西暦 | 元号 | 干支 | 月日 | 沖田総司房良 | 年齢 | 月日 | 土方歳三義豊 | 年齢 | 月日 | 新撰組 (試衛館・旧幕軍関係) |
具体的内容・関係者 | 月日 | 幕府・新政府軍ほか | 具体的内容・関係者 |
1867 | 慶応03年 | 丁卯 | 26 | 33 | 01.01# (02.05) |
伊東・永倉・斎藤、角屋で酒宴(『新撰組顛末記』)*T40 | 4日まで居続け。近藤の命令で帰隊。謹慎処分 | |||||||
1867 | 慶応03年 | 01.07# (02.11) |
永倉新八、斎藤一らと、四条橋で中井庄五郎、那須盛馬らの斬り合い(那須盛馬書簡)(『維新風雲回顧録』) | 01.04# (02.08) |
新撰組、大隈守広光に刀を注文(『刀剣注文帳』) | 大隈守広光は、11代和泉守兼定の門人 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 01.10# (02.14) |
小島鹿之助・橋本道助・橋本才蔵宛、賀状 | 01.10# (02.14) |
田内知、切腹(『新撰組始末記』)(『往詣記』)(光縁寺墓碑銘) | 妾宅の妾が、密通していた男に斬られる | 01.09 (02.13) |
明治天皇、践祚 | ||||||
1867 | 慶応03年 | 01.18# (02.22) |
伊東・新井忠雄、京都を出立し、九州へ向かう(「九州行道中記」) | 大宰府に五卿を訪問。表向きは遊説か? | 01.21 (02.25) |
幕府外交団、パリ万国博覧会出席のため、フランスへ横浜から出航 | 渋沢栄一、奥医師・高松凌雲ら | |||||||
1867 | 慶応03年 | 01.27 (03.01) |
孝明天皇の埋葬に御車の警備 | 01.27 (03.01) |
孝明天皇、大葬 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 02. | 病に罹る(『両雄士伝』) | 02.02# (03.07) |
伊東、大宰府に着(「九州行道中記」)(『日知録』)(『行行筆記』)(『回天実記』) | 中岡慎太郎、久留米藩の真木外記(真木和泉の弟)、水野渓雲斎、土方久元と会談 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 02.04# (03.09) |
伊東、真木外記らと会談(「九州行道中記」) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 02.05# (03.10) |
伊東、大宰府を出立(「九州行道中記」) | 6日、別行動の新井と合流。17日、再び別れる | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 02.19# (03.24) |
島田魁、大隈守広光に脇差を注文(『刀剣注文帳』) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 02.20# (03.25) |
新井忠雄、真木外記・水野渓雲斎と面談(『日知録』)(『回天実記』) | 18日、慶応1年に長州に潜入させた淵上郁太郎、九州の倒幕派に殺害される。この犯人に伊東らも加わっていたとされるが? | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 02.25# | 伊東ら、長崎入り | 22日、別行動の伊東と新井、肥前佐賀で再会 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 03.04# | 伊東ら、長崎出立 | 29日、能勢大隈守から300両受領 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 03.07# (04.11) |
伊東ら、九州を出立(「九州行道中記」) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 03.10# (04.14) |
伊東甲子太郎ら13人、御陵衛士を拝命(『秦林親日記』) | 篠原泰之進が、奮闘した結果 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 03.12# (04.16) |
伊東ら、帰京(「九州行道中記」) | 11日、大阪着 | 03.26 | 榎本武揚、オランダ留学より帰国 | 開陽丸とともに | |||||||
1867 | 慶応03年 | 03.13# (04.17) |
伊東、壬生某所で、近藤・土方に分離を説き了承される(「九州行道中記」) | 壬生某所は、土方の休息所か? | 03. | パリ万博 | 日本も初めて参加 | |||||||
1867 | 慶応03年 | 03.14# (04.18) |
伊東、分離後の宿舎を三条に求める(「九州行道中記」) | 03. | 幕府、フランス式軍事訓練を採用 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 03.15# (04.19) |
伊東、大久保主膳・野村左兵衛に分離の同意を得る(「九州行道中記」) | 大久保主膳は、京都町奉行所、野村左兵衛は会津藩公用方 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 03.16# (04.20) |
伊東、近藤・土方と酒宴(「九州行道中記」) | 「互いの隊への移籍は認めず」の約定 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 03.17# (04.21) |
伊東、分離後の宿舎が決まらず(「九州行道中記」) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 03.20# (04.24) |
伊東甲子太郎ら13人、新選組を脱隊(「九州行道中記」)(『秦林親日記』)(秦林親(『史談会速記録』)七八輯・八〇輯・九〇輯)(『新撰組始末記』)*T40 | 三条の城安寺へ、翌21日五条の善立寺へ。この2日に渡り、新撰組から出る。また藤堂は美濃へ出張中のため、他3名と25日ごろ脱隊 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 03.24 (04.28) |
山崎烝、近江八日市へ出張 | 八日市宿庄屋・福原四郎左衛門が、願い出たもの。1泊し25日、山上村の庄屋の年貢の取立てなどが厳しいとの訴えを和解させる。翌26日は、羽田村の博打でのトラブルを解決。27日、八日市の魚屋勘蔵と柏木村の惣右衛門のトラブルのあった2名を召し取る。28日、八日市の庄屋・川添彦七を捕らえ尋問。別件の彦根屋惣助らを取調べ。29日出立 | 03.24 (04.28) |
島津久光・松平慶永・山内豊信・伊達宗城ら24藩主に、兵庫開港の意思を問うための上洛を命令 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 04.09# (05.12) |
膳所藩士上坂三郎右衛門、新撰組の御用状を紛失した罪で、押込の刑(閉居謹慎)に処せられる(『莠草年録』) | 04.某 | 坂本龍馬、土佐藩重役後藤象二郎と提携し、土佐藩の支持の下、海援隊を組織 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 04.15# (05.18) |
田中寅三、寺町の本満寺に潜伏中発見され、帰隊のうえ切腹(『莠草年録』)(『新撰組始末記』)(『往詣記』)(光縁寺墓碑銘) | 14日、脱走。16日、葬儀。御陵衛士に合流しようとして、果たせず | 04.14 (05.19) |
高杉晋作(29歳)、死去 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 04.19# (05.22) |
山崎烝・田中一、中山忠能も元を訪れるが、不在(『中山忠能日記』) | 用件は不明 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 04.26# (05.29) |
沖田氏縁者、死亡(『往詣記』) 戒名は真明院照誉貞相大姉 |
04.29# (06.01) |
矢口健一郎、死亡(『往詣記』)(光縁寺墓碑銘) | 死因は不明 | 04.23 (05.26) |
いろは丸事件 | 海援隊の傭船いろは丸が、紀州藩の明光丸と衝突し沈没。その後紀州藩に賠償金7万両を支払わせる。これが後の龍馬暗殺の紀州藩実行説の一因 | |||||
1867 | 慶応03年 | 04.某 | 島田魁、堀川弾正大忠に10両を貸し与える(「新選組借用証文」) | 05.21 (06.23) |
板垣退助ら、小松帯刀らと京都で会見し、討幕挙兵を盟約 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 05.11# (06.13) |
新井忠雄、大宰府の東久世通禧・真木外記らと会談し、分離を報告(『日知録』)(『回天実記』)(『東久世通禧日記』)(『三条西季知日記』) | 京出立は、1日。 | 05.24 (06.26) |
兵庫開港の勅許 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 05.25# (06.27) |
富山弥兵衛、曲直瀬道策を殺害(『伊達宗城在京日記』)(『殉難録稿』) | 曲直瀬道策は、京都出身の医師で勤皇志士。私怨らしい | 05.26 (06.28) |
薩摩・土佐・越前・宇和島の四候、慶喜の政策批判の建白書を提出 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.10# (07.11) |
新選組総員の幕臣取り立てが決定(『丁卯雑拾録』)(『改訂肥後藩国事史料』) | 5日に、会津藩に召され、幕臣取立ての内定 | 05.某 | 幕府、陸軍三兵伝習を江戸陸軍所に移す | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.12# (07.13) |
茨木司・佐野七五三之助ら10名、御陵衛士に合流をはかるが、拒絶される(『丁卯雑拾録』)(『新撰組始末記』) | 06.09 (07.10) |
坂本龍馬、後藤象二郎と共に長崎から兵庫へ、この船中で「船中八策」を示す | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.13# (07.14) |
茨木司ら、京都守護職藩邸に赴き、脱退の嘆願書を提出(『丁卯雑拾録』)(『新撰組始末記』) | 対応にあたった会津藩の公用人は、小野権之丞と諏訪常吉。近藤・土方・山崎・吉村・尾形ら5名、藩邸に出向き説得にあたる | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.14# (07.15) |
茨木司ほか4名、京都守護職藩邸で自刃。残り6名放逐(『丁卯雑拾録』)(『新撰組始末記』)(6月24日付宮川信吉書簡)(『往詣記』)(光縁寺墓碑銘) | 近藤らが、再度説得にあたる。 自刃でなく、大石鍬次郎らに斬殺とも |
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1867 | 慶応03年 | 06.15# (07.16) |
茨木司らの葬儀(『丁卯雑拾録』)。 | 翌4年3月13日、戒光寺に改葬 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.15# (07.16) |
不動堂村に屯所移転(6月24日付宮川信吉書簡) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.17# (07.18) |
近藤、幕府親藩会議で激論(『越前藩幕末維新公用日記』) | 長州藩処分に関して、断固厳罰で臨むべしとの内容。出席者は薩摩・島津久光、宇和島・伊達宗城、土佐・山内豊信、越前・松平慶永ら | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.22# (07.23) |
武田観柳斎、竹田街道で斬殺(『世態志』)*T41 | 斎藤・篠原が暗殺したといわれるが、それは慶応2年9月の話としてであり、実際はこの時点で二人とも御陵衛士であり、可能性が薄い。また、慶応2年末までに除隊か? | 06.22 (07.24) |
四侯会議を開く | 薩摩・島津久光、宇和島・伊達宗城、土佐・山内豊信、越前・松平慶永 | |||||||
1867 | 慶応03年 | 06.23# (07.24) |
新選組隊士の幕臣取り立てが、正式に通達(『新徴組大砲組之留』) | 06.23 (07.25) |
坂本龍馬、三本木の料亭・吉田屋で、薩摩・土佐両藩との会合 | 大政奉還による王政復古を了承させ、薩土盟約 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.23# (07.24) |
加藤羆、死亡(『往詣記』)(光縁寺墓碑銘) | 死因は不明だが、武田観柳斎の隊内同調者とも思われる | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.24# (07.25) |
土方・山崎丞・尾形俊太郎・吉村貫一郎、近藤の建白書を持参し、柳原前光・正親町三条実愛を訪問(『嵯峨実愛日記』)(『朝彦親王日記』)(『伊達宗城在京日記』)(『丁卯雑拾録』) | 建白書の内容は、17日の親藩会議で論じたもの | 06.25 (07.26) |
坂本龍馬、中岡慎太郎と共に岩倉具視を訪問し、大政奉還への理解を求める | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.27# (07.28) |
武田観柳斎の同志の僧善応を醒ケ井通松原下るで殺害(『世態志』) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.29 (07.30) |
近藤、佐藤彦五郎・小島鹿之助ら宛書簡 | 末尾に幕臣取立てのことが書かれている | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.29 (07.30) |
醒ヶ井通り花屋町に、近藤を嘲笑する張り紙 | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.某# | 御陵衛士、高台寺月心院へ移転(『秦林親日記』) | 8日といわれるが、これは『新撰組始末記』で、分離の旨を告げた日 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.某# | 島田魁、福島屋慶左衛門らに7両貸与(「新選組借用証文」) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.某 | 脱走した浅野薫、沖田に斬られる | 脱走後、御陵衛士と接触を図り、伊東の口利きで、土佐に行く前に、近藤の元を訪れ、沖田に斬られた | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 06.某 | 近藤、関白二条斎敬に建白書を提出 | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 07.02# (08.01) |
幕府の歩兵同士が島原で衝突、新撰組が仲裁(『伊達宗城在京日記』) | 二条城警備の大手組と東寺に駐屯の幕府歩兵同士の諍い | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 07.03# (08.02) |
二条城の幕府歩兵、東寺に押し寄せるが、新撰組が仲裁(『世態志』) | 昨日に引き続いてのもの | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 07.06 (08.05) |
永倉の長女お磯、誕生 | 07.06 (08.05) |
長崎で、イギリス軍艦イカルス号の水夫殺害事件 | 海援隊士に容疑がかかる | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 07.10 (08.09) |
髪結いの和泉屋伝吉、殺害され、こぎに入れられた首が、西本願寺西側の門で発見される | 『新選組物語』で新撰組の密偵とされるが、虚構と思われる。また、伝吉宅からは弾丸や密書が発見される | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 07.18# (08.17) |
対馬藩脱藩の多田壮蔵を捕縛、京都町奉行所へ引き渡し(『鹿児島県史料』) | 07.22 (08.21) |
陸援隊、誕生 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 07.27# (08.26) |
伊東、中岡慎太郎を訪問(『行行筆記』) | 土佐陸援隊が誕生、橋本皆助が水野八郎と名を変え加盟 | 07.29 (08.28) |
坂本龍馬・後藤象二郎、京都を出立 | 前日に、イカルス号の水夫殺害事件を聞き、解決に行く | |||||||
1867 | 慶応03年 | 08.08# (09.05) |
伊東・斎藤一・藤堂平助・三樹三郎、柳原前光・板倉伊賀守らに、建白書を提出(『中山忠能履歴資料』) | 長州の寛大な処分と、兵庫開港の是非についての建白書 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 08.08# (09.05) |
伊東・新井忠雄、京を出立して大宰府へ向かう(『品川弥次郎日記』) | 出立前に、同志と別杯を島原木津楼で交わす | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 08.19 (09.17) |
早瀬内匠ら数名、捕縛 | 京都四方へ放火、御室御所を奉じる、といった企て | 08.14 (09.12) |
幕府目付(慶喜の側近)・原市之進、暗殺 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 08.21# (09.18) |
伊東、大宰府着。真木外記に面会(『日知録』) | 08. | 「ええじゃないか」が流行 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 09.02# (09.29) |
薩摩藩、元新撰組隊士池田庄司を召抱える(『改訂肥後藩国事史料』) | 09.04 (10.01) |
後藤象二郎、入京 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 09.13# (10.10) |
中川宮、会津藩秋月悌次郎を招き、原市之進の後任に近藤の登用を提案(『朝彦親王日記』) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 09.14# (10.11) |
山崎烝、隊士を率いて本多勘解由・山岡将曹の捕縛に向かうが、二人には逃亡される。ただし、一味の数名は捕縛。同じ頃、藤井少進を捕縛(『高野山出張概略』) 翌日、隊士30名で、尾形長栄も捕縛 |
本多勘解由・山岡将曹は、公家の鷲尾隆聚の家来で、倒幕挙兵を企てていた。 藤井少進は有栖川宮家来。11月10日釈放。 尾形の尋問をしたのは、山崎と土方 |
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1867 | 慶応03年 | 09.15 (10.12) |
伊東・篠原、京都を出立し名古屋へ | 19日、名古屋着。22日、出立。25日、京へ着 | 09.19 (10.16) |
薩摩、長州の倒幕の密約 | 長州訪問の大久保らが、長州藩主父子らと会議 | |||||||
1867 | 慶応03年 | 09.20頃 | 土方、隊士募集に江戸へ下る | 同行:井上源三郎ほか | 09.20 (10.17) |
芸州藩代表、山口を訪問し長芸出兵盟約 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 09.20# (10.17) |
近藤、永井尚志邸にて土佐の後藤象二郎を紹介される(『維新土佐勤王史』)(『寺村左膳手記』) | 09.23 (10.20) |
明治天皇(16歳)即位 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 09.22# (10.19) |
近藤、後藤象二郎へ再会を願う書簡を送る(26日再会予定) | 26日に再度、27日に三度、再会を願う書簡を送るが実現せず | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 09.27# (10.24) |
近藤、岡山藩家老・日置帯刀と会談(『改訂肥後藩国事史料』) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 10.05# (10.30) |
近藤、後藤に大政奉還建白書の一覧を望む書簡を送る | 10.03 (10.29) |
後藤象二郎、大政奉還の建白書提出 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 10.07# (11.02) |
密偵村山謙吉を偽装の捕縛後、陸援隊に戻す | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 10.08# (11.03) |
佐藤家を訪問し、2泊(『橋本家日記』) | 10.08# (11.03) |
板倉伊賀守・永井尚志の身辺警護の任務につく | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 佐藤源之助を連れ、試衛館に向かう途中、大和屋清兵衛の店に立ち寄る | 10.09# (11.04) |
近藤、土佐陸援隊に潜入の村山謙吉による薩摩・十津川の倒幕挙兵計画を会津藩へ報告(『会津藩文書』) | 7日の村山謙吉からの報告に基づいたものと思われる。また、この報告を伊東が裏付け | 10.09 (11.04) |
坂本龍馬、入京 | |||||||
1867 | 慶応03年 | 10.09 (11.04) |
容保に招かれ、薩摩・土佐藩の探索を指示される | 10.12 (11.07) |
慶喜、二条城に重臣を招集、大政奉還を発表 | 13日、在京40藩の重臣を招集し、大政奉還についての意見を求める | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 10.13# (11.08) |
中山忠能邸を監視(『岩倉公実記』) | 長州藩主父子の官位復旧の勅書を携えた岩倉具視のこ八千丸を見過ごす | 10.13 (11.08) |
薩摩に倒幕の密勅下る | 偽勅(正親町三条実愛の筆) | |||||||
1867 | 慶応03年 | 10.13# (11.08) |
小島鹿之助、近藤に宛てて沖田の病気見舞い状 | 10.14 (11.09) |
長州に倒幕の密勅下る | 偽勅(中御門経之の筆) | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 10.14# (11.09) |
近藤、三条実愛を訪問(『嵯峨実愛日記』) | 門前で大久保利通と出会う? | 10.14# (11.09) |
大政奉還奏上*T42 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 10.19# (11.14) |
近藤、三条実愛を訪問(『嵯峨実愛日記』) | 10.15 (11.10) |
朝廷、大政奉還を勅許 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 10.21# (11.16) |
土方一行、江戸を出立し、品川の釜屋で休息(『品川町史』)(「新選組聞書」)(『聞きがき新選組』) | 佐藤源之助ほかが、品川まで同行。大磯・箱根・三島・四日市・大津と泊まる | 10.21 (11.16) |
幕府が消滅したため、倒幕の密勅は効力を失い、撤回 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 10.28# (11.23) |
近藤周斎(76歳)、死亡(金地院過去帳)(金地院墓碑銘) | 四谷舟板横丁の隠居屋敷で死亡。11月1日に江戸の会津藩邸に報告。14日に会津藩より近藤家に金20両。 | 10.24 (11.19) |
徳川慶喜、将軍職を辞職 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.01 (11.26) |
佐藤彦五郎宛(と思われる)書簡(時勢切迫の旨を書いた書簡を入京2日前に) | 11.03# (11.28) |
土方一行、京都へ着(「新選組聞書」)(11月12日付宮川音五郎宛沖田総司書簡)(11月1日付土方歳三書簡) | 11.01 (11.26) |
薩摩藩主・島津忠義、率兵上京の告諭書を掲げる | |||||||
1867 | 慶応03年 | 11.08# (12.03) |
後藤大助ら、伏見奉行所与力・横田蔵之助を殺害(『新撰組始末記』) | 巨椋池での禁猟を咎められての逆恨みによる | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.10# (12.05) |
斎藤一、御陵衛士を脱して、帰隊(『秦林親日記』) | 御陵衛士の公金50両を盗んだ末。近藤暗殺の報告 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.12 (12.07) |
宮川音五郎宛書簡(周斎を気遣う書簡。死亡をまだ知らず?) | 11.11 (12.06) |
近藤、松本良順宛に上洛を促す書簡 | 11.13 (12.08) |
薩摩藩主・島津忠義、鹿児島を出立 | |||||||
1867 | 慶応03年 | 11.14# (12.09) |
隊士総員に11月分の手当てが支給(『金銀出入帳』) | 11.14 (12.09) |
中岡慎太郎、三条制札事件で捕縛された宮川助五郎の身柄を受け取る | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.15 (12.10) |
近藤、山本覚馬に注文依頼していた三善道長を囲み酒宴 | 11.15# (12.10) |
坂本龍馬(33歳)・中岡慎太郎(30歳)、暗殺(『寺村左膳道成日記』)(『寺村左膳手記』) 中岡の死は2日後*T42 |
新撰組・原田佐之助が当時犯人とされる。今は見廻組・今井信郎が犯人とも(維新後の自白有)。ただし、薩摩がその黒幕とも。2日前には、伊東が忠告に出向く。また刺客の刀を原田のものと証言したと言われる | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.16# (12.11) |
陸援隊に潜入の村山謙吉、陸援隊屯所にて捕縛される(『神山左多衛日記』) | 17日、取調べを受ける。この日以降の消息不明。放免あるいは脱走し、翌4年4月ごろ、元陸援隊隊士によって斬殺とも | 11.17# (12.12) |
大久保一蔵、新撰組の坂本龍馬暗殺を岩倉具視から示唆される(11月17日岩倉具視宛大久保一蔵書簡) | 坂本龍馬暗殺の黒幕とも言われる二人、偽装工作とも見える | |||||||
1867 | 慶応03年 | 11.16# (12.11)頃 |
御陵衛士、朝廷に建白書を提出(『岩倉具視関係文書』) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.17 (12.12) |
原田、伏見へ出張 | 岸島芳太郎と同行 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.18# (12.13) |
紀州藩三浦休太郎の下に潜伏していた斎藤一を帰隊させる(三浦休太郎宛近藤勇書簡) | 11.18 (12.13) |
島津は、長州藩・毛利定広と再度の出兵同盟 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.18# (12.13) |
油小路事件(『秦林親日記』)(『新撰組始末記』)(『近藤勇』)(『新撰組顛末記』)(加納道広『史談会速記録』一〇四輯)(小山正武『史談会速記録』一〇四輯)(『鳥取藩慶応丁卯筆記』)(『往詣記』)(戒光寺墓碑銘)*T43 | 伊東甲子太郎(33歳)暗殺。藤堂平助(24歳)、服部武雄、毛内有之助、新選組に斬殺。三木三郎、篠原泰之進、加納鷲雄、富山弥兵衛、逃亡(昭和46年11月18日殉難碑が建立)。遺体は二日間現場に放置。討ち手は永倉・原田ら。 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.19# (12.14) |
三木三郎・加納道之助・富山弥兵衛、薩摩藩邸に入る(『京在日記』)(加納道広『史談会速記録』一〇四輯)(慶応4年1月23日付坂本権平ら宛高松太郎書簡) | 篠原泰之進は、尾崎刑部宅へ。 阿部十郎・内海次郎、土佐藩邸へ逃げ込むが拒絶される(『神山左多衛日記』)(慶応4年1月23日付坂本権平ら宛高松太郎書簡) |
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1867 | 慶応03年 | 11.19# (12.14) |
油小路事件に出動した隊士17人に手当てが支給(『金銀出入帳』) | この17名は、負傷した隊士か、相対した隊士と思われ、総数は倍の人数と思われる | 11.19# (12.14) |
大久保一蔵、新撰組の坂本龍馬暗殺を確信する書簡を岩倉具視に送る(11月19日岩倉具視宛大久保一蔵書簡) | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.20# (12.15) |
篠原泰之進・阿部十郎・内海次郎、薩摩藩邸に入る(『京在日記』)(阿部隆明『史談会速記録』九〇輯)(『神山左多衛日記』) | 11.20 (12.15) |
京都町奉行所と伏見奉行所廃止 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.21# (12.16) |
篠原泰之進・阿部十郎・内海次郎、伏見薩摩藩邸に移される(『京在日記』)(阿部隆明『史談会速記録』九〇輯)(『秦林親日記』)(『神山左多衛日記』) | 坂本龍馬暗殺の現場に残されていた鞘が原田のものと証言されたのはこの時とも | 11.24 (12.19) |
芸州藩兵が広島を出立 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.26 (12.21) |
新撰組などに警備地域割付の達し下る(『丁卯雑拾録』) | 北は五条通、南は御土居、東は鴨川東、西は御土居 | 11.25 (12.20) |
長州藩兵が三田尻を出立 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 11.26# (12.21) |
近藤、坂本龍馬暗殺の嫌疑により取調べを受ける(『神山左多衛日記』) | 幕府若年寄格の永井尚志に問われる | 11.30 (12.25) |
長州藩の増援部隊が三田尻を出立 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.02# (12.28) |
剣術の小手を購入 | 12.初旬頃# | 新撰組隊士名簿が作成される(『京都ヨリ会津迄人数』) | 島田の直筆 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.04 (12.30) |
徳川御親藩や遊撃隊などと軍議を開き、土佐藩兵の宿舎・方広寺を見張る | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.07# (01.01) |
天満屋事件(『新撰組始末記』)(『新撰組顛末記』)(『土佐史談』)(『晦結溢言』)(『幕末維新京都町人日記』)(『往詣記』)(『丁卯雑拾録』) | 紀州藩三浦休太郎を坂本・中岡暗殺の首謀者と睨み、陸奥宗光ら16名が襲い、三浦はかすり傷を負う。斎藤(軽傷)・梅戸勝之進(深手)・宮川信吉(死亡)ほか、襲撃側・十津川郷士中井庄五郎(死亡)はか | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.07 (01.01) |
興正寺事件(紀州藩要人暗殺未遂事件) | 家老水野大炊頭が襲われた。土方・原田・吉村貫一郎・岸島芳太郎・相馬肇らが護衛 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.08# (01.02) |
大坂の鴻池・加嶋屋ら10軒から、4000両を借用(『金銀出入帳』)(『鴻池善右衛門』)(長田家文書) | 近藤・土方連名 | 12.08 (01.02) |
三条実美、岩倉具視、長州藩主親子赦免 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.11# (01.05) |
12月分の手当てが支給(『金銀出入帳』) | 12.09 (01.03) |
王政復古の大号令*T44 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.11# (01.05) |
鴻池ら10軒に3000両を返済(『金銀出入帳』) | 12.09 (01.03) |
小御所会議が開催され、慶喜の辞官・納地を決定 | 京都守護職と京都所司代の廃止 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.12# (01.06) |
二条城に入る(『島田魁日記』)(『改訂肥後藩国事史料』)*T44 | 二条城に派遣される勅使に、従う島津忠義と薩摩藩兵と佐幕派との衝突回避のため | 12.12 (01.06) |
慶喜、二条城を退き下坂。13日大坂城へ | 松平春嶽、徳川慶勝が、二条城を訪れ、大坂城へ移るよう説得 | |||||||
1867 | 慶応03年 | 12.13# (01.07) |
紀州藩から、宮川信吉への香典42両(『金銀出入帳』) | 翌年2月28日に、遺族に手渡し | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.13# (01.07) |
隊士総員に、特別手当が支給(『金銀出入帳』) | 総額227両 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.13# (01.07) |
二条城の留守警備で水戸藩と対立(『徳川慶喜公伝』)(永井尚志『史談会速記録』一七二輯) | 新撰組は老中から、水戸藩は慶喜から命令があったと主張 | 12.14 | 京都所司代・京都守護職廃止 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.13# (01.07) |
新遊撃隊御雇を命じられるが、拒否(『淀稲葉家文書』)(『島田魁日記』) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.14# (01.08) |
永井尚志とともに下坂し、天満天神へ宿陣(永井尚志『史談会速記録』一七二輯)(『島田魁日記』)(『黒川秀波筆記』) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.15# (01.09) |
山崎烝・吉村貫一郎、伏見へ先発(『金銀出入帳』) | |||||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.16# (01.10) |
伏見奉行所に布陣(『島田魁日記』)(『新撰組顛末記』)(『新撰組始末記』)(『大槻文彦筆記』) | 12.16 (01.10) |
王政復古が列藩に布告 | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.17 (01.11) |
近藤の妾宅で静養。下坂や伏見転陣などもしていないと思われる | 12.16# (01.10) |
小林啓之助(21歳)、御陵衛士残党の間者として島田魁に殺害される(『新撰組始末記』)(『新撰組顛末記』)(阿部隆明『史談会速記録』九〇輯) | 26日の可能性も | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.18# (01.12) |
伏見の町の動揺を鎮静するために、新撰組の伏見奉行所布陣を知らせる触書(『東本願寺史料』) | 急な転陣のため、市民に米などを供出させたための布告 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.18# (01.12) |
未明に療養先の勇の休息所が、御陵衛士の残党に襲われるが、伏見に向かっており無事(阿部隆明『史談会速記録』九〇輯) | 12.18# (01.12) |
近藤、伏見墨染付近で御陵衛士の残党に狙撃され、右肩を負傷(『新撰組始末記』)(『秦林親日記』)(秦林親(『史談会速記録』)七八輯・九〇輯)(『新撰組顛末記』)(『近藤勇』)(『島田魁日記』)(『戊辰役実録』)(『改訂肥後藩国事史料』)(『同志連名記』)*T44 | 二条城で永井玄蕃との相談のためと言われるが、永井は大坂にいるため不自然。黒谷の会津本陣に行ったのか? | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.20# (01.14) |
近藤とともに下坂(慶応4年2月1日付)井上松五郎宛佐藤彦五郎書簡 | 12.20# (01.14) |
負傷の近藤に、会津藩から20両の見舞金下る(『金銀出入帳』) | 会津藩より藩医の派遣も。この日新撰組の荷物を預けていた家で火災 | ||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.21# (01.15) |
永倉率いる巡察隊が、都城兵らと衝突、発砲事件に(『知覧文化』)(『鹿児島県史料』) | 井上も、巡察で衝突した記録あり | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.21# (01.15) |
薩摩藩兵と衝突し、翌日まで対峙(『改訂肥後藩国事史料』) | この頃上京した土佐藩後藤象二郎とも衝突 | ||||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.25# (01.19)頃 |
尾張藩士荒川甚作・中村修之進、土方歳三に新選組の伏見退去を勧告(『慶応三年雑記録』) | 最初の応対は、大石鍬次郎 | 12.25 (01.19) |
庄内藩兵が三田の薩摩藩邸を焼き討ち | 江戸で騒乱を起こした薩摩に対するもの。騒乱を起こした首謀者は、益満休之助、伊牟田尚平、相楽総三 | |||||||
1867 | 慶応03年 | 12.28# (0122 |
隊士総員に、特別手当が支給(『金銀出入帳』) | 12.28 (01.22) |
その知らせが大坂に届く | |||||||||
1867 | 慶応03年 | 12.29# (01.23) |
小幡三郎、薩摩藩陣営に潜入(『金銀出入帳』) | 翌年1月3日、帰隊 | ||||||||||