花実る丘


みかんの花が咲いている。

思い出の道。
丘の道。




小高い丘へゆく道はみかんの樹に囲まれている。
実ったみかんは、今日も甘酸っぱい香りが立ち込めていた。

今日はよく晴れている。
突き刺すような陽の光と、じんわりと沁みるような湿気が私に教えてくれる。
夏がいよいよ来たのだと。

畑仕事は一休み。
汗をぬぐって、私はみかんのかごを担いだ。
おやつの時間だもの。
大好きな姉と父のために、ゆっくりお茶でも入れましょう。

一歩踏み出すと、がさり、みかんの揺れる音がした。



家に向かって、みかんの茂る道を歩く。
今日またひとつ、私は歳をとったから、夜はごちそう。
きっとおだやかな夜になる。
あの日々に比べりゃずいぶん穏やかな夜になる。

ふと振り向けば、丘の向こうに広がる青い空が見えた。
広がる海は見えないけれど。
けれどきっと、空よりも碧い。




今日はとてもよく晴れている。
あの海に比べりゃずいぶんと穏やかな、この海を行く船もあることだろう。

そう思い立って、私はみかんのかごを置き、丘に足を向けた。
空が青かったから。


きっと海はもっと碧いから。







小さな船が、ぽつりと海に浮いていた。
掲げる旗の印はわからなかったけれど、かすかに黒く翻るのは見えた。
静かな海に優しい風。
あんたら海賊には充分すぎるくらいよと、つぶやいた。


そして笑う。
うらやましいわ、と。






みかんの花が咲いていたころ、私はここで小さな船を見送っていた。
夢をかなえてなお、夢を求める海賊王。
夢をかなえてなお、そいつに魅かれてしまう男をふたり連れて 行ってしまった海の王。


見送ることを決めたのは、あいつじゃない。
私だった。





「ほんとに行かないのか?」
「うん、今はここで家族と暮らしたいの。」
「楽しいのに。」
「楽しかったね。」




ちょっと冒険してくればいいわ。
あんたは、海にいたいんでしょう?

あたしは、家族のそばにいたいの。



そうか。
じゃあ。

ちょっと冒険に行ってくるだけだ。


「おれは、諦めたんじゃないんだからな。」


「お前とまた、おれたちは海に出る。」




差し出された手を、今度はぎゅっと握り返した。


いっしょにゆける男の一人は、泣きながら笑っていた。
もう一人は、にくったらしく笑っていた。


手を離したあいつは、もう前しか見てなかった。
振り返ってはくれなかった。




みかんの花咲くころ。
そうして私は、あの船を見送ったのだ。
港から船が見えなくなるまで。
見えなくなったら、駆け上った丘から 船の影が消えるまで。




『お前とまた、おれたちは海に出る。』

あいつは約束を絶対に守る。
けれど、あの海を知ってる私が
それを信じてるなどという、律儀な事実に笑ってしまった。



今日は誕生日、時は黙って流れていってしまうのに。
待つなんて、てんで私の性分じゃないのに。



       「おれはあきらめないからな。」
       「好きにすれば。」

       「航海士は、お前しかいないんだからな。」
       「そう。」

       「いつだって、お前はおれの航海士なんだからな。」
       「・・・そう。」











海賊が来たぞと、遠くで誰かの叫ぶ声がした。

町の誰かも、きっとあの小さな船を見つけたんだろう。
確かに小さな船は、この島に向かっている。










   おらぁ、聞いてんのかそこの魔女!

   海賊が来たって言ってんだよ!





少し高い声は、懐かしいうそつきのような気がした。





    ナミ!



明るくて強い、懐かしいバカの声のような気がした。

振り向いた私の鼻先には、懐かしい人と同じ てのひらがあった。






「ルフィ、」




てのひらはぐるぐると私の周りをめぐる。

…腕がこんなに伸びるのは、反則じゃない?




ちょうど5周したところで、その腕はいきなり私を抱えて縮んだ。
「えっ…―――――――」





きゅんと、私の身体は宙を駈け、すっぽりと小さな船に収まった。



小さな船の中心。
赤いジャケットを着た あいつの胸の中に。








「ぃよし、捕獲!」



伸びていた右腕と、軸となっていた左腕が、私を包む。
くっくっと、笑って肩が揺れていた。



「おっしゃあ!」
明るく笑う、ふたりの声がした。
ふるふると、肩が揺れていた。

「だっはっはっは!」

あっけにとられる私だけ置いて、奴らはうれしそうにげらげらと笑っていた。
私を抱いていた右腕は、ぱんぱんと私の背を叩く。

「いやぁ、よかったよかった。うまくいったなあ!」




何がうまくいったよ。
わけがわからないのよ。
意味がわからないのよ。



そんな言葉はいくらでも思いついたけれど、どれも足りないから私は何も言わなかった。




すると、

「ナミ、」

私を抱く腕が、少しゆるくなった。
肩に乗っかっていた、あいつの顔が真正面に見えた。





「ただいま、それと」

にかっと笑って、あいつは言った。








「おかえり。」



そういって、また私をぎゅってした。

だから私も、ぎゅっとした。




こぼれた涙が見えなければいいけれど。



「みかんの匂いするな、ナミ。」



…私の大好きな顔で笑うのは、反則じゃない?

そう思いながら、私はしばらくそのまま、少しだけ泣いた。







船はゆっくり旋回している。
ふたりの男が、互いに指示を出しあっていた。
あれだけめちゃくちゃな海で生き延びる中で、いつか覚えたんだろう。


「なあナミ、」
「なあに?」

「誕生日なんだよな?」
「どうしたのよ、いきなり。」

「誕生日だから、もってきたんだぜ、プレゼント。」
「なによ。」


「すっげー楽しい、大冒険!」


   偉大なる航路の、大冒険。
   お前が行くまで、ちゃんと取っといたんだからな。


「うれしいか?なあナミ、うれしいだろ?」
キラキラとした目で、ルフィはそう言った。

私は。



「ばーか。」
「何っ?」

「安上がり。」
「何だと?」

「ばーか。」



「・・・笑ってんじゃねーか。」



そう、笑ってしまった。
安上がりで、ばかばかしくて、身勝手なプレゼント。



それがいちばん欲しかったなんて。

そんなやけに女々しい自分に、笑ってしまった。





船首はまっすぐ西を向く。
たたんでいた帆を、男ふたりがゆっくりと広げた。

「さあ、どこへ行くんだ?キャプテン。
 チョッパーの診療所か?ロビンのいる遺跡の島か?」
「やっぱり、オールブルーで大宴会だよな!食えるぞー!」
「…ま、妥当だな。ほらナミ、飲むぞ。」
「飲み放題よね!もちろんタダで。」

おう、と向き合った目が笑った。
「じゃあおれ様は、これまでの偉大な冒険をたっぷり話してやるからな。」
そういって、もうひとりも笑った。


あいつはずっと、嬉しそうに笑っていた。

ほんとに楽しそうね。でもあんたちゃんと覚えてるの?
何がって、これから行く海のこと!

もう飲み込む言葉はない。
私は、思った全てをあいつにぶつけてゆく。
いつか、そうしていたように。


大体待つなんて、性分じゃないのよ。
遅いのよ、迎えに来るの。
まあいいじゃねえか じゃないのよ。
そんな風に笑ってくれても、騙されないんだから。
ねえちょっと、聞いてるの?

ぽんぽん言葉を投げて、ばしばし引っ叩いてやって。
それでもあいつは笑っていた。
私も笑っていた。




まっすぐ船首に向かって、あいつは鬨の声を上げる。

「出航!」

相変わらず。
私のほうを、振り向いてもくれないで。


絶対に振り向かないその背中。
それでも私は あんたの隣にいる。
あんたに惚れ込んだ そこのヤロウ二人には負けないつもり。

だってこの私が、あんたに惚れたもの。
どうにかするわ。

だから。




「おお!」

私もいっしょに 拳をあげた。











みかんの花は散り
今は色づいたその実が 私を見送っていた。


「おっさん!またナミ、もらうぞ!」

笑う姉とあわてる父が 私の家族が 私を見送っていた。


丘に立てかけられた 木の十字架が 私を見送っていた。




さよなら、行ってきます。







思い出の道。

丘の道。










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July 7th, 2004






徒花