バーナビーの家は、シンプルで機能的だ。
 無駄なものは何一つなく、まるでモデルルームのように生活感がない。毎日生活していればいつのまにか物が移動したり、あちこち散らかったりしそうなものなのにそれがまったくないのである。一体どうなってるんだと聞いたら、使ったものはもとの場所に戻せばいいだけでしょう、などと不思議そうに言われた。幼い頃から母親に言われ続けた言葉ではあるが、実際そうできるかと言われれば話は別である。
 だから虎徹が行って、あちこちで色んなものを取り出して片付けずに置いておくと、ぶつぶつ言いながらバーナビーはそれを片付ける。
「どうしてもう少し綺麗にできないんです」
 理解できない、という顔でバーナビーは虎徹を叱る。まさに、叱る、というのに相応しい言葉である。
「ミネラルウォーターを出して飲んだでしょう。テーブルの上に出しっぱなしでしたよ」
 ああそういえば今朝、喉が渇いてキッチンに行ったな、と虎徹は思い出す。まだバーナビーは隣でぐっすり眠っていて、虎徹は一人でベッドを抜け出したのだ。
 確かに片付けた記憶はない。
 虎徹はベッドの上に横になったまま、立っているバーナビーを見上げる。
 いつの間にか着替えたバーナビーは、まったくいつも通りで、そのまま外にでることも出来そうだった。
 まさかこいつ出かける気かと思い、自分は絶対にここから動かないぞと考えながら、虎徹は言った。
「だって」
「だって、何です」
 眉を寄せたバーナビーから問われて、虎徹は口を噤む。
 口を動かしたものの、特に意味があったわけではない。起きたばかりのぼんやりとした頭で、考える。
「だって、バニーちゃんも、のむかと思って」
 最後のほうは欠伸が出てきて、不明瞭になる。かみ殺した欠伸のせいで、涙が滲んだ。
 バーナビーは怒ったような顔のまま、言う。
「冷たいほうがいいです」
 自分で言っておきながら、だよなあと思いながら、虎徹は素直に言った。 
「ごめんな、バニーちゃん」
 最近のバーナビーは、もう虎徹の呼び方をいちいちい訂正しない。もうこういうものだと諦めたらしい。
 まったく、と言う様子でバーナビーは溜息を吐き、ベッドに腰掛ける。
 振動が虎徹の体にゆるく伝わった。
 体はけだるく、動かすのが億劫だった。もう昼近くなのはわかっていたが、起きる気になれない。ブラインドが、いい感じに外の光を遮ってくれていた。
 バーナビーの手が伸びて、虎徹の頬と髪に触れた。
 こういうとき、この男の手はまるで壊れ物にでも触るかのように慎重だ。昨夜は信じられないほど好き勝手に虎徹の体を扱ったくせに。
 臆病な手だ、と虎徹は思う。けれども、その手が虎徹は嫌いではない。
 喉を擽るように撫でられた。気持ちよくて目を閉じる。
「猫みたいですよ、オジサン」
 んー、と虎徹はそれだけ返す。だって撫でられるのも、触れられるのも気持ちがいい。
「まだ眠いです?」
「……すこし」
「もう昼ですよ」
 わかってる、と虎徹は頷く。
「何か食べないと。おなかすいたでしょう」
 すいてない、と虎徹は首を小さく振った。
 疲れたとき、虎徹はものをあまり食べないのだ。だから、バーナビーと過ごした翌朝も、大抵あまり食べない。バーナビーはそれが気に入らないらしい。
「食べないとダメですよ。好きなもの、作ってあげますから」
 何が食べたいですか、と言うバーナビーの台詞が可愛くて、虎徹は喉を鳴らすように笑って目をうっすらとあける。
 バーナビーの表情は、こういうときあまり変わっていないが、それでも虎徹は彼の気持ちを読むことが出来る。柔らかな表情。
 何かを食べさせようとするバーナビーには申し訳ないが、それでも何かを口にする気にはなれないのだった。
「いまは、何もいらない。悪ぃな」
 そう言うと、バーナビーの眉が寄ってしまう。
 一食や二食抜いたところで人間は死なない。それよりも虎徹に必要なのは、ゆっくりと体を休める時間なのだ。
「そんな顔すんな」
 手を伸ばし頬に触れようとしたが、その手を捕まれた。
 バーナビーの手はいつも冷たい。手の甲に口付けられる。そんな仕草がよく似合う男。
「どこか出かけるのか」
「どうしてそう思うんです」
「そういう格好だろ」
「起きたから着替えただけですよ」
 ふぅんと頷いてから、虎徹は言った。
「腹減ってるなら、先にどこかで食ってきてもいいぞ」
 バーナビーは呆れたように溜息を吐く。
「あながいるのに?」
 何故か身を乗り出してくるバーナビーは、まるで魔法みたいに手際よく虎徹の両手首を柔らかくベッドに押し付ける。
「あなたがいるのに、どうして一人で出かけなきゃいけないんですか」
 バーナビーの顔は少し不機嫌で、虎徹はどうやら自分が地雷を踏んだことを悟る。
 −−若者というのは繊細な生き物だ、と虎徹は最近よく思う。バーナビーは虎徹が特に深い意味もなく言った言葉に、過敏に反応するのだ。
 口ごもった虎徹に、バーナビーはお仕置きでも与えるかのように、くちづけた。
「……や、っ、……めっ」
 逃げたかったが、上から圧し掛かられた姿勢で逃げる余地はどこにもない。
 歯列を割り、入り込んできた舌に、虎徹はあっという間に息も絶え絶えになる。信じられないほどこの男はキスがうまいのだ。
 うまく息ができずに苦しい。
 相手に縋りたい手は、押し付けられて動かせない。
 やがて虎徹が飲み込めない唾液を唇の端からこぼし、ぐったりとした頃、ようやくバーナビーは虎徹を解放した。
 上から圧し掛かったまま、囁かれる。
「虎徹さん」
 いつもは『オジサン』などと小憎らしく呼ぶくせに、こんなときだけ名前で呼ぶ。荒く呼吸をしながら、バーナビーを睨めば、バーナビーが小さく笑った。
「物欲しそうな顔してますよ」
 可愛い、と囁かれて虎徹は「してねぇよ」と言い返す。声は掠れて力ない。
「虎徹さん」
 もう一度名前を呼んで、バーナビーは今度は触れるだけのキスを落とす。
 むさぼられるようなキスよりは、こっちのほうが虎徹は好きだ。唇にだけでなく、あちこちに振ってくる。
 首筋に落ちた唇が、甘く噛んでくるのに体を震わせながら、虎徹は言った。
「今はしねぇぞ……っ」
 体力が持たない。今やられたら、きっと夜まで動けない。
 バーナビーは不満そうな顔をして虎徹を見る。
 訴えるようなその表情に負けると、後悔することになるのだと虎徹は最近学んだ。いくら可愛くても、躾は必要である。
「しないからな」
 もう一度繰り返すと、随分長い沈黙の後、バーナビーがわかりましたと頷いた。
 勝った、と思う。
 虎徹がこういう場面で、バーナビーに勝てるのは珍しかった。妙な満足感を覚えながら、体から力を抜く。
 バーナビーは名残惜しそうに虎徹の上から退いた。
「夜まで我慢します」
 えっ、と固まる虎徹である。
「いや今日は家に−−」
「夜まで我慢します」
 遮るように続けて言われて、虎徹はもう何もいえなくなる。
 今日は帰宅して、一人でのんびりしようと思っていたのに、どうやらこのままお泊りコース決定らしい。
 服がない、などと言っても聞いてくれないことはわかっていた。それなら買えばいいでしょう、などと言い出して新しい服を用意してくるのだ。以前そういうことが何度かあった。
 バーナビーが立ち上がった。
「もう少し待ってあげますから、一緒にご飯食べましょう」
 そして食事をとらないでこのまま二度寝する、という選択肢もいつのまにかなくなっていた。食事をさせる気満々のバーナビーは、いいですね、というように虎徹を見下ろしている。
 虎徹はぐったりとベッドに横たわったまま、小さく頷いた。



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