佳音



もうじき木枯らしが吹くかという時期に、行商姿の歳三は試衛館の門を潜った。
歳三は石田散薬の行商の傍ら、四月に一度ぐらいに割合で、試衛館を訪れている。
それは、江戸界隈での常連客の元へ薬を届けるためで、その間は試衛館を塒に使わせてもらっているのだ。
もちろん全くただでという訳でなく、食い扶持の現物持参と言う形を取っているが、わざわざ宿を取ることを思えばそれは微々たるものだし、なにより気心の知れた場所だから何かと都合がいい。
それ以外の理由としては、ここに宗次郎がいると言うことが、何より大きいだろう。
なぜかといえば、宗次郎を気に入っているのぶが、慎ましやかな暮らしぶりの宗次郎の家を気遣い、宗次郎が着るものに困らぬよう、歳三のお古を繕ったり仕立て直したりしたものを、歳三が預かり届けに来ているからである。
つまり季節の変わり目に歳三は、次の季節に着るものを持ってきては、半月ほど試衛館に滞在して、前の季節のものを持って帰るという仕組みが、いつの間にか出来上がっていたのである。
そんな訳で、今回も歳三はいつものように荷物を抱え、気楽に試衛館に顔を出した。

門を潜ると玄関には向かわず、裏へと回る。
客ではない歳三は、勝手知ったるとばかりに、裏手の厨近くの井戸の水を汲み上げ、傍に置いてある盥にざーっと水を入れて、足を濯ぎだした。
いつもならばこの辺で、
「歳さんっ!」
と、元気な声が掛かり、宗次郎が飛び出してくるのだが、今日はその声が聞こえてこない。
用事を頼まれお使いにでも行っていないのかと思いながら濯いでいると、背後でかたりと音がした。
振り返ると宗次郎が厨の戸口に手を掛けて、歳三をじっと見ていた。
「なんだ、宗次。居たのか」
歳三が声を掛けても、宗次郎はそこに固まったまま動かない。
いぶかしんで歳三が近づくと、だっと身を翻して家の中に駆け込んでしまった。
歳三が留める暇もありゃしない。
しかし、総司に逃げられるなんて初めての出来事で、歳三も伸ばしかけた手をそのままに、その場に固まってしまった。

しばらくして我に返った歳三は、先ほどの宗次郎の反応に悩みつつ頭をがしがしと掻きながら、試衛館に泊まる時の部屋でもある宗次郎の部屋に向かった。
葛篭を部屋の片隅に置き、その横に宗次郎の衣服を包んでいる風呂敷包みを置いてから宗次郎を探しに部屋を出た。
宗次郎が居るだろうと当たりをつけた場所を探すが、宗次郎も歳三に見つからないように隠れているのだろう、雲隠れしていていっこうに見つからない。
仕方がないから試衛館の主である周助の元へ、挨拶をしに行った。
その途中で、ひょっこりと井上に出くわし、
「おや、歳さんじゃないかい。いつ来たんだね」
と、声を掛けられた。
手に泥のついた野菜を抱えているので、井上は裏庭の隅に作っている畑から戻ってきたところらしい。
どうりで宗次郎を探している間、井上に会わなかったはずである。
「つい、さっきさ」
「そうかい。これから先生のところかい?」
手馴れた仕草で水を汲み、井上はざぶざぶと野菜を洗い始めた。
「ああ、挨拶ぐらいはしとかなきゃな。しばらく世話になるんだし」
歳三は手土産をぶらぶらと見せながら、井上に気になっていた宗次郎のことを聞いた。
「ところで、宗次はどうかしたのか?」
「ん?」
洗っていた野菜から目を離して、井上は歳三の方へ目線を投げかけた。
「来てすぐに会ったんだが、逃げられたんだ」
柱に凭れかかるようにして井上を見下ろす歳三を、
「宗次郎にかい?」
井上は振り向いて聞き返した。
「ああ……」
不貞腐れたような返事を返す歳三を、井上はちょっと微笑ましく思った。
宗次郎に拒否されるなんてことは、歳三にとっては青天の霹靂で、それで機嫌が悪くなっているだろうということは、すぐに思いつくことだったから。
しかし、歳三に聞かれて、宗次郎が歳三を避けた理由を知っている――というか、すぐに思いついた井上は、
「そうさなぁ。まぁ、宗次郎もちょっと思うところがあるんだろうよ」
と、答えをすぐには教えずにはぐらかした。
「思うところ?」
もっとも訳の判らない歳三は、案の定眉を顰めたが。
「宗次郎にお茶を持って行かすから、直接お聞き」
井上は教える気はない様子だ。
「…………。判った」
井上から理由を聞き出そうと思っても、無理だと判断した歳三は、矛を収めて周助の部屋に向かった。

挨拶をしながら、周助に手土産を差し出し、
「また、しばらく厄介になります」
歳三が頭を下げると、
「ああ、ゆっくりしてお行き」
と、周助は鷹揚に言ってくれた。
父を知らずに生まれてきた歳三は、この周助にどこか父の面影を求めているのか、その懐の深さにいつも癒されるものがある。
それを知ってか知らずか、周助は歳三をいつも温かく向かいいれていた。
「で、今日はなんだい?」
歳三が差し出した土産を指して聞いてくるのに、歳三は自分で包みを開けながら、
「亀戸天神の船橋屋のくず餅です」
亀戸天神の舟橋屋のくず餅といえば、黒蜜を垂らし黄な粉をたっぷりと掛けて食べるのだが、これがなんとも言えず美味いのだ。
宗次郎の大好物でもあるから、機会があれば歳三はこうして買ってくる。
「ほう。美味そうじゃの」
周助への手土産に渡したこれは、だからそのついでの代物なのだ。
それを承知の上で、目にしたくず餅に、酒もいけるが、甘いものもいける口の周助は目を細めた。
すでに涎をたらさんばかりで、茶の来るのも待てそうにない感じだ。
そこへ、足音を立てぬ気配が近づいてきて、すっと障子が開いた。
そこへ現れたのは、歳三から逃げ出した宗次郎である。
井上に言われてしぶしぶお茶を持ってきたらしく、嫌々来たとわかる風情で、歳三の胸がつきんっと痛む。
宗次郎は無言で、周助と歳三の前にお茶を差し出した。
「おや? 宗次郎、お前の分はないのかい?」
いつもなら歳三の土産をここで一緒に食べるために、宗次郎自身の茶も持ってくるから、周助がそう問いかけるのも無理はないが、総司はやはり無言で頷くだけで、すぐにこの場を立ちたそうな雰囲気が漂っている。
なんだか歳三と一緒に居たくないといわれているようで、歳三はどうにも落ち着かない気分にさせられていた。
久し振りに試衛館に来た歳三には、会ったばかりの宗次郎の機嫌を損ねるような真似をした記憶が一切ない。
それとも前回来た折りに、何か仕出かしてしまっていたのだろうかと、頭を捻るばかりだ。
だが、それとは裏腹に歳三の口から出た言葉は、
「宗次には、ちゃんと別に買ってきてあるから、後で一緒に食べよう」
というものだったが、宗次郎はうんとも言わず、そそくさと部屋を出て行こうとする。
それに、元々短気な気のある歳三はむっとして、
「おい。さっきからなんで一言もしゃべらねぇ? なんか気にいらねぇことがあるんだったら、ちゃんと言えよ」
腰を浮かせて宗次郎に詰め寄れば、ぶんぶんと、宗次郎は首を横に振るが、やはり口は一文字に結んだままだ。
普段どちらかといえば口数が多い方の宗次郎が、何故一言もしゃべらないのか、それが歳三には一番不可解であった。
こうなれば何が何でもしゃべらせようと思うのが、歳三である。
周助の前だというのに、押し倒すようにして宗次郎に圧し掛かった。
擽ってでも声を出させようと言うのである。
歳三のそういう稚気のあるところも、周助の気に入る所以であったが、短絡的な歳三の行動に周助も苦笑を禁じえない。
もっとも止め立てする気はない様で、にこにこと二人の遣り取りを見ているだけだったが。
ばたばたと師匠の前であるのも忘れて、二人は上になったり下になったり暴れていたが、
「やめてよ。歳さんっ!」
と、とうとう宗次郎の口から声が出た。
が、いつもと違うがらがら声に、歳三はびっくりだ。
「なんだ? 宗次、その声……」
びっくりしすぎて押さえつけていた腕の力を緩め、呆然と宗次郎を見下ろした。
そして、かあ〜っと真っ赤に染まった宗次郎を見て、歳三はあることに思い当たって、
「風邪か?」
と、心配になって宗次郎に問いかけた。
顔が赤いだけじゃなく、触れ合った体まで熱いような気がして、歳三が熱を測るために宗次郎の額に手をやろうとすると、ばっと勢いよく振り払われた。
体の力を抜いていた歳三はその勢いに押されて、その場にごろりと転がってしまった。
そして、歳三の下から抜け出した宗次郎は、それこそ脱兎の勢いで逃げ出した。
本当に宗次郎は俊敏で逃げ足が速いが、歳三が咄嗟に追いかけようとすれば、周助に、
「お待ち」
と、引き止められてしまった。
歳三がたたらを踏むような体勢で振り返れば、
「宗次郎は、風邪じゃないよ」
茶を一口啜りながら言われ、さらに、
「まぁ、そこへお座り」
理由を教えてやるよとばかりに、続けられて、
「風邪じゃない、って?」
その場に歳三が腰を下ろして聞き返すと、
「ああ、そうだよ」
周助は歳三の不服を意に介さず、おっとりと答えた。
「じゃあ、一体あの声は、なんなんだ?」
風邪以外に宗次郎の声が可笑しい理由を思いつかない歳三が問えば、
「声変わりだよ」
と、あっけらかんと宗次郎が言わなかった――いや、言えなかった理由を、歳三に周助は告げた。
「は?」
思いがけない答えに二の句が告げず、素っ頓狂な声を歳三は出してしまった。
「恥ずかしいらしくってね。ここんところ、わたしらともちゃんと話さないよ」
にこにこと孫の成長を喜ぶ爺さんのような周助の表情である。
それもある意味、間違いではないだろうが。
けれど、宗次郎の声変わりというのは、歳三には思いがけない話で、びっくりしてしまったというのが本当のところであった。
会うたびに宗次郎の背丈が伸びていたりして、歳三を戸惑わせてはいたが、それでもまだまだ子供だと思っていた歳三である。
宗次郎がせっかく持ってきた茶を飲み菓子を食べつつ、どうやって宗次郎を捕まえようかと、歳三は頭をめぐらしていた。

宗次郎のがらがら声を聞いても、声変わりなど微塵も思わずに、「風邪か?」などと頓珍漢なことを言ったりした自分の間抜けさを苦笑い、ぽりぽりと頭を掻きながら、歳三はぶらぶらと宗次郎を探していた。
たぶん必死になればなるほど、宗次郎には逃げられるだろうと思ってのことだ。
そして、取りとめもなく、宗次郎のことを考えていた。
普段から歳三は折りに触れ、宗次郎のことを考える癖がついている。
それは、花を見たときであったり、菓子を食べているときであったり。
つまり花を見れば宗次郎にも見せてやりたくなるし、一緒に見たいなとも思ってしまうし、菓子であれば食べさせてやりたいと思ってしまうと言う具合だ。
我ながらちょっと病気だなと、歳三も思っている。
だが、もう直らない癖だとも思って、諦めてもいる。
ぐるっと試衛館を一周する気で歳三が歩いていると、すぐに素振りしている宗次郎を見つけた。
もっと見つけるのが難しいかと思っていたから、ちょっと拍子抜けだ。
歳三から逃げていた理由がばれたので、隠れるのは止めにしたらしいのだが。
諸肌脱ぎで木刀を振るっている宗次郎の体は、まだ少年のしなやかさに溢れているが、鍛えられている筋肉に覆われていて美しい。
体躯自体は、歳三よりまだ頭一つ低いが、すぐに追いつかれそうな勢いだ。
本当なら傍に居て、その成長をずっと眺めていたくなる。
それが、会う度にぽんっと目の前に急に成長の過程を見せられて、戸惑ってしまう。
なんだか取り残されたような、置いてけぼりにあったような、そんな感じとでも言おうか。
そんな感慨を抱きながら、汗の雫がきらきらと光り、日に焼けた宗次郎の肌を伝わっていくのを、見蕩れるような面持ちで、宗次郎が振り向くまで歳三はじっと凝視していた。

一心不乱に木刀を振るっていた宗次郎だが、歳三の気配には気づいていたのだろう。
ごく自然に素振りを終えて、振り向いた顔には驚きの表情は全くなかった。
「もう逃げないのか?」
宗次郎に優しく聞いてやっても、宗次郎は黙ったままだ。
声変わりがばれてもしゃべりたくはないらしく、その頑固なところが歳三を苦笑させた。
まぁ、そんなところも可愛いと思う歳三も、終わってるかもしれない。
しかし、歳三は宗次郎の声が聞きたいのだ。たとえがらがら声であろうとも。
「なんで、しゃべらねぇ?」
だから促すのだが、宗次郎は頑としてしゃべらない。
ふるふると首を横に振る宗次郎の仕草に、ふぅーっと、歳三は大きく溜息をついて、
「お前の声が聞けないのは、寂しいぞ」
下駄をつっかけ歳三は庭に降りていき、宗次郎を捕まえて、こつんとあの額に自分の額をくっつけた。
「な?」
言い聞かせるようにしばらくその体勢でいると、
「だって……」
やがてほんの小さく宗次郎の声が聞こえてきた。
何度聞いても宗次郎の声は、以前と違ってしゃがれている。
だからと言って、それをからかう気は歳三にはない。
今の声も、宗次郎の声に違いはないから。
「ん? だって、なんだ?」
小さな子供に対するように、歳三は優しく先を促してやる。
「だって、俺の声、変だから……」
もじもじと居心地が悪そうに体を動かすが、無理矢理離れていかないのが宗次郎らしいと歳三は思う。
「今は、途中だからな。だが、すぐに落ち着くさ」
宗次郎の背中に手を回し、ぽんぽんっと叩きながら慰めではなく、歳三は本心からそう言ったが、宗次郎は納得できないようだ。
しばらくしてからようやく、歳三に抱きついてその胸元に顔を埋めたまま、宗次郎のがらがらにしゃがれた声が、もごもごとくぐもって聞こえてきた。
「だけど、前に俺の声、好きって言ってた」
確かに歳三は宗次郎の声が好きだった。
子供らしい澄んだ声だが高すぎもせず、餓鬼の声が嫌いな歳三の耳にも至極心地いい声だったから。
そして、その宗次郎の声で名前を呼ばれるのが好きで、褒めていたことも思い出した。
宗次郎が嫌がり気にしているのは、声変わり途中の今の声が変なのを気にしているだけかと思っていたが、どうやらそれだけではなく落ち着いた後の声がどうなるかということが気になっていたらしいと、歳三はやっと気づいた。
宗次郎の声を気に入っていた歳三が、変わった声を気に入らないのではないかと怯えていたらしいと。
「馬鹿。どんな声でも、お前の声を俺が気に入らないはずないだろ?」
本当になにをしても、歳三には宗次郎が愛しい。
歳三の反応に一喜一憂する宗次郎が可愛くも愛しい。
「どんなお前でも、俺はお前を好きだよ」
見上げてきた宗次郎の額に接吻を一つ落とし、歳三は囁いた。

そして、歳三が試衛館に滞在して数日後の、宗次郎の声変わりが落ち着いた朝。
「歳さん」
と、宗次郎に起こされ、その声に腰がぞくりと震え、歳三が飛び起きたのは、内緒の話であった。




本当は宗次郎の背丈が土方さんの胸辺りぐらいまでの年(12歳くらい?)を希望してたんですが、あんまり早く声変わりすると身長が伸びないとのことなので、14歳ぐらいの感じです。




>>Menu >>小説 >>両曜 >>佳音