西暦 元号 干支 月日 沖田総司房良 年齢 月日 土方歳三義豊 年齢 月日 新撰組
(試衛館・旧幕軍関係)
具体的内容・関係者 月日 幕府・新政府軍ほか 具体的内容・関係者
1866 慶応02年 丙寅 25 32 01.15 隊士2名、家屋敷などを横領されたとの訴えに、大和国添上郡八条村へ出張 4月に中川宮が謝礼した奈良出張のことと思われる 01.04 桂小五郎、京都の薩摩藩邸へ行く
1866 慶応02年 01.19#
(03.05)
大坂八軒屋に出張(『三吉慎蔵日記』) 人別改めを行うとあるが、この時大坂には出向いていないので間違い 01.21#
(03.07)
坂本龍馬の斡旋により、薩長同盟成立*T37
1866 慶応02年 01.21#
(03.07)
伏見を警備(『三吉慎蔵日記』) 昼夜2回人別改めを行うとあるが、奉行所の間違い 01.22
(03.08)
朝幕会議で、長州藩の処分が決定
1865 慶応01年 01.23
(03.09)
武田観柳斎、矢野玄道を訪問 01.23#
(03.09)
伏見旅篭寺田屋襲撃。坂本龍馬襲われる。*T38 伏見奉行所の手によるが、新撰組と見られていた
1866 慶応02年 01.24
(03.10)
近藤、容保より再度の広島行きを下命 01.25#
(03.11)
元奇兵隊総督・赤根武人(29歳)、山口で処刑
1866 慶応02年 01.28
(03.14)
宮川音五郎宛書状 01.27#
(03.13)
近藤ら、広島へ出立(1月28日付宮川音五郎宛宮川信吉書簡)(『秦林親日記』)*T38 同行者:伊東甲子太郎・篠原泰之進・尾形俊太郎。隠密裏に佐藤安次郎・山崎烝・吉村貫一郎
1866 慶応02年 01.27 奈良出張の件で、逆に訴えた者を捕縛し、村預けにする
1866 慶応02年 02.03#
(03.19)
近藤ら、広島へ到着(『秦林親日記』) 老中小笠原長行らの先発。小笠原は2月4日に、永井尚志は8日に出立。それぞれ7日と11日に広島入り
1866 慶応02年 02.05#
(03.21)
大石鍬次郎、芸州藩士を斬殺(『新撰組始末記』) 大石鍬次郎の実弟造酒蔵、祗園にて隊士・今井裕次郎に斬殺される(『新撰組始末記』)(『往詣記』)(光縁寺墓碑銘)土方の書簡には病死 不明 五稜郭関連の工事終了
1866 慶応02年 02.11#
(03.27)
伊東甲子太郎・篠原泰之進、老中小笠原長行および諸藩の周旋方と面談(『秦林親日記』) この時、勤皇を説く。
近藤・尾形と別行動
1866 慶応02年 02.12#
(03.28)
勘定方・河合耆三郎(29歳)、死亡(『新撰組始末記』)(光縁寺墓碑銘)(壬生寺墓碑銘)(『同志連名記』)*T38 2日に隊費不足が発覚。10日の猶予が与えられるも、金は届かず。
隊費の不足により切腹と言われるが、斬首とも。介錯は沼尻小文吾
1866 慶応02年 02.18#
(04.03)
小川信太郎、死亡(『往詣記』) 切腹か?
1866 慶応02年 03.頃 桑名藩邸に出向き、剣術の教授。撃剣師範たちが指導していたものか? また、永井尚志にも、近藤が指導したとの記録がある
1866 慶応02年 03.07#
(04.21)
伊東甲子太郎・篠原泰之進、諸藩の士と会談(『秦林親日記』)
1866 慶応02年 03.12#
(04.26)
近藤ら、広島から帰京(『新撰組始末記』)(3月29日付宮川音五郎ほか宛土方歳三書簡)
1866 慶応02年 03.15#
(04.29)
佐藤安次郎、広島着(『秦林親日記』)
1866 慶応02年 03.18#
(05.02)
伊東甲子太郎・篠原泰之進、海路広島を出立(『秦林親日記』) 海路出立し、19日備後鞆ノ津、22日讃岐多度津、24日大坂
1866 慶応02年 02? 佐藤彦五郎宛書簡(大石鍬次郎の家督相続の件)。日付不詳 03.23 大石鍬次郎、相続問題のために江戸に下る。この日中山道の赤坂宿を通過 土方の書簡を持参していた可能性あり
1866 慶応02年 03.29
(05.13)
宮川音五郎・粂次郎・近藤ツネ宛書簡(近藤の帰郷を知らせる) 03.27#
(05.11)
伊東甲子太郎・篠原泰之進、帰京(『秦林親日記』) 大坂着から帰京までの3日、薩摩と接触か?
1866 慶応02年 04.01#
(05.15)
谷三十郎、死亡(『新撰組始末記』)(『往詣記』)*T39 祗園石段下で殺害されるとも、病死とも
1866 慶応02年 04.02#
(05.16)
中川宮、2月の新撰組奈良出張に対して、小野権之丞を通じて晒30枚を下す(『朝彦親王日記』)
1866 慶応02年 04.03頃#
(05.17)
五条浄教寺に不穏な隊士1名が潜伏(『莠草年録』)
1866 慶応02年 04.04#
(05.18)
浄教寺の隊士の元へ同志数名が乱入(『莠草年録』)
1866 慶応02年 04.14
(05.28)
渋沢栄一が匿っていたある人物を捕縛
1866 慶応02年 04.18#
(06.01)
隊士、伊勢国で富商から借金(『勝海舟日記』) 会津藩が謝罪している。脱走隊士によるものか? 04.14 大久保利通、薩摩藩の出兵拒絶建白書を提出
1867 慶応03年 04.下旬 近藤、日付宛先不詳の書簡(大石鍬次郎の家督相続の件) この中で、伊東の東下について触れられている
1866 慶応02年 05.12#
(06.24)
鈴木直人、魚棚烏丸西にて山井氏暉家来の森某を斬殺(『新撰組始末記』) 05.25 長州藩は、長州処分を蹴る
1866 慶応02年 06.15#
(07.26)
山崎烝、吉村貫一郎、芸州口の戦闘状況報告(『中山忠能履歴資料』) 06.07 幕府、長州への進撃
1866 慶応02年 06.15#
(07.26)
脱走隊士の柴田彦三郎の捕縛のため、内海次郎・松本喜次郎・三井丑之助・近藤芳助が、出石へ出張(『出石藩御用部屋日記』) 隊名を騙って、一橋家家臣の原口某と金策を働き、脱走 06.17 九州小倉の戦いが始まる
1866 慶応02年 06.19#
(07.30)
柴田彦三郎、出石藩役人に捕らえられ、引き渡される(『出石藩御用部屋日記』) 06.13
〜19
武蔵国15郡(主に埼玉県)と上野国2郡(群馬県)の一部に十数万人が参加した武州世直し一揆が起こり、日野宿組合農兵隊が鎮圧のため出動
1866 慶応02年 06.20頃#
(07.31)
一条実良家来入江某と高松保実の家来某を捕縛(『中山忠能履歴資料』)
1866 慶応02年 06.23#
(08.03)
柴田彦三郎、切腹(『新撰組始末記』)(光縁寺墓碑銘)(『同志連名記』)
1866 慶応02年 06.〜07.頃 伊東、東下か? 妻うめが、伊東の実母が大病と嘘をつき、伊東が早駕籠で江戸に戻るエピソードがある
1866 慶応02年 07.05 勝海舟、近藤・土方へ謝礼 東下の伊東に託したものか? 07.03 2回目の戦闘
1866 慶応02年 07.05 山崎、広島から帰京の途へ
1866 慶応02年 07.06 永倉新八、亀屋の芸妓・小常との間に、イソ誕生
1866 慶応02年 07.08 山崎、京都着。近藤の休息所で、土方を交え報告
1866 慶応02年 07.09 山崎の報告を、会津藩公用人野村左兵衛に説く
1866 慶応02年 07.16#
(08.25)
幕府目付志賀又四郎、新撰組の京都市中警備をはずせとの建言(『中山忠能履歴資料』) 07.20
(08.29)
14代将軍徳川家茂(21歳)、死去*T39
1866 慶応02年 08? 平作平宛書簡 07.25#
(09.03)
幕府から新撰組・見廻組などに巡回警備地域割付の達し下る(『中山忠能履歴資料』) 加賀藩が担当していた警備地域も、新撰組の担当に追加 07.27 3回目の戦闘
1866 慶応02年 07.〜08.頃 伊東、膳所藩事件に関連した城多董と接触 尊攘の志を持って新撰組に入ったと述べる
1866 慶応02年 08.01 大石鍬次郎、宮川総兵衛宛書簡 相続に関する手紙である 08.20 家茂の喪が発せられる 一橋慶喜、徳川宗家存続を布告
1866 慶応02年 08.28#
(10.06)
三条大橋西詰制札(長州朝敵の)が墨で塗りつぶされ、投げ捨てられる(『中山忠能履歴資料』)(『新撰組始末記』) 浪士は十津川郷士中井庄五郎ら 08.21 征長停止の勅命*T39
1866 慶応02年 09.02#
(10.10)
制札を再度立てる(『新撰組始末記』) 09.02
(10.10)
休戦協約 芸州宮島の大願寺で
1866 慶応02年 09.03#
(10.11)
山崎烝、吉村貫一郎、広島に滞在して探索活動を続ける(『越前藩幕末維新公用日記』)
1866 慶応02年 09.05#
(10.13)
再び制札が捨てられる(『中山忠能履歴資料』)(『新撰組始末記』)
1866 慶応02年 09.07#
(10.15)
岩倉具視、脱走隊士高橋良之助を召抱える(『岩倉具視関係文書』)
1866 慶応02年 09.10#
(10.18)
制札を再々度立て、新撰組が警備(『新撰組始末記』)
1866 慶応02年 09.12#
(10.20)
三条高札事件。制札に狼藉を加えようとした土佐浪士8名と戦闘(『新撰組始末記』)(『中山忠能履歴資料』)(『維新土佐勤皇史』)(『中山忠能日記』)(『連城漫筆』)(『幕末維新京都町人日記』)(『莠草年録』) 二番組・五番組・七番組の34名が出動。
宮川助五郎(負傷後捕縛)・安藤鎌次(翌日藩邸で自刃)・藤崎吉五郎(闘死)・松島和助・沢田屯兵衛・岡山禎六・本川安太郎・中山鎌太郎
1866 慶応02年 09.15#
(10.23)
伊東・篠原、名古屋へ出立(『秦林親日記』) 尾張元藩主徳川慶勝を諸侯会議に参加を促す目的。ただし、慶応3年の間違いと思われる
1866 慶応02年 09.19#
(10.27)
伊東・篠原、名古屋に到着(『秦林親日記』)
1866 慶応02年 09.19#
(10.27)
土佐藩、祗園に近藤・土方・伊東・吉村貫一郎らを招き、三条制札事件を落着させる(『新撰組始末記』)
1866 慶応02年 09.某 島原の角屋に対し、現金決済を申し入れる
1866 慶応02年 09.21#
(10.29)
伊東・篠原、尾張藩家臣と会談して徳川慶勝の上洛を説く(『秦林親日記』)
1866 慶応02年 09.22#
(10.30)
伊東・篠原、名古屋を出立(『秦林親日記』)
1866 慶応02年 09.25#
(11.02)
伊東・篠原、帰京(『秦林親日記』) 9月15日から25日の名古屋への出張は、翌慶応3年のものである可能性が大きい
1866 慶応02年 09.26#
(11.03)
伊東・篠原、近藤の妾宅で土方を交え会談(『秦林親日記』) 分離を申し出る
1866 慶応02年 09.27#
(11.04)
篠原、近藤・土方と再び会談(『秦林親日記』)
1866 慶応02年 10.07#
(11.13)
市橋鎌吉、死亡(『往詣記』)(光縁寺墓碑銘) 死因は不明
1866 慶応02年 10.某# 島田魁、富永村の元右衛門に500両貸し与える(「新選組借用証文」)
1866 慶応02年 11.頃# 土方ら、幕臣渋沢栄一と共に、元見廻組隊士・大沢源次郎を捕縛(『島田魁日記』)(『青淵回顧録』) 土方、渋沢と共に紫野大徳寺へ。
大沢の身柄は11月27日過ぎに新撰組の手で兵庫港へ。
大沢は不逞浪士と共謀不穏な行動をしたとされるが、実際は汚職か?
1866 慶応02年 11.〜12.頃 『新撰組人名録』が、『風聞記』に記される 113名
1866 慶応02年 12.01 伊東と山崎、大和国宇陀郡松山上町へ出張 松山上町の長助と勇吉の諍いの解決のため
1866 慶応02年 12.15#
(01.20)
中川宮、銀20枚を下賜(『朝彦親王日記』) 12.05 一橋慶喜、十五代将軍に正式就任 同時に内大臣に任じられる
1866 慶応02年 12.20#
(01.25)
三条制札事件に関しての報奨金が、会津藩から下る(『新撰組始末記』)(『近藤勇』) 浅野の名がないことから、この日以前に脱隊したと思われる 12.25 孝明天皇(36歳)、崩御*T40 29日、大喪が発せられる

>>Menu >>略年表 >>年表・慶応2年