さらさらと水音が流れてゆく。
うなり名が降り注いだ大粒は、こちらが一眠りする間に
風が連れて行ってしまったらしい。

しゅ、と擦ったマッチの音が、湿り気を帯びて耳に届く。

扉に据え付けられた小さな窓からは、アイボリーの空が見えた。
先刻よりもずいぶん明るい、きっと太陽はすぐそこにあるんだろう。

一息吸い込むと、全身を柔らかな灰が染み渡っていった。
そのまま深く、はき出す。


それは胸の中の毒ごと大気へ抜けてゆくような、安らぎだ。




隣には、脱ぎ捨てられたおれのシャツ、あいつのデニム。
体温は名残だけ、姿はない。



おれの身体には、体温の名残、柔らかくない肌の響き。

姿はない。





ワイン瓶に吸い殻をねじ込んで立ち上がる。

少し寒くなったので、スラックスとシャツを引っ掛けた。
そりゃそうだろう、雨が降っている。

転がったままのデニムを脇にかかえて、扉を開けた。


「お」

その間、1分と、きっと30秒。





「パンツくらい穿いたらどうだ。」

無人の甲板で、厚い唇を少し青くしながら、
そいつは素っ裸でひっくり返っていた。

「よォ、起きたのか」
「おう」

くるりとこちらを向いた目は、投げかけたデニムには見向きもしなかった。

鈍く重い雲が消えた。
それはしかし、まだ白い。





何がおきたのか、忘れた訳じゃない。

船に帰ってきたら、船番のこいつがいて、
他に誰もいなくて。

そこで、目が合った。
それだけだ。

それだけのことだ、忘れた訳じゃない。
けれど何故だか思い出せずにいる。


こいつもそうなのかなと、ふと思った。



誰もいなかった。
そうして、目が合った。

それだけだ。



「ほら、穿けってば」
「いーんだよ、誰もいねェんだから。」

そう笑う声は、少しかすれている。

「そうかよ」

唇を震わせて言うセリフじゃねェだろが、何も言わないで
おれもそのまま腰を下ろした。







さらさら、さら
雨が降っている。


おれが呼吸する。
あいつが呼吸している。
雨音に紛れたりして、時に深く、深く。

ただその息の音だけが、さらさらと流れる水とともに
おれたちの耳に届いては、消える。



やがてその静かな営みの中から、ぽつりと

「なあサンジ」

雨音のように静かな声がした。

「身体」
「あ?」
「痛くねェか」
「それほどでも」
届くのはいつもより少し低い声、
随分とかすれた声でおれは返した。



「お前ェは」


うーん、と考えたあと
ぐるんと身体をひっくり返し、ウソップはおれを見た。

「痛ェけど」
「それほどでも?」

申し訳程度のひさしの下、おれのスラックスの足元が濡れている。
通り過ぎる空気はひやりと冷たかった。
柔らかな雨を全身で受けるウソップは、きっともっと寒いだろう。

「冷えたら、キツイだろ」


すると

「なんかさぁ」
と、応える代わりにウソップは呟いた。




「余計なモン、流してもらえそうな気がしてさ。」

余計なモノ。

「例えば何?」

こくん、と一つうなずく。
「それがわかんなかったから、寝っ転がってみたんだよ」








さらさらと。
流れるように雨が降る。
そうして今、目の前の男は余計なモノを流しているのだと言う。


あいつの身体に、肌に、もしくは胸の辺りに残る余計なモノとやらは
果たして流れていったのだろうか。

おれは?

この身体に、肌に残るものは、
この胸の辺りにうずくまっているものは、さて 何だろう。




あいつは船番だった。
おれは買出しを終えた。
船には誰もいなかった。

そして――どうしたんだっけ。


「流してみて、どうだ」
おれは聞いた。

うん、と丸い目がちょっと笑う。

「流れてった気がする。」
余計なモンが。


「例えば?」

……おれの身体とか、おれの肌とか、

「そうだな、」

 それとも
 おれにぶち込んだときの、もしくはおれを受け入れたときの、
 溢れ出した心の、何かとか?




へへ、と笑う声がした。






「・・・後悔、とか」



いつもより少し低い、かすれた声だ。
少しちがう、でもいつものようにあたたかい、あいつの声だ。



「そりゃあ、いい」

そう言って、おれは濡れたシャツとスラックスを脱ぎ飛ばした。

柔らかな雨粒が肌をなでてゆく。
流れてゆく。

流れてゆく。



そうだ、船にはおれたちしかいなくて。
そうして、嵐が来て。

おれたちの目が合った。

ウソップの黒い目に、あいつを見つめるおれが見えたんだ。






雨が肌を流れてゆく。

「…っつーか」
「なんだよ」
「おれはむしろ、ケツより腰が痛ェ」
「何、サンジ君はもう限界?」

寝そべっていたウソップは、ニヤニヤと笑いながら
ごろんごろんとおれに身を寄せてくる。

「そうとも、誰かが泣きながら腰振ってきたせいで」
「よっく言うわ!乗っかられて泣かれたおれさまの立場になりやがれ!」
「がっ!あ、あ、あれは」
「自分から襲いかかって来て泣き出すんだもんなー」

うれしそうに伸びてきた鼻先を、きゅっとつまんでやった。

「ふげ」
「・・・テメェ覚えとけよ」
「なんだよぅ、アホサンジ」
「次はあの声、録音しといてやるから」
「げ、悪趣味!」
「"あーんサンジィ、もっとしてえ"」
「ヤーメーロー!!」






柔らかな毒に蝕まれながら、
まずは考えなしに突っ走ってみようじゃねェか。

ここに転がっているものは、果たして愛という名前なのかどうか?



とりあえずおれは温かいコーヒーを入れる間に、
もう一度お前にキスをする。





徒花