車を走らせて議会堂から家に戻ろうとしたら、
お昼はどうなさいますか、と運転手のサンジが言った。

甲高いサイレンが街を駆けめぐる。
正午だ。

「いいな」
「じゃあ何がよろしいですかね」

普段、おれの飯はこの男が作っている。
その腕前にはすこぶる満足だが、わざわざこいつを雇ったのはそんな理由ではなかった。


「しばらくぶりに、神田はどうかしら」

そう言ったのは、隣に座る秘書のロビン。

「旦那様は昨日も随分とお飲みになったのだから」


おれが返すより先に、ハンドルが切られていた。




神田駅を流しながら滑り込んだ軒先は、昼飯時らしく随分と賑わっていた。
暖簾をくぐったのはおれとロビン。
サンジは車を何処かに置いて、恐らく此処でおれを待つだろう。

二人はもうしばらく、おれを守らなくてはならない。



忙しなく立ち上がった三つ揃い姿の男と入れ替わりに、
壁に向かい他の卓に背を見せて二人並んだ。
「お先に失礼」
主であるおれに一礼し、一足早くやってきた冷たい麺にロビンは箸を伸ばした。

店内は騒がしいが、単身で来ている客が居並ぶおれの周りだけは
ただ麺を吸い込む音だけがえらそうだ。
見遣った客席には、勤労していたらしい男たちがたくさんと、
すこしの男女の連れで埋め尽くされている。

なので、新たに入ってきた妙に仕立の良いフロックコートは
下町の蕎麦屋にはあまり馴染まない。
そんな一組の男たちは、最奥の卓に差し向かいで腰をかけた。
彼らの視線は揺れることなく、ひたり、一点に注がれる。

「下っ端ね」
「好都合さ」
麺を吸い込む合間の小声に、茶を含んだまま応えた。



とん。
黒いずっしりとした器が置かれると、
少し本を見てきますから、と隣が席を空けた。
葱一筋すら残らないせいろが下げられるや、
また新たな客が一人、どかりと腰を下ろした。

短く刈られた髪が、視界の隅に映る。




「振り向くなよ」
「んなヘマしねェよ」

男は店の女に申し付けようとちらりと背後に目を向けた、ようだ。
おれは目の前の熱した蕎麦をずるずると一心不乱に啜っている。

えらく離れた席からの不躾な視線が背に刺さる。
おれたちの眼差しは交わらない。


「首尾は?議員殿」
茶をこくり飲み下している。気配でわかる。

「良くねェな」
塩の濃い汁がおれの咽喉を流れてゆく。

「これからもっと悪くなる」
「だろうな」
「足掻くけどな」

天麩羅カスをくちゃりと噛んだ。

「魔女がネタを仕入れて来たぜ、クソみたいな法律案の」
「どうだろな、現実はそれを上回るかも」

おれが飲み込む麺はとても熱い。
だから、シャツの袖をたくし上げた。
手ぬぐいで汗をぬぐうと、男の視線がちらり、腕に注がれる。

「―――――成程」



どん、と掛蕎麦がもうひとつ、今度は隣に乗せられた。
美味そうな匂いに、正面を向いたままおれは笑む。

「麦藁帽子はまた飛んでくだろな」

パキ、と小気味良い音を立てて箸が裂ける。

「そのせいであのバカの面が割れすぎて、おれが立ち回る羽目になってるんだ。」
勘弁してくれ、という言葉が汁を飲み下す合間に聞こえる。


「やはり最後は武力行使か」
ちゅるちゅると一本、麺を吸い上げた。
「反対だな、」
一気に麺をすすり上げ、満足をしたような息。
「何故」
「デモクラシィの意味がない」
「そのデモクラシィとやらは金を作らんだろう、議員殿」

天麩羅カスは隣で、カリカリと食まれている。
「世論は軍部へ向いている」
「それでも」




いくらかの人間が集まり、政治と生活について考えていた。
その集団に名前はない。

彼らのうちの一人は華族なので、社交の場でやんごとなき連中の言葉を縁(よ)っている。
別の女は新聞記者として、政治屋たちから情報を掏(ス)っている。
ある男は軍医という身分に出世して、軍部の動向に鼻を利かせている。

またある男は、華族である女の元へ実に自然に婿として入り、出自を問わぬ方の議会で
政治家として世の声を、政治の本音を聞いている。

そうやって拾ってきた情報は、血気盛んなリーダーの麦藁帽子へと収められる。

顔が売れすぎたリーダーの代わりとして、今おれの隣に座るこの男は
それらを集めて回っていた。
水面下の活動の元締め、つまりすべての情報を知る男、というわけだ。



「それでもおれは、世を変えたいんだよ」


首を真正面に向けるあまりか、微かに手が震えた。

じん、と空気の濃度が変わる。
肌でわかる。





「ウソップ議員は、強くなったな」

低い声。
ずるずる、と派手な音を立てて男は汁を飲む。

背中には眼差し。


「できれば、今すぐにでも」
低く燃える声。
笑うようなその声音に、心臓が引き絞られる。

婚姻の前。
契る度、男はこんな声でおれを見つめていた。

背中に眼差し。おそらくこの男にも。



「抱いてやりてェよ」


五寸も間のない隣に腰かける男の瞳は、あまりに遠い。


"ゾロ"

おれは唇を噛んだ。






ことん、と目の前に湯呑が置かれた。
ふわりと漂う。
蕎麦湯だ。

「あの法案が通っちまえば、政治はもうお仕舞いだが」

木の香に満ちた湯はこれまた熱い。

「戦力は戻してやれる」

秘書にしては、料理人にしては随分と鋭い目をした二人は
おれの護衛である。
それも、いつか来る瞬間までだ。
やはり彼等も組織の一員なのだ。

男の鼻が鳴った。

ずず、と器に残る汁を飲み干した。
「麦藁帽子に書いとけ、もう暫く待ってろって」

返事のようにずるずると麺を飲み切る音がした。



ごとん、
「おめェも器置けよ」
重い器が隣で鳴った。

ちらりちらりと背に感じる視線は、その未熟さゆえに途切れることはない。
疑問は返さない。
おれは手元の蕎麦器と湯呑を離した。





店中がひっくり返るような大きな音。



おれの掛けていた椅子が宙に舞った。

周囲から汁を吸い込む音は消えており、おれの尻餅が情けなくも響いた。

「何すんだよっ」
勢いよく振り向く

と、その先にはすでに懐かしい目があった。

「すまん」

目の前の男は、その視線をつと逸らすことなく、
此の方へと伸ばした手で
おれの右手を取った。


「足が滑った。」




目の前の男は
ゾロは、おれを見つめていた。
おれの手を握っていた。



その手が導くままに、おれは立ち上がる。

奇妙なこの緩やかさが不自然と映ったかも知れなかったが、
おれの背に記憶はない。

ゾロは目を逸らさない。
おれは目を逸らせない。

もう少しだけ強く握られた手に応えるように、力を籠めた。

口元がほんの少し、緩んだ。



手の力を少し逃す。
ざわめきが戻る。
待つ客を迎える下女の声が通る。

背中には痛いほどの視線。

「気ぃ、つけろよな」

おれの震える声、情けない。
指は大きな手のひらを滑る。
震えながら。

「ああ」

深い声。
目の前にいるのは、全てを知る男。

指が離れる。

おれは銭入れを掴んで踵を返す。



目が離れる。





釣りも貰わずに、おれは店の前に控えていた車に飛び込んだ。

12時37分、と告げ、運転手は車を出した。



「『すまない、我慢できなかった』、ですって。」
神保町の古本屋で拾ったロビンは、開口一番そう言った。

全てを知る男、
つまり、国家にとって存在してはいけない男は
おれを見つめて、おれの手を捕らえ、
笑ったのだ。

「大バカヤロウ、って言っとけ」
「『愛している』も加えましょうか」









――食い終えた出前の蕎麦の器にもきっと、今宵の雪は積もっているだろう。

妻ビビと離縁し、奉公人を全て払ったおれは
今一人火鉢と向かい酒を飲んでいる。

雪のしんしんと降る夜。
不気味なほど揃った足音さえ、今夜は鈍い。


庭先に、勲章を三つ光らせた男が憮然と駆けて来た。

「ウソップ民議院議員」

懐から取り出した黒金は、口をこちらに向けている。



「国家反逆の咎により、貴殿を成敗つかまつる」


おれはほうと胸を撫で下ろした。


ゾロ。

あの時笑んだ目に誓ってもいい。

逮捕拷問でないならば、おれの弱さはお前を殺さない。
政治に負けた身だろうとも
おれは未だ戦える。



撃鉄を起こした右手はじわりと温かかった。




銃声。







徒花