島田魁日記』)(『幕末維新京都町人日記』) 閏05.22#
(07.14)
家茂、上洛 当日の夜半に御所へ参内し、幕府の長州再征に対する意見を上奏し、23日早朝、二条城に入城
1865 慶応01年 閏05.23#
(07.15)
家茂を二条城まで警備後、朝、屯所へ帰陣(『島田魁日記』) 島田は、家茂の御所参内を23日とする
1865 慶応01年 閏05.23#
(07.15)
近藤、松本良順を木屋町に訪ね、歓談(『蘭疇自伝』) 会津藩士で万延1年に松本の門人となっていた南部精一郎宅。ただし、当時の名は鈴木瑞真
1865 慶応01年 閏05.24#
(07.16)
家茂を途中の藤ノ森まで警備のため同行(『幕末維新京都町人日記』)(『島田魁日記』) 閏05.24#
(07.16)
家茂、京都を出立して大坂へ向かう 途中伏見で1泊し、25日大坂入り
1865 慶応01年 閏05.下旬# 中西登、小路平三郎ら、長州人石津茂一郎を捕縛、連行(『新撰組始末記』)(『萩本忠市蒐集文書』) 伊東甲子太郎に助命される。
閏5月11日に捕縛された長州人と同一人物の可能性も
1865 慶応01年 閏05.末頃# 松本良順、屯所を訪れ、隊士の衛生状態を憂う(『蘭疇自伝』)*T37 土方、即日屯所内に病室を整備。他日、屯所内での養豚開始。山崎烝に緊急医療法を伝授
1865 慶応01年 06.01#
(07.23)
大坂堂島の米問屋、米の高値吊り上げの噂に、新選組が関係した米商人を連行尋問(『見聞略記』)(『幕末維新京都町人日記』) 墓石に生き晒しにもした
1865 慶応01年 06.06#
(07.28)
西四辻家の家臣2名、膳所藩事件に関与した嫌疑により捕縛。その後すぐ解放(『中山忠能日記』)
1865 慶応01年 06.
上旬頃#
幕府歩兵組と衝突。歩兵組鉄砲を持ち、万福寺を包囲(『慴怕操筆』)
1865 慶応01年 06.15#
(08.06)
大坂駐留の新撰組、大阪天満宮など5社に対し、祭礼の件で話があるため、翌朝までに屯所来訪を要請する回状を出す(『滋岡家日録』)
1865 慶応01年 06.16#
(08.07)
三木三郎、大阪天満宮社家総代大道吉儀と会見(『滋岡家日録』) 祭礼の神輿渡御の中止などについて意見を聞く 06.
中旬#
大坂市中、家茂の随行や、警護などの幕府勢の下坂者が多く、混乱(『幕末維新京都町人日記』)
1865 慶応01年 06.17#
(08.08)
三木三郎ら、一部隊士を残し、大坂から京都へ戻る 米相場が急騰し、新撰組によるものとの風聞が流れる
1865 慶応01年 06.21#
(08.12)
瀬山多喜人、石川三郎(21歳)、隊規違反により切腹(『新撰組始末記』)(『応詣記』)(光縁寺墓碑銘) 町家の婦人との密通(婦女暴行)の咎による 06.24
(08.15)
平野国臣らと親交のあった福岡藩士・喜多岡勇平、暗殺 尊攘過激派
1865 慶応01年 06.25 中山道赤坂宿で、新撰組が大騒ぎ この大騒ぎの犯人が、脱走した植田末次か?
1865 慶応01年 06.
下旬#
井上松五郎、井上源三郎を訪ね、万福寺を訪問するも、不在で会えず 井上松五郎は、将軍警護の任務により、6月中に西下するも、この頃は京にいたものか?
1865 慶応01年 07.01#
(08.21)
井上源三郎、兄の松五郎宛書簡 万福寺を訪れてくれた兄に対し、不在だったため書き送る
1865 慶応01年 この頃# 島田魁、『英名録』を記す(『英名録』) 総員134名。『英名録』本来の筆跡は島田のもではない
1865 慶応01年 07.04#
(08.24)
佐藤彦五郎宛書簡(残暑見舞い) 07.04#
(08.24)
大坂の某橋上で警備中の隊士、土佐藩藩士と衝突し、その後遺恨を持った藩士ら多数によって殺傷される(『中山忠能履歴資料』)(『中山忠能日記』) この後、大坂から撤退したものと思われる
1865 慶応01年 07.04#
(08.24)
宮川音五郎宛書簡(残暑見舞い。宮川信吉の名が見える。この書簡の署名には「総二」) 07.09 大坂の御津八幡宮で、新撰組の賄いをしていた男が斬殺される
1865 慶応01年 07.18#
(09.07)
脱走隊士・植田末次、名古屋周辺で朝廷の名を使い金策との通報が届く(『島田魁日記』) 他に2名の脱走者が植田と共に、金策を行う
1865 慶応01年 07.22#
(09.11)
井上松五郎宛書簡(残暑見舞い)
大坂駐留中の松五郎に送る
07.
下旬#
植田末次らを捕縛のため、伊東らが東海道を、島田らは中山道を探索(『島田魁日記』) 島田は植田の行方を突き止めるが、捕縛できず、責任者から詫び状を取る。また、島田はこの過程で郷里に帰り、母と再会
1865 慶応01年 07.25#
(09.14)
佐野牧太、斬罪(『新撰組始末記』) 市中での金策による 07.24
(09.13)
坂本龍馬と西郷隆盛が会見し、薩摩藩名義で長州藩の武器を購入することに
1865 慶応01年 07.某# 伊東甲子太郎ら、潜伏浪士の調査のため奈良に出張(『秦林親日記』) 同行者は篠原泰之進、茨木司、久米部正親。久米部は足を負傷
1865 慶応01年 07.某# 酒井兵庫、脱走。潜伏先の住吉の神職宅で沖田に斬られる(『新撰組始末記』)
1865 慶応01年 この頃# 富山弥兵衛、除隊のうえ隊名を詐称し金策した川島勝司を二条河原で、坊主の上斬首(『新撰組始末記』) 臆病をもって除隊させる
1865 慶応01年 08.01#
(09.20)
磐城平藩士2名、新撰組に詫び状を書く(霊山歴史館文書) 植田末次に関する詫び状と思われる
1865 慶応01年 08.05#
(09.24)
隊士、島原住吉神社前で、一橋藩士と口論し、斬殺(『新撰組始末記』)
1865 慶応01年 08.05#
(09.24)
幕府内の書状に、新撰組への多額の支出を見直す動きがある旨記される(『新選組史料集』所収、古賀茂作「金銀出入帳」)
1865 慶応01年 08.08#
(09.27)
武田観柳斎、隊士を率いて蹴上村の奴茶屋に出動し、強談中の薩摩藩士を捕殺(『新撰組始末記』)
1865 慶応01年 08.15 島田魁、一貫町の丹波屋定七の娘・サトと結婚 長男魁太郎は、翌年3月誕生
1865 慶応01年 08.26#
(10.15)
橋本道助の長男・政清、誕生。後日。これを祝して七絶の詩文を送る(『新撰組余話』) 08.18#
(10.07)
近藤、小島鹿之助と橋本道助宛書簡 小島鹿之助らから出された現存していない8月4日付の書簡を、8月18日に上洛した旧知の僧侶から手渡される
1865 慶応01年 09.01#
(10.20)
松原忠司死亡(『新撰組始末記』)(『同志連名記』)(『往詣記』)(光縁寺墓碑銘)*T37 壬生心中として有名だが、フィクションの可能性大。切腹傷の悪化が元での病死。幹部から平隊士へと降格されている 09.01#
(10.20)
京都守護職屋敷が完成し、黒谷より移る(『盤錯録』)
1865 慶応01年 09.05 輪堂貞三、鳩居堂で謹慎処分中の矢野玄道を訪問 これが最後
1865 慶応01年 09.09$
(10.28)
芳次郎(13歳)、新徴組組頭・三村伊賀右衛門の介錯 09.09#
(10.28)
近藤周斎・宮川総兵衛・近藤ツネ宛書簡(第3次行軍録。ただし名前の記載は幹部のみ)現存は?? 09.09#
(10.28)
捕縛した熊本藩士を屯所へ連行。これに怒った藩士80名、屯所へ押し寄せる(『中山忠能日記』) 09.16#
(11.04)
家茂、二条城入り(『幕末維新京都町人日記』) 米・英・仏・蘭の四カ国の代表が連合艦隊と共に大坂に来航。条約の勅許、兵庫の開港を要求
1865 慶応01年 09.22#
(11.10)
井上、兄の井上松五郎宛書簡 09.21#
(11.09)
家茂、御所へ参内し、長州征伐の勅許を得る(9月22日付井上松五郎宛井上源三郎書簡)(10月3日付池内蔵太宛坂本龍馬書簡)
1865 慶応01年 09.23#
(11.11)
将軍家茂の大坂行きの見送りに出動 09.23#
(11.11)
家茂、下坂(『幕末維新京都町人日記』) 老中の阿部豊後守と松前伊豆守は、兵庫の開港のみ約束
1865 慶応01年 09.25#
(11.13)
家茂の慰留周旋などのため、京大坂を奔走(10月29日付小島鹿之助ら宛近藤勇書簡) 09.25#
(11.13)
慶喜、大阪で兵庫開港の延期を申し渡す
1865 慶応01年 09.25#
(11.13)
佐藤彦五郎、近藤・土方宛書簡 佐藤彦五郎、新撰組の悪評を聞き、近藤と土方に隊中の取締りを求める 09.25#
(11.13)
家茂、条約勅許問題に絡み辞意を固める
1865 慶応01年 09.某 第2次『行軍録』作成(『異聞録』)
1865 慶応01年 09.某 壬生寺に対し、調練のため同寺境内の借用を依頼(壬生寺文書) 奉行所の要請もあり、寺側は諸条件を提示して許可。しかし、使用日4・9の日、馬での乗り入れ禁止、三門の閉門禁止、大砲使用の禁止の条件は、ことごとく無視され、さらに2・6の日の使用も談じ込む 10.01#
(11.18)
家茂、将軍辞任の上書を朝廷に提出
1865 慶応01年 10.03#
(11.20)
近藤らも、容保に助力して、枚方まで赴き、容保の説得を待つ(『盤錯録』)(『近藤勇』)(『幕末維新京都町人日記』) 10.03#
(11.20)
家茂、東帰のため急遽大坂を出立 容保、これを阻止して、上洛させる
1865 慶応01年 この頃# 就牢中の赤根武人、淵上郁太郎、石津茂一郎、身柄解放され、間者として用いる(『新撰組始末記』) 赤根武人は元長州奇兵隊総管、淵上郁太郎は真木和泉門弟、石津茂一郎は新撰組に捕縛されていた長州人 10.04#
(11.21)
家茂、容保の説得に東帰を翻意し、上洛を決意、伏見に到着(『盤錯録』)(『幕末維新京都町人日記』)
1865 慶応01年 10.22 沖田、武田、伊東の3名、肥後藩邸に上田久兵衛を訪問 10.05#
(11.22)
家茂、上洛(『盤錯録』)
1865 慶応01年 10.26#
(12.13)
宮川総兵衛、兄の勇五郎宛書簡 実見してきた京都の情勢や新撰組の消息などを伝える。元治1年に2度と、今回の上洛がある 10.18 朝幕会議で、長州へ諮問使派遣を決定 諮問使は、大坂召還に応じない長州の内情を探るため
1865 慶応01年 10.29#
(12.16)
近藤、佐藤彦五郎と小島鹿之助に書簡
1865 慶応01年 11.02#
(12.19)
近藤周斎・宮川音五郎・宮川粂次郎・佐藤彦五郎宛書簡(近藤の広島出立) 11.04#
(12.21)
近藤ら9名が、幕府の訊問使・永井尚志の派遣に従い、京都を出立(『改訂肥後藩国事史料』)(井上家文書) 同行者:伊東甲子太郎・武田観柳斎・尾形俊太郎。他に山崎丞・吉村貫一郎・芦屋登・新井忠雄・服部武雄。
近藤はこの使節に自ら志願
1865 慶応01年 11.04#
(12.21)
近藤、佐藤彦五郎・小島鹿之助・粕谷良循宛書簡 「事後は土方に託す」「剣流名は沖田に」の文面のもの
1865 慶応01年 11.07#
(12.24)
近藤ら、長州訊問使と共に大坂を出立(『慶応新聞紙』)(『京都守護職始末』) 11.07
(12.24)
長州征伐へ進発???
1865 慶応01年 11.07
(12.24)
尾関弥四郎(35歳)、大坂で死亡
1865 慶応01年 11.16#
(01.02)
近藤ら、広島に到着(『防長回天史』)(『鹿児島県史料・忠義公史料』)
1865 慶応01年 11.20#
(01.06)
訊問使、広島・国泰寺にて長州藩代表と謁見(『楫取家文書』) 席上、近藤らの長州入国要請が出されるが、長州側はこれを謝絶(『楫取家文書』)
1865 慶応01年 11.21#
(01.07)
赤根武人ら幕府側の間者3名、広島より海路長州に派遣される(『慶応新聞紙』)(『改訂肥後藩国事史料』) 1日に、3名の釈放が決定された。
赤根は、裏切り者として周防柱島で捕縛され、翌慶応2年1月25日処刑
1865 慶応01年 11.22#
(01.08)
訊問使、近藤らを長州の折衝役にすることを長州側に申し出るが拒絶される。また、近藤ら、長州藩士らの宿舎に出向き、会見を申し込むが拒絶される(『防長回天史』)
1865 慶応01年 11.23#
(01.09)
長州藩士、大津四郎右衛門が近藤らの宿舎を訪問。夕刻、近藤らが長州宿舎を訪問し、会談(『防長回天史』)
1865 慶応01年 12.11#
(01.27)
近藤らは広島滞留中の長州藩・広沢兵助らの宿舎を再度訪問(『楫取家文書』)(『防長回天史』)(『維新史料綱要』) 長州帰藩の際の同道を依頼し、謝絶される
1865 慶応01年 12.12#
(01.28)
井上松五郎宛書簡(近藤の広島行きを伝える)
大坂駐留中の松五郎に送る
12.12#
(01.28)
桜井勇之進(26歳)、死亡(『往詣記』)(光縁寺墓碑銘) 死因は不明。ただし葬儀費用があまりに小額なことから、不名誉な死と推察される
1865 慶応01年 12.14#
(01.30)
近藤ら、広島藩士・植田乙次郎ら2名に岩国藩重役への紹介状執筆を依頼。これを元に岩国入国を計画。この日広島を出立し、岩国の新湊港に到着(『吉川経幹周旋記』) 近藤、伊東、武田の3名
1865 慶応01年 12.15#
(01.31)
近藤ら、岩国藩役人・西村五郎左衛門と会談し長州入国を要請(『吉川経幹周旋記』)
1865 慶応01年 12.16#
(02.01)
近藤ら、岩国藩に会見を拒絶され、広島へ帰る(『吉川経幹周旋記』) 訊問使は、この日広島を出立、18日大坂城で復命
1865 慶応01年 12.17#
(02.02)
近藤ら、広島より陸路で帰京の途につく(『連城紀聞』) 山崎と吉村は、近藤の帰京後も、広島周辺に残留し、情報を送り続ける
1865 慶応01年 12.22#
(02.07)
近藤、帰京し、会津藩に収集した長州藩の情報を報告(『京都守護職始末』) 長州に対し、寛大な処分を請う
1865 慶応01年 12.某# 前年7月の活躍を賞され、銀子を下賜(『近藤勇』) 幕府からと思われる

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