西暦 元号 干支 月日 沖田総司房良 年齢 月日 土方歳三義豊 年齢 月日 新撰組
(試衛館・旧幕軍関係)
具体的内容・関係者 月日 幕府・新政府軍ほか 具体的内容・関係者
1868 慶応04年 戊辰 27 34 01.03#
(01.27)
肥後藩士・池辺ら、新撰組に伏見からの退去を勧告(『改訂肥後藩国事史料』) 01.01
(01.25)
慶喜、薩摩藩征討の表を朝廷に提出
1868 慶応04年 01.03#
(01.27)
伏見市街での戦闘に善戦するも、伏見奉行所が炎上し、淀方面に撤退(『新撰組始末記』)(『新撰組顛末記』)(『島田魁日記』)(『新撰組往事実戦譚書』)(『大槻文彦筆記』)(『慶応雑誌』)(『旧幕府』所収「伏見戦争前後の記事」)(『城州伏見合戦録』)(『鹿児島県史料集』)(『莠草年録』)*T45 伏見奉行所の警備は、表門を会津藩兵、南北の門を旧幕歩兵隊、裏門を新撰組。
永倉が抜刀隊を率いて出て、塀を乗り越えられない永倉を島田が怪力で引き上げたのはこの時。
和田十郎と宮川数馬、死亡
01.02
(01.26)
開陽と伴龍が兵庫沖で、薩摩藩の平運丸に対し砲撃
1868 慶応04年 01.03#
(01.27)
小幡三郎、薩摩藩陣営から脱出し、会津藩の白井砲兵隊に合流(『戊辰戦記結草録』)(『会津藩大砲隊戊辰戦記』) 伏見の薩摩藩邸が白井砲兵隊によって、放火される。
小幡と共に荒木信三郎も脱出。
01.03
(01.27)
薩摩藩艦船、開陽に砲撃を受け、3隻のうち、1隻自焼
1868 慶応04年 01.04#
(01.28)
淀城下に布陣(『新撰組始末記』)(『島田魁日記』)(『新撰組往事実戦譚書』) この日、錦旗が掲げられる。また、淀城は幕府軍の入城を拒絶 1.03
(01.27)
鳥羽伏見の戦い 大目付・滝川具挙、討薩表をもって鳥羽街道を北上し、赤池で衝突
1868 慶応04年 01.05#
(01.29)
井上源三郎(40歳) 千両松の戦闘で戦死。橋本まで退却(『島田魁日記』)(『新撰組往事実戦譚書』)(『新撰組始末記』)(『城州伏見合戦録』)(『徒然叢書』)(坂本柳佐『史談会速記録』二三輯)*T45 戦死者は、全員で14名。山崎蒸重傷 01.03
(01.27)
幕府、諸外国に薩摩に対し武器弾薬を売らないように要求
1868 慶応04年 01.06#
(01.30)
橋本の戦いに破れ、大坂に退却。八軒家の京屋忠兵衛に宿陣(『島田魁日記』)(『新撰組顛末記』) 戦死者は、4名。
楠葉での津藩の裏切りにより、幕軍総崩れ
01.06
(01.30)
慶喜、大阪城より脱出 同行:老中・会津藩主・桑名藩主。開陽丸に乗船
1868 慶応04年 01.07#
(01.31)
大坂二の丸に入るが、火災の発生により再び八軒家に宿陣。負傷者は城内で治療(『島田魁日記』)(『新撰組往事実戦譚書』)(『会津戊辰戦史』)*T46 大坂城内で、隊士総員に手当て支給(『金銀出入帳』)
隊士一人が、歩兵6名と共に伏見方面で長州兵に捕縛
01.07
(01.31)
朝廷より、徳川慶喜追討令
1868 慶応04年 01.08#
(02.01)
島田魁ら、木津川口に碇泊の船中にて一泊(『島田魁日記』) 01.08
(02.01)
慶喜、江戸へ 12日、江戸城へ
1868 慶応04年 01.08$
(02.01)
篠原ら元御陵衛士、江州松尾山に挙兵 6日に、綾小路俊実・滋野井公寿を将として、京を出立
1868 慶応04年 01.09#
(02.02)
永倉ら可動隊士は、順動丸に乗船し出航(『新撰組顛末記』)(『島田魁日記』)*T46
1868 慶応04年 01.10#
(02.03)
近藤らの負傷者、及び付き添い、富士山丸に乗船し、兵庫に碇泊(『島田魁日記』)(『新撰組往事実戦譚書』)(坂本柳佐『史談会速記録』二三輯)*T46
1868 慶応04年 01.11#
(02.04)
富士山丸、兵庫を出港して紀州由良港に寄港(『島田魁日記』) 12日、由良港を出港
1868 慶応04年 01.11#
(02.04)
隊士・小田数馬、天満橋に梟首(『岩国沿革志』)(『幕末維新大阪町人記録』) 殺害日は10日。桜井数馬のことか?もしくは間違いか?
1868 慶応04年 01.12#
(02.05)
順動丸、品川に入港(二月一日付井上松五郎宛佐藤彦五郎書簡)
1868 慶応04年 01.13#
(02.06)
近藤に登城の令が下される(『戊辰雑記集』) 怪我のため外套を着ての登城が許可されている
1868 慶応04年 01.14#
(02.07)
富士山丸、横浜港へ寄港。負傷者を横浜病院に入院させる(『島田魁日記』)(『新撰組往事実戦譚書』) 入院人数は22名。フランス語伝習所を仮の病院としたもの
1868 慶応04年 01.15#
(02.08)
富士山丸、品川着。隊士一同、旅館釜屋を宿に、近藤ら一部の負傷者は医学所へ(『島田魁日記』)(『新選組聞書』) 医学所は、蘭方医学校。松本良順が頭取 01.15
(02.08)
諸外国に王政復古を通告
1868 慶応04年 01.15#
(02.08)
介抱及世話役の島田、横浜の入院費用として、100両受領(『金銀出入帳』) 京都で隊士の波多野小三郎・小林峰吉を捕縛のため、市中取締役が出動。ただし、二人の名は新撰組の名簿にはない
1868 慶応04年 01.16#
(02.09)
近藤・土方、江戸城に登城(『学海日録』)*T46 佐倉藩士・依田七郎(学海)と会う。鳥羽伏見の戦いの様子を尋ねられたのはこの時 01.16
(02.09)
秋田藩に東征軍応援を命ずる
1868 慶応04年 01.18
(02.11)
佐藤彦五郎、粕谷良順と共に江戸へ向かい、近藤らと医学所で面談。また、銃20挺の購入も 01.18#
(02.11)
釜屋宿陣の隊士に、手当てが支給(『金銀出入帳』)
会津藩より2000両受領(『藤岡屋日記』)
この時の人数は63名
1868 慶応04年 01.18#
(02.11)
東本願寺に残していた一部の武器を、長州藩兵によって押収される
1868 慶応04年 01.19#
(02.12)
斎藤、医学所で傷の治療を受ける(『医学館文書』)
1868 慶応04年 01.20#
(02.13)
鍛冶橋門内の秋月右京亮元役宅が、新撰組屯所として用意される(『続徳川実記』)
1868 慶応04年 01.22#
(02.15)
負傷隊士、会津藩士らとともに幕府より鳥羽伏見の戦いでの慰問品を送られる(『続徳川実記』) ただし、近藤他6名へとなっているため、近藤・土方・沖田・永倉・斎藤・原田の幹部6名へと思われる 01.23
(02.16)
小栗上野介罷免、勝海舟旧幕府代表に
1868 慶応04年 01.23#
(02.16)
釜屋の隊士、秋月右京亮邸に移転(二月一日付井上松五郎宛佐藤彦五郎書簡) 01.23
(02.16)
幕府の職制が家職的なものへ改められる
1868 慶応04年 01.23#
(02.16)
土方、5両の買い物(『金銀出入帳』) 01.23#
(02.16)
大工の仙蔵に、25両支払い(『金銀出入帳』) 秋月右京亮邸の修繕費か? 01.25#
(02.18)
鳥羽伏見の戦いに敗走した兵士のため、幕府は医学館での収容を決定(『続徳川実記』)
1868 慶応04年 01.26#
(02.19)
負傷隊士ら27名、医学所へ入る(『医学館帳』) 01.25
(02.18)
各国代表、局外中立を布告
1868 慶応04年 01.26#
(02.19)
大工の仙蔵に、15両支払い(『金銀出入帳』)
1868 慶応04年 01.27#
(02.20)
医学所で治療の大町綱太郎ら、医学館へ移る(『医学館帳』) 医学館は、漢方医学校。
浅草の矢島内記の世話に
01.27
(02.20)
太政官代が二条城に移る
1868 慶応04年 01.27#
(02.20)
横浜の隊士に、手当て支給(『金銀出入帳』)
1868 慶応04年 01.28#
(02.21)
隊士全員、秋月右京亮邸に移転(『島田魁日記』)
1868 慶応04年 01.28#
(02.21)
近藤、隊士を連れ横浜病院へ治療に赴く(『金銀出入帳』) 長州藩兵に、東本願寺に置き去りの武器を武器を接収される 01.28
(02.21)
征夷大将軍嘉彰親王、京都へ凱旋
1868 慶応04年 02.01#
(02.23)
岸島芳太郎・尾関雅次郎、負傷者移転のため横浜病院に赴く(『島田魁日記』)
1868 慶応04年 02.02#
(02.24)
大工の仙蔵に、30両支払い(『金銀出入帳』)
1868 慶応04年 02.03#
(02.25)
横浜病院の負傷隊士、品川経由で医学所へ移る(『島田魁日記』) 02.06
(02.28)
熾仁親王を先頭に東征の途へ 9、有栖川宮を東征大総督に任命
1868 慶応04年 02.03#
(02.25)
幕府より、300両を受領(『金銀出入帳』) 02.07
(02.29)
幕兵の一部が脱走し、古屋佐久左衛門(高松凌雲の兄)に統率される
1868 慶応04年 02.03#
(02.25)
鉄砲を購入(『金銀出入帳』) 02.08 松平容保・松平定敬の登城を禁止
1868 慶応04年 02.07#
(02.29)
近藤、治療のため横浜病院に赴く(『島田魁日記』) 02.10
(03.03)
大垣までを鎮撫
1868 慶応04年 02.10#
(03.03)
尾関雅次郎・島田魁、横浜へ近藤を迎えに(『島田魁日記』) 02.12
(03.05)
慶喜、上野寛永寺入り
1868 慶応04年 02.12#
(03.05)
近藤、江戸城に登城し、慶喜の警護を下命される(『島田魁日記』)(『新撰組往事実戦譚書』)*T47 02.13
(03.06)
会津・神保修理、死を賜る
1868 慶応04年 02.13#
(03.06)
隊士に、手当て支給(『金銀出入帳』) 02.13
(03.06)
伊東らと、佐野らの遺骸を戒光寺へ改葬
1868 慶応04年 02.15#
(03.08)
半隊ずつ、慶喜の護衛にあたる(『島田魁日記』) 02.15
(03.08)
大総督・有栖川宮、京都を立つ
1868 慶応04年 02.15#
(03.08)
医学所の隊士23名に、手当て支給(『金銀出入帳』) 02.15
(03.08)
堺事件起こる
1868 慶応04年 02.15#
(03.08)
大工の仙蔵の支払い20両を、寺尾安次郎に預ける(『金銀出入帳』)
1868 慶応04年 02.17#
(03.10)
隊士3名、甲府へ出立(『金銀出入帳』)
1868 慶応04年 02.20$
(03.13)
鈴木三樹三郎、篠原泰之進、新井忠雄、赤報隊の偽官軍事件に関連して投獄される 02.22
(03.15)
容保、会津に帰国
1868 慶応04年 02.24#
(03.17)
マントを購入(『金銀出入帳』) 02.23
(03.16)
渋沢成一郎、彰義隊を結成し上野を占拠
1868 慶応04年 02.25
(03.18)
近藤、周斎の墓参 02.25
(03.18)
勝海舟、旧幕府の軍事最高責任者に
1868 慶応04年 02.25
(03.18)
キン、夫と共に越後三根山に出立 02 佐藤彦五郎、井上松五郎宛書簡(土方歳三、沖田総司全書簡集に記載なし) 02.25#
(03.18)
慶喜の護衛終了(『島田魁日記』) 02下旬 松本良順、今戸八幡の宮司宅に移り住む
1868 慶応04年 02.26
(03.19)
ミツ、夫林太郎と共に庄内に向けて出立 02.27#
(03.20)
大石鍬次郎、先触れとして甲州に出張(『金銀出入帳』)
1868 慶応04年 02.26#
(03.19)
大工へ支払い20両が、沖田に渡される(『金銀出入帳』) 02.27#
(03.20)
幕府より甲州出陣の軍資金を受領(『金銀出入帳』)
1868 慶応04年 02.27#
(03.20)
松本良順に治療費として100両支払い(『金銀出入帳』)
1868 慶応04年 02.28#
(03.21)
甲府鎮撫を命じられ、甲州出陣の手当て支給(『島田魁日記』)(『金銀出入帳』) 隊士49名に各10両、局長附人数21名に各5両
1868 慶応04年 02.28
(03.21)
10両沖田氏渡しとある 02.28#
(03.21)
近藤の妻子に300両、故宮川信吉に50両を渡す(『金銀出入帳』) 馬丁・沢忠助の妻にも3両
1868 慶応04年 02.29
(03.22)
一同6両2分、沖田遺すとある 02.29#
(03.22)
会津藩と松本良順より、甲州出陣の軍資金を受領(『金銀出入帳』) 会津より1200両、松本より3000両。また松本の口利きで、浅草の弾左衛門(矢島内記)配下100名が加わる
1868 慶応04年 02.29#
(03.22)
両長召抱人と合流負傷隊士に、甲州行手当て支給(『金銀出入帳』)
1868 慶応04年 02.29#
(03.22)
ズボンの代金13両2分、中村屋に支払い(『金銀出入帳』)
1868 慶応04年 03.01#
(03.24)
甲陽鎮撫隊として、出陣(『島田魁日記』)(『戊辰戦争見聞略記』)『川路聖謨文書』 内藤新宿、宿陣。矢島配下との合流のため。遊女屋を全部買いきった。
出立日は2月30日とも。
1868 慶応04年 03.02
(03.25)
日野まで同行し、しこを踏んだと言い、その後関田家に一時世話になったエピソードが残る 03.02
(03.25)
平作兵衛家でぼた餅を食べる 03.02#
(03.25)
日野宿を通過して、八王子に宿陣(「河野清助日記」)(「宇津木政兵衛日記」)(「柏尾の戦」)*T47 佐藤彦五郎、日野農兵隊の同行を懇願し、春日隊として出陣。近藤は大久保剛、土方は内藤隼人と改名
1868 慶応04年 03.03#
(03.26)
与瀬に宿陣(「柏尾の戦」) 03.03
(03.26)
赤報隊相楽総三、偽官軍として下諏訪で刑死
1868 慶応04年 03.04#
(03.27)
駒飼に宿陣し、新政府軍の動向を探る(『柏尾坂戦争記』) 近藤は、本陣の渡辺半兵衛方を宿にし、大石がここで、近藤の元へ 03.04
(03.27)
東山道軍、甲府城入り 新政府軍、駿府城を接収
1868 慶応04年 03.05#
(03.28)
勝沼に布陣(『立川主税戦争日記』) 布陣人数121名。脱走80名ほど 03.05
(03.28)
大総督・有栖川宮、駿府城に着
1868 慶応04年 03.05#
(03.28)
結城無二三、近藤の命により村々へ回状を出す(田辺家文書)
1868 慶応04年 03.06#
(03.29)
早駕籠で日野より江戸に下る(「宇津木政兵衛日記」)(「河野清助日記」)(『柏尾坂戦争記』) 03.06#
(03.29)
結城無二三、農兵募集のため名主らに甲陽鎮撫隊趣意を説く(田辺家文書)(「柏尾の戦」)(「山内豊範家記略」) 03.06
(03.29)
山岡鉄舟、西郷への勝の書簡を託される
1868 慶応04年 03.06#
(03.29)
勝沼宿で戦闘後、甲州街道を江戸に敗走(『島田魁日記』)(『立川主税戦争日記』)(『莠草年録』)(「河野清助日記」)(3月8日付山岡鉄舟・益満休之助宛勝海舟書簡)(『太政官日誌』)『戦亡殉難志士人名録』 戦闘前の早朝、近藤、近田勇平と名乗り、栗原宿まで出向く。
戦死は、加賀爪勝之進と上原栄作
03.06
(03.29)
駿府城で総督府の軍議 3月15日、江戸城攻撃の日に決定
1868 慶応04年 03.07#
(03.30)
新撰組の桑原某、小島家を訪問(『小島家日記』) 小島鹿之助、農兵隊を組織し援軍として八王子まで出陣。近藤から解兵の手紙があるが、その使者か?
1868 慶応04年 03.07$
(03.30)
鈴木三樹三郎、篠原泰之進、新井忠雄、入獄を解かれて、薩摩藩預かり 03.09
(04.01)
野洲梁田で新政府軍と戦い、会津で衝鋒隊を結成
1868 慶応04年 03.08#
(03.31)
早駕籠で江戸より日野宿入り(「宇津木政兵衛日記」) 03.08#
(03.31)
近藤、八王子まで退却(3月8日付「甲州道中官軍通行の様子書状」)(『人見寧履歴書』)*T47 03.09
(04.01)
山岡鉄舟、勝の書簡を西郷へ 駿府城にて会見
1868 慶応04年 03.10
(04.04)
高島藩による、春日隊の捜索 03.09#
(04.01)
日野を夜中に通過し、江戸へ(「河野清助日記」) 江戸着は10日か? 03.10
(04.02)
会津藩の軍制改革 朱雀隊(18〜35歳・1200人)、青竜隊(36〜49歳・900人)、玄武隊(50歳以上・400人)、白虎隊(16・7歳・300人)
1868 慶応04年 03.11#
(04.03)
永倉新八・原田左之助、新選組を脱隊し、靖共隊を結成(『新撰組顛末記』) 近藤との意見の対立から。日にちは12日の可能性も。
永倉らは、松本から300両借用
03.12
(04.04)
西郷は江戸の池上本門寺・新政府軍本営へ
1868 慶応04年 03.12#
(04.04)
負傷隊士、会津へ先発(『立川主税戦争日記』)(「新選組聞書」) 11日から13日の間と思われる。久米部正親が引率し、7〜8名の負傷者に、介護の隊士で、総勢20数名 03.13
(04.05)
中山道軍、板橋と府中に到着
1868 慶応04年 03.13#
(04.05)
先発の隊士48名、五兵衛新田の金子家着(『金子家史料』) 金子家を新撰組に紹介したのは、親類で高級餅菓子「小島屋」を営む泉谷次郎左衛門。松本良順も絡む 03.13〜14 西郷と勝の会談 15日の江戸城総攻撃中止決定
1868 慶応04年 03.15#
(04.07)
隊士4名と共に、金子家に到着(『金子家史料』) 03.14#
(04.06)
近藤、隊士10名と共に金子家着(『金子家史料』) 近藤、ここで初めて「大久保大和」と記されている 03.14
(04.06)
五箇条の御誓文
1868 慶応04年 03.16#
(04.08)
隊士3名、金子家に到着(『金子家史料』) 25日まで、連日隊士が到着。総員169名
1868 慶応04年 03.16#
(04.08)
松波権之丞、金子家を訪問(『金子家史料』) 勝海舟の下で、「軍事方」として抗戦派に恭順を工作した人物
1868 慶応04年 03.17#
(04.09)
吉沢大助、金子家を訪問(『金子家史料』) 松波権之丞と同役
1868 慶応04年 03.18#
(04.10)
隊士、今戸へ出張(『金子家史料』) 03.18
(04.10)
奥羽鎮撫軍、松島湾の寒風沢に到着 奥羽鎮撫総督・九条道孝、参謀・薩摩大山格之助、長州世良修蔵
1868 慶応04年 03.19#
(04.11)
会津藩士・兼川直記、金子家を訪問(『金子家史料』) 03.19
(04.11)
総督に会津藩の恭順を告げる
1868 慶応04年 03.24#
(04.16)
佐々井半十郎、松本良順に宛て新撰組の五兵衛新田からの移転問題について手紙を記す(『金子家史料』) 佐々井は関東代官。移転したい旨を松本が伝え、その返事
1868 慶応04年 03.24#
(04.16)
松本良順、金子家を訪問(『金子家史料』) 03.25
(04.17)
仙台・米沢藩、会津藩救済について会議
1868 慶応04年 03.27#
(04.19)
会津藩士数名、金子家を訪問(『金子家史料』)
1868 慶応04年 03.29#
(04.21)
佐々井半十郎、転陣について再度、松平太郎の意向を伝える(『金子家史料』)
1868 慶応04年 04.01#
(04.23)
下総流山に転陣(『金子家史料』) 隊士数227名。長岡屋が本陣 04. 甲鉄艦、アメリカより横浜到着
1868 慶応04年 04.03#
(04.25)
流山の陣屋を新政府軍に包囲される(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『新撰組往事実戦譚書』)(『官軍記』) 主戦派の旧幕臣などの宇都宮占拠計画ありとして、宇都宮藩より板橋の総督府に援軍派遣の要請があり、その出陣途中に流山の一報が入り、部隊を二分した 04.02
(04.24)
出羽矢島藩に庄内藩征討を命じる
1868 慶応04年 04.03#
(04.25)
近藤救出工作のため、江戸に潜入(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『新撰組往事実戦譚書』)
付き添いの一人は相馬主計
04.03#
(04.25)
近藤、新政府軍に投降し、越谷に連行(『新撰組往事実戦譚書』)(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『官軍記』)(「井伊直憲家記」)*T48 東山道軍・有馬藤太。同行:野村利三郎・村上三郎、護送者:土佐・上田楠次
1868 慶応04年 04.04#
(04.26)
勝海舟に流山の顛末を語る(『勝海舟日記』)
6日には、幕臣の津田真一郎、二人の会談内容を問い合わせる
04.04#
(04.26)
近藤、板橋の新政府軍本営に連行される(『総督府日記』) 近藤の首実検をしたのは、元御陵衛士・加納鷲雄と清原清
1868 慶応04年 04.04#
(04.26)
島田魁、土方と合流し、酒井屋敷に入る(『島田魁日記』) 04.04#
(04.26)
武装解除後に解散し、京都以来の隊士の多くは会津へ(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『立川主税戦争日記』) 会津へ向かった京都以来の隊士は先発も含め51名。五兵衛新田で合流した隊士は70名ほど
1868 慶応04年 04.05#
(04.27)
土佐藩士・上田楠次、近藤の処遇について板橋詰の幕臣平岩金左衛門と話し合う(『勝海舟全集』) 04.06
(04.28)
秋田藩に庄内藩征討を命じる
1868 慶応04年 04.05#
(04.27)
近藤、投獄される。助命嘆願の手紙を持参した相馬主計、捕縛(『総督府日記』)(「永代記録」)(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』) 相馬持参の手紙は、大久保一翁・勝海舟・土方のものと言われる。
6日には、相馬尋問される
04.10
(05.02)
会津と庄内、同盟を結ぶ
1868 慶応04年 04.10#
(05.02)
土方以下、今戸八幡別当寺に移る(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』) 04.10〜11 徳川将兵、大量脱走
1868 慶応04年 04.11#
(05.03)
土方以下、鴻之台の幕府脱走軍に合流(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『立川主税戦争日記』) 同行者6名。島田魁・漢一郎・中島登・畠山芳次郎・沢忠助・松沢乙造 04.11#
(04.03)
江戸開城(『中島登覚え書』) 慶喜、水戸へ赴く
1868 慶応04年 04.12#
(05.04)
市川の大林院における旧幕軍の評議で参謀に選出。先方軍参謀として宇都宮に向けて出陣(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『立川主税戦争日記』)(『戊辰戦争見聞略記』)(『幕末実戦史』)『晦結溢言』 総督:大鳥圭介。先鋒軍の指揮官:秋月登乃助、率いる部隊は伝習一大隊・桑名藩隊・砲兵隊など1000名。中軍・大鳥、後軍・米田桂次郎 04.11
(05.03)
榎本武揚、海軍の引渡しを拒否、軍艦8艘を率いて品川を脱出、館山に向かう
1868 慶応04年 04.12#
(05.04)
先鋒軍、小金に宿陣(『戊辰戦争見聞略記』) 靖共隊、江戸本所の霊山寺を出発し、鴻之台へ向かう 04.12
(05.04)
勝海舟、単身館山に赴き、榎本武揚を尋ねる
1868 慶応04年 04.13#
(05.05)
先鋒軍、布施に宿陣(『千葉県東葛飾郡誌』) 04.12
(05.04)
仙台・米沢藩、会津藩寛典処分の嘆願書を提出 17日、却下
1868 慶応04年 04.14#
(05.06)
後軍、山崎に宿陣。原田左之助、同地で靖共隊を離脱し江戸へ戻る(『戊辰戦争見聞略記』)
1868 慶応04年 04.14#
(05.06)
福田平馬、助命嘆願のため勝を訪問(『勝海舟日記』) 福田平馬は、神奈川奉行所の役人で、天然理心流の門人
1868 慶応04年 04.15#
(05.07)
先鋒軍、水海道に宿陣(『戊辰戦争見聞略記』)
1868 慶応04年 04.16#
(05.08)
先鋒軍、宗道に宿陣(『立川主税戦争日記』)(『戊辰戦争見聞略記』) 先鋒軍、下妻藩に合兵の使者を派遣(『島田魁日記』)(『総房鎮撫日誌』)
靖共隊、中軍と合流(『慶応兵謀秘録』)
1868 慶応04年 04.17#
(05.09)
先鋒軍の一隊、土方と共に出陣し、下館藩より兵糧を供出させる(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『立川主税戦争日記』)(『戊辰戦争見聞略記』)(「弁事局記」) 下館城下に宿陣 04.17
(05.09)
榎本、品川に戻る
1868 慶応04年 04.18#
(05.10)
先鋒軍、蓼沼の満福寺に宿陣(『千葉県東葛飾郡誌』)(「弁事局記」) 宇都宮城攻略の軍議を開く
1868 慶応04年 04.19#
(05.11)
先鋒軍、宇都宮城を攻略。当日は城外に宿営(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『立川主税戦争日記』)(『戊辰戦争見聞略記』)(『幕末実戦史』)(『野奥戦争日記』)(『慶応兵謀秘録』) 先鋒を土方率いる桑名藩隊、中軍を秋月率いる伝習第一大隊、後軍を途中合流の回天隊。
戦意を失った味方の従兵を斬ったのはこの時
1868 慶応04年 04.20
(05.12)
笠間藩重役宛書簡(内藤隼人の名で、秋月登之助との連名)(土方歳三、沖田総司全書簡集に記載なし) 04.20#
(05.12)
日光を目指す旧幕軍本隊、鹿沼方面より宇都宮に進み、先鋒軍と合流(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『戊辰戦争見聞略記』)(『幕末実戦史』)(『野奥戦争日記』)(『慶応兵謀秘録』) 靖共隊、安塚に宿陣
1868 慶応04年 04.21#
(05.13)
旧幕軍、壬生城攻撃の軍議(『野奥戦争日記』) 靖共隊、壬生方面に探索に
1868 慶応04年 04.22#
(05.14)
旧幕軍、壬生城攻撃に出陣し安塚で戦闘(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『立川主税戦争日記』)(『戊辰戦争見聞略記』)(『幕末実戦史』) 土方の参戦は不明。ただし、桑名藩隊は参加しているし、大鳥が不参加のため、可能性は高い
1868 慶応04年 04.23#
(05.15)
この戦いで、足を負傷し、今市へ護送される 04.23#
(05.15)
新政府軍、宇都宮城奪還のため、六道口より攻撃を開始。旧幕軍は支えきれず敗走(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『立川主税戦争日記』)(『戊辰戦争見聞略記』)(『幕末実戦史』)(『慶応兵謀秘録』) 04.23
(05.15)
奥羽越31藩の同盟を結成し、建白書を太政官に提出
1868 慶応04年 04.24#
(05.16)
今市で、土方勇太郎と面談(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)
昼過ぎに今津から会津へと移動
04.25#
(05.17)
近藤(35歳)、板橋にて斬首、三日晒しとなる(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(「総督府日記」)(龍源寺墓碑銘)(天寧寺墓碑銘)*T49 備中池田藩横倉喜三次の介錯。
首は板橋では晒されなかったとも
04.26
(05.18)
松本良順、門下生を従えて奥羽戦線へ脱走
1868 慶応04年 04.26#
(05.18)
田島陣屋に至る(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)
秋月とはここで別れる
04.25#
(05.17)
会津の新撰組、赤津に出張(「夢乃うわ言」) 幕臣・望月光蔵が出会ったのは、近藤隼人。また、彼は清水屋で土方に枕を投げられた相手
1868 慶応04年 04.28#
(05.20)
近藤の首級、京都に送られる(『戊辰間新聞』)(「永代記録」) 26日に、送ったとも 04.28
(05.20)
海軍の艦船8艘の内4艘・富士山・翔鶴・朝陽・観光を新政府軍に引渡す
1868 慶応04年 04.28#
(05.20)
近藤勇五郎ら7名、近藤の遺体を掘り出す(『新選組始末記』) 小島家にも佐藤家にも、近藤の遺体が板橋から運び出された記述はない。また、近藤が最後に立ち寄った石山家で掘り起こした話したが伝わる
1868 慶応04年 04.29#
(05.21)
会津入りして、七日町の清水屋に投宿(『島田魁日記』)(『中島登覚え書』)(『簿暦』)
当日、大野右仲が訪問
04.29#
(05.21)
近藤勇五郎ら、近藤の遺体を龍源寺に葬る(『新選組遺聞』)

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