『愛とは、躊躇わないことである』

 とバーナビーに教えたのは、アカデミー時代の恩師である。
 元ヒーローであり、熱血指導で知られたその男は、同時にこうも言っていた。

『愛とは、悔やまないことである』

 男は接触によって人の心を読むNEXTで、今思えば少しだけ虎徹に似ていた。
 ずかずかと心の中に入り込み、傍若無人に振舞うかに見えて、相手が本当に触れて欲しくないところには決して触れない。むしろ一歩ひいて、そのラインから離れてしまう。
 だから久しぶりに再会した男が、バーナビーに触れてその心を読みながら、無言を貫いたのも納得できた。
 バーナビーが両親の復讐だけを考えていたとき、それに気づきながら何も言わなかったように。
 男は、バーナビーがこれからやろうとしていることに気づいても、何も言わなかった。
 ただほんの少し呆れたような顔をして、同情するように虎徹を見ただけ。

 若さとは、諦めないこと――そうも教えた男は、誰よりもバーナビーの諦めの悪さを知っているはずだった。
 

***


 十一時近くになってから会社に姿を見せた虎徹は、いつものように間延びした声で「おはようございまーす」と言いながら部屋に入ってきた。

「あれぇ、バニーだけ? おばちゃんは?」

 いつもならば経理の女性が座る正面の席が無人であることに気づいたらしい。
 不思議そうにしている虎徹に、バーナビーはキーボードを叩く手を止めて答えた。

「今日は一日、外で仕事だそうです」
「そうなの?」
「えぇ、今日提出の書類、忘れないようにってあなたへ伝言です」

 途端に顔をしかめる虎徹の机の上には、虎徹が今週提出しなくてはならない書類が箇条書きされた紙が貼り付けられている。
 提出したら、横線をひいて消す。
 信じられないほどアナログなやり方だが、虎徹には一番効果がある方法らしい。

「娘さんはもう帰ったんですか?」

 今日、虎徹が朝から二時間年休をとった。
 オリエンタルタウンから出てきた娘を、駅まで送るためだ。
 もともとはブルーローズのコンサートのためにシュテルンビルトに来ていたという虎徹の娘は、昨日とある事件に巻き込まれて人質にされた。
 アントニオとイワンの手で助け出された彼女を、すぐに帰さず一泊させたのは、事件のショックが残っているだろうという配慮からだ。

「おう。土産もたせて、さっき電車に乗せてきたよ。あっちに着いたら電話くれることになってる」
「向こうまで、送っていってあげればよかったのに。一日くらい、僕一人で何とかしましたよ?」

 虎徹の娘は九歳だという。
 オリエンタルタウンとシュテルンビルトを一人で往復するには、まだ不安が残る年齢だ。

「俺もそうしようかと思ったんだけど、楓に嫌がられたんだよ。一人で大丈夫! ってな」

 本音は送っていきたかったに違いない。
 寂しそうな虎徹に、バーナビーは苦笑する。

「しっかりされてますね、娘さん」
「嫁さんに似たんだろうなあ、あれは」
「昨夜は、大丈夫でしたか?」
「うん。ぐっすり寝て、一回も目は覚まさなかった。大丈夫だと思う」

 心の傷は、体の傷よりもずっとやっかいだ、ということをバーナビーはよく知っている。
 だがその様子ならば、確かに大丈夫なのだろう。
 強い子だ。
 バーナビーもほっと胸を撫で下ろす。

「よかったですね」
「おう。心配かけたな」

 そうだ、と思い出したように虎徹が言う。
 椅子ごとくるりとバーナビーの方を向いて、身を乗り出すようにしてくる。

「今度サインしてくれねぇ? ヒーローカードか何かに、ちゃちゃっとさ」

 バーナビーにサインをねだって来る者は男女問わず多いが、相棒である虎徹にねだられるのは初めてである。

「僕のサインが欲しいんですか? 虎徹さんが?」

「俺じゃねぇよ。昨日娘から、何でお前のサイン貰っておいてくれなかったの、って怒られてさあ」

 思い出したのか、虎徹は肩を落として溜息を吐く。

「お父さん、大嫌い、とか言われちまうし……」
 
 余程ショックだったのだろう。そのまま机に突っ伏してしまった。
 虎徹の娘が自分のファンだという話は、バーナビーも以前から聞いて知っていた。
 昨日彼女を助けたのは、バーナビーということにしておいてくれ、と虎徹からも言われていた。

「わかりました。サインくらい、いつでも書きますから言ってください」

 何となく、見下ろせる位置にある頭を撫でた。
 いつもは撫でられることばかりが多いから、不思議な感じだった。
 虎徹の髪は、見た目よりも柔らかい。

「助かる! ありがとな、バニー」

 ばっと顔を上げて、顔を輝かせる虎徹に、慌てて手を引っ込める。
 素直な虎徹の言葉が、バーナビーには少しくすぐったい。

「そういや、昨日の件、あれからどうなったか何か連絡あったか?」
「ブライアン・ヴァイのことですか?」
「おう。裁判の日取りとか、もう決まったかな」

 伝説のギタリスト。
 稀有な才能に恵まれながら、NEXTとして目覚めてしまったばかりに、音楽シーンから姿を消さざるを得なかった青年。

「事情聴取もありますし、裁判はまだ少し先でしょう」

 そっか、と呟いた虎徹は、先ほどとは違って難しい顔をしている。

「なあ、バニー」
「何です?」
「裁判になったら、あいつ、どれくらいで出てこれると思う?」

 頬杖をついて、軽く上目遣い。
 う、と呻きそうになった声を、何とか飲み込む。
 あざとささえ感じるその仕草から、敢えて視線を逸らしながらバーナビーは淡々と答える。

「はっきりとはわかりませんが、彼の場合、バベルに利用されただけとも言えますし、十分情状酌量の余地はあると思いますよ」

 建物類の破壊はあったが、それによる死者は出ていない。
 これは、ブライアンに有利に働くはずだった。

 ほっと表情を緩める虎徹に、バーナビーは面白くない気持ちになる。
 虎徹は、すぐに他人に感情移入をしてしまう人間だが、ここまで犯人のことを気にかけることは珍しかった。

「虎徹さんは、彼のファンだったんですよね?」
「おう。ライブにも行ったことあるぞ!」
 
 十年前、というとバーナビーはまだ十代半ばだ。
 彼の音楽を耳にしたことがあったとしても、よく覚えてはいなかった。
 虎徹は昔のことを思い出すようにしてから、ぽつりと呟く。

「……あいつ、また、舞台にたてるといいよな」

 事件の最後、ブライアンと虎徹のやり取りをふと思い出した。
 天才ギタリストとまで呼ばれた人間相手に、ギター以外の楽器を試せなどとはなかなか普通は言えない。
 だが虎徹の言葉が頑なになっていたブライアンの心に届いたのは、確かだった。

 ――正直、途中でどれだけ口を挟みたくなったかわからない。

 あの時我慢できた自分を、褒めてやりたいくらいである。

「彼に会いにいくときは、声かけてくださいね」

 へ? と虎徹が間抜けな声をあげる。

「どうせあなたのことですから、面会、行くつもりなんでしょう?」
「お――おう」

 どうしてわかったんだ、と虎徹の顔には書いてあるが、それくらいわかる、とバーナビーは思う。
 きっと新しい楽器でも持っていくに違いない。
 笑顔と、待ってるからな、という言葉と。
 ――それはきっと、あの男には、トドメになる。

「一緒に行きますから」

 繰り返したバーナビーに、虎徹が意外そうにする。

「あ! もしかしてバニーもブライアンのファンだったのか?」

 何をどうしたら、そんな勘違いが出来るのかわからない。
 呆気にとられていると、そうかそうかと嬉しそうに笑った虎徹が言った。

「お前も一緒に行ったら、きっとあいつ喜ぶな」
 
 訂正するのも面倒になって、バーナビーは内心溜息を吐く。

(喜ぶわけがない)

 虎徹一人で行ったほうが、ブライアンは何倍も喜ぶだろう。
 もちろんそんなことを許す気はないが。

「ギター以外の楽器だと、何がいいと思う? 何か試せるように、持って行ってやりたいんだよな」
「没収されますよ、面会前に」
「何で」
「危険すぎるからです」

 ギター以外の楽器で、彼の能力が発動しないという保障はどこにもないのだ。
 それに彼には今、NEXT能力を制御するためのリングが嵌められているはずだ。

「あー……」

 そうか、としょんぼりする虎徹は、何かいい方法はないかと考え始める。
 その顔は真剣に、ブライアンのことを思っているのだとわかる。
 ――優しいところは虎徹の長所だし、面倒見の良さは彼の魅力のひとつではあるけれども、それが自分以外に向けられた途端、最近のバーナビーはむかむかしてしまう。
 我ながら心が狭いと思うが、仕方ない。

「じゃあ、カスタネットならどうだ?」
「駄目です」
「えーと、じゃあマラカス!」
「無理ですよ」

 そもそもそんなものを差し入れされても、ブライアンだって困るだろう。
 いや、喜びはするかもしれないが。

「――うまくいかなかったときは、ハンドレットパワーで聴いてあげるんでしたっけ?」

 お前の音楽が好きなんだ、とあんなストレートな伝え方はないだろう。

「おう! バニーもスーツ着て、一緒に聴いてやろうな!」

 嫌ですよ、と言うわけにもいかず、バーナビーは内心舌打ち。
 刑務所からもうずっと出てこなくてもいい、とヒーローにあるまじき願いを持ってしまう。

(この人たらしめ)
 
 バーナビーにヒーローがどんなものなのか誰よりもはっきりと教えてくれるのは虎徹だったが、同時にバーナビーをヒーローらしからぬ思考にかりたてるのもまた虎徹だった。

「バニー?」

 黙りこんだバーナビーに、虎徹が不思議そうに首を傾げる。
 信頼しきった表情に、甘えるような声。
 これが無意識なのだから性質が悪い。
 耐え切れなくなって、バーナビーはばんっと机を叩いた。

「ほらもう、それが駄目なんですよ! あなたは!」

「えっ、な、何!? 駄目って何が!?」

「顔と声と、何もかもですっ」

「へっ!?」

 ――この人が好きだ、とバーナビーが気づいたのは、つい最近だ。
 復讐がすべて終わり、周囲を見る余裕が生まれたときに、一番近くにいたのは虎徹だった。
 
 復讐が終わったら、抜け殻になるかもしれないと思っていた。
 なのにバーナビーがそうならなかったのは、横に立っていた虎徹のおかげだろう。
 バーナビーのことを自分のことのように喜び、怒り、そして応援してくれる人。

 目下バーナビーの復讐にかわる人生の目標は、この目の前の人を自分だけのものにしてしまうことだ。
 もちろん、今すぐにというわけではない。
 虎徹は鈍いし、外堀を埋めることだって必要だ。
 簡単にはいかないことはわかっている。
 色んな障害があることも覚悟の上だ。

 けれども、諦める気はなかった。

 きょとんとしている虎徹の顔は、どこか幼い。
 これで三十代も半ばだというのだから、詐欺だと思う。

「そういう顔も、僕以外の前で見せないでください」

 虎徹は瞬きをし、暫く黙った後、ふと心配げにバーナビーの顔を覗き込んだ。

「バニー、もしかしてお前疲れてるんじゃないか……?」

「疲れてません」

「嘘つけ。昨日はちゃんと寝たのか?」

 虎徹は何もわかっちゃいない。
 当たり前だ。バーナビーはまだ何も言っていない。
 
 好きだ、と伝えるだけではこの人はきっと手に入らない。
 単純そうに見えて、ちっとも単純ではない虎徹のことだから。

「……実は昨日、眠れなくて」

 深刻ぶって言うと、途端に虎徹は慌てた様子になる。

「斉藤さんとこ行って、寝てきてもいいぞ!? 医務室でも――」

 いえ、とバーナビーは虎徹の言葉を遮った。

「虎徹さんが、膝枕してくれたら、ゆっくり眠れるかもしれません」

 虎徹が驚いた顔をする。 
 拒否される前に、バーナビーは素早く不安げな表情を作って問うた。

「駄目ですか……?」

 虎徹は、バーナビーのこういう顔に弱いのだと、もう知っている。
 優しく、甘い虎徹。
 案の定、虎徹はバーナビーの言葉を拒否しなかった。




 ヒーロー専用の休憩室には、仮眠にも使えるソファがいくつか置かれている。
 そのうちの一つで、バーナビーは虎徹の膝に頭を乗せて、横たわった。

 女のような柔らかさはない。

 けれども、見下ろしてくる心配そうな金色の目や、頭を撫でる虎徹の手は何にもかえがたいものだ。

「ほら、膝枕してやってんだから、目閉じろ」

 見上げていると、目の上に、虎徹の手が乗った。
 見えなくなったことを惜しいと思いながら、バーナビーは大人しく目を閉じる。

 虎徹の手はいつも、体温が高い。
 何度でも、バーナビーに向かって、伸ばされた手。
 最初はその手ば鬱陶しいばかりだった。

「バベルがさ、最後に言ってたの覚えてるか?」

 バーナビーの頭を撫でながら、虎徹が呟く。

「伝説を作ろう、ですか」

「あれ、どういう意味だったんだろうなあ。しかも何で俺? 」

 ブルーローズでもなく、バーナビーでもなく、虎徹に。
 叫んだバベルが何を考えていたのかなど、正解は誰にもわからない。

 さあ? と答えながら、バーナビーは少しだけわかる気がした。

 この人と一緒なら、と思わせる何かが、多分虎徹にはあるのだ。
 わかる人間には、きっとわかる。
 
 何だって手にいれられる気に、させる男。
 何もかもがうまくいくと、信じさせてくれる男。

 手に入れたい、と思う気持ちは、バーナビーだって負けていない。

 目の上にある虎徹の手の重みを感じながら、バーナビーは言う。

「どうでもいいじゃないですか、そんなこと。あなたは、これから僕と伝説を作るんですからね」

 バベルにも――誰にも、虎徹の横に立つ権利を渡す気はない。

「何、KOHの次は、ヒーロー界の伝説になっちゃう気なの、お前」
 
 面白がるような響きの虎徹の声。
 そこにバーナビーを甘やかす気配がある。

 もちろん、と嘯いて、バーナビーは虎徹の手を退けて目を開いた。
 金色の目を見上げ、出来るだけ甘い声で囁く。

「僕だけじゃなくて、あなたも一緒ですよ。伝説のバディヒーロー、なりたいでしょう?」

 吹き出した虎徹が声をあげて笑う。

「いいな、それ。伝説か」
「えぇ、伝説です」

 真面目な顔で肯定すると、虎徹は子どものように目を輝かせた。

「じゃあ頑張らねぇとな!」
 
 胸のエンジンに火をつけろ――とあの男なら言うだろうか。

 虎徹の手の平に、軽く口づける。
 虎徹は驚いた顔をするが、振り払おうとはしない。
 そのことに満足しながら、再び目を閉じる。

 本当なら、その唇を奪いたいところだが、まだ早い。

 まだ、何もかも、始まったばかりだった。



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