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斎藤が沖田の病に気付いたのは、いつの日だったか。 同室故とも言えようか。いや、情人故だろう。 斎藤と沖田の関係は、京へ来てからものだった。 いつしか剣の腕を認め合う二人は、それだけでなく惹きあってしまったかのようだった。 もっとも、二人の仲は情人というほど、濃やかなものでもなかった。 互いを信頼しているのは、それ以上だったかもしれないが。 誰よりも早く沖田の体の変調を知っていながら、斎藤は誰にも告げられずに日々を過ごした。 沖田の視線は、斎藤に口を噤ませるに十分過ぎるほど、強かったから。 斎藤は後日それを、心底後悔する破目になったが。 返り血とは違う血の色が、沖田の着物を汚しているのを見てとき、どれ程それを悔やんだか。 まさか血を吐くなどとは、思っても見なかった斎藤だった。 自分の立っている地が、がらがらと崩れ落ちていくような心地が、斎藤を襲っていた。 けれど、沖田はまだ微かに血の付いた口を、斎藤にあわせて囁いた。 「内緒だ、ぞ。斎藤、いいな」 その微かな血の味は、濃密で背徳の甘さがして、斎藤の頭をくらくらと晦ませ、 「あ、あぁ……」 頷くともなしに頷かせて、沖田の唇を貪らせた。 そうして、誰にとも告げず、二人だけの秘密のように共有していた。 そう。二人だけの大切な秘密だった。 何故なら沖田の病を知れば、近藤も土方も実の弟以上に慈しんでいる沖田のことだ、そのままにしておくわけがなかったから。 そうなれば、沖田は新撰組を一時期とはいえ離れることになり、斎藤とも別れることになるだろう。 だが、斎藤には一度手に入れた沖田を手放すことは出来そうもなく、そうならない為には沈黙を守るしかなかった。 ただ一つ、無理をしないようにと、沖田と約束を交わして。 しかし沖田は、良く無茶をやる。 例えば、隊の出動となれば、真っ先に駆けてゆくし、敵の真っ只中にも飛び込んでいく。 また寒い日でも薄着であるし、医者に行けと言っても、嫌いだからと言って行かずに、何処吹く風だ。 ただ本当に嫌いなのではなく、医者から新撰組を離れるように言われるのが、嫌なのだと斎藤は思うのだ。 それならそれで、もっと体を労わってほしいと思うのだが、それもあまりしない。 捉えどころのない沖田は、斎藤にすれば気が気ではない。 はらはらとしつつも、見守るしかない斎藤は、胃が痛むこともしばしばであった。 だから、斎藤は自分の慰めに、沖田に物を贈った。 人に何かを贈るなどしたことのない斎藤が、である。 その品物は、印籠であった。 菖蒲の金泥が施された一品で、骨董好きな斎藤らしい品である。 常々沖田には、菖蒲のような清々しさを感じていた斎藤は、一目見るなり気に入って、珍しくも相手の言い値で買ったものだ。 ただし、印籠だけを贈ったわけではない。 その中には、発作の時には効くと言われた薬を、ちゃんと入れてあるのだ。 気休めかもしれないが、それはお守りのようなものだった。 そう、斎藤が気を揉まないための。 沖田に渡した当初は、ぶつぶつと不平を言ってはいたが、斎藤がくどいほどに懇願すると、仕方がないというように身に着けてくれるようになった。 沖田の腰に、贈った印籠が揺れているのを見て、ほっと一安心をしている自分に、斎藤は苦笑する。 新撰組鬼とも言われる斎藤が、沖田一人に左右されるとは、誰も思ってもみないことだろう。 が、それもまた楽しいと斎藤は思っていた。 しかし、時は緩やかな流れを好まぬらしい。 風雲急を告げ幕府の屋台骨が、誰の目にも明らかなほど崩れ始めるのと時を同じくして、一進一退だった沖田の病状も、坂道を転げるように悪くなっていった。 いつまで近藤と土方の目を隠し通すことが出来るのかと、斎藤が気を揉んでいた矢先、それは隠しようもない出来事として露になった。 そう。沖田が隊務の最中に血を吐いたのだ。 一番隊と三番隊が、浪士の捕縛に出動し、目当ての浪士たちが抵抗したので、それぞれが斬り結んでいる中、紅い花を一面に散らせて、崩折れる沖田を斎藤は見た。 その倒れる際に、目の前の一人の男を斬って捨てたのは、流石沖田だったが。 それは、紅い紅い花だった。 斎藤が今まで見た、どんな花よりも紅い、峻烈な花だった。 以前にも、沖田が血を吐いているのを見たことはあっても、それはほんの僅かなものだった。 周囲に撒き散らすほどの、大量ではなかった。 だから、初めて見るようなそれに、奈落に落ち込むような錯覚に囚われながら、斎藤は目の前の浪士を二人瞬時に斬り倒した。 もっとも、その時の斎藤は、そんなことすら感知せず、後でその場に居合わせた隊士に聞いて、そうだったか、と首を傾げたのだが。 大事な刀を放り出すように、慌てて沖田の元に駆けつけてみても、沖田は血をべったりと口の周りに付けたまま、意識が全くなかった。 「沖田っ」 揺り起こそうと、斎藤は名を呼んだが、沖田はぴくりとも反応を返さない。 冷静な、と評される斎藤の狼狽振りに、隊士は沖田が倒れたことと相俟って、驚きの表情を顔に貼り付けていたが、乱暴なとも取れる斎藤の行為に、 「斎藤先生、そんなに揺すっては、駄目です」 一番隊の伍長である島田が止めに入った。 そして、手早く他の隊士に指示を与え、医師を呼びに行かせた。 「ここから、屯所はさほど遠くありませんから、私が負ぶって行きましょう」 医師の所まで連れて行くよりも、屯所の方が近かったし、一旦寝かしつければ、動かすこともままならないだろうから、医師の元へ預けて襲われでもしたら事である。 沖田から引き剥がすように離されて、我に帰った斎藤は、 「あ、あぁ……。そうだな。早く帰って診てもらわねば……」 理性を取り戻し、沖田の口もとを汚していた血を、懐紙で綺麗に拭ってやった。 大きな島田の背に背負われて、青白い顔をして全く意識がなく、目を瞑ったままの沖田を見ていると、息をしていないのではないかと不安になって、斎藤は何度手を伸ばそうとしたことか。 また、このまま儚くなってしまうのではないかとの、恐怖にも捉えられていた。 そんな思いを振り払うように頭を振った斎藤の目の先、沖田の腰にゆらゆらと揺れるものが映った。 それは、斎藤が贈った印籠であった。 なんの役に立たぬ、と斎藤が毟り取りそうになったが、それに血の指の痕が付着しているのを見てとった。 あの咄嗟のときに、沖田が薄れる意識の中で、手に取ろうとしたのかと思い至り、斎藤は伸ばしかけた手を握り締めた。 屯所へと至る道程が、これほど遠いと思ったことは、斎藤にない。 しかし、永劫に続くのでは、とも思える道が漸く終わろうと、見慣れた門構えが見えたとき、斎藤は詰めていた息を吐き、ほっと安堵した。 島田の背の沖田は、まだ目覚める気配も見せぬ。 先に伝令を走らせていた所為で、粛々と進む隊士たちを迎えに、幹部が出張っているのが見えた。 沖田の身を案じてだろう、いつも忙しい土方さえ、青白い顔をして立っていた。 その土方に斎藤はいち早く目礼をして、後ろの島田を促し式台を上がらせた。 島田は沖田を背負ったまま、足早に土足で上がり、土方の指示する部屋へと急ぐ。 沖田の部屋では、斎藤と同室だからとの、土方の配慮だろう。 それを追うように土方も、玄関を後にする中、慌しく隊士が医師を伴って戻ってきた。 やって来た医師も、薬箱を抱えさせられた隊士も、よほど急いできたのだろう、汗だくで息も上がっているようだった。 医師に道を譲るように斎藤は脇に避け、その背を黙然と見送った。 慌しげに立ち動く人々から取り残されるように、斎藤は沖田のいない部屋へと立ち戻ってその障子を開けると、沖田の気配のない部屋に立ち竦んだまま動けなくなった。 沖田がいないことだけで暑い盛りだというのに、部屋が寒々と凍えていた。 だが、斎藤は何かを振り切るように瞑目し、ついで祈るような思いで斎藤の心内と裏腹な、澄み渡るような青空を振り仰いだ。 |
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