andante -唄う花- 番外/なんでこいつが
なんでこいつが。 俺はいつも、その呟きからはじまる。 「いいか、恭吾。男女交際には節度を持て。男男交際もだ」 「征一郎って古いよなあ、そのへん。旧時代?」 人のベッドの上で雑誌をめくりながら、鼻歌交じりで猫を片手でつついている男には反省の色はない。俺は全身の血に広がる過剰な熱量を逃すため、両手でシーツの端を掴んだ。 「うぎゃっ」 シーツを引き抜くと面白いぐらいごろごろと男が転がる。 右手に雑誌、左手に猫を抱えて床に顔から落ちた男は、それでも両手のものを手放さない。 「ふん」 運動神経は人並み以上に良いのだから受け身を取るとか、逃れるとか出来そうなものだが、口ではぶつぶつ言う癖に無抵抗なんだよな、こいつは。 「にーあにあーにあ」 「来い、真鈴」 飼い猫には悪いことをした。 ふわふわの毛並みを持つ白猫真鈴は、俺が腕を出すと甘えた声を出しながら肩に飛び移ってくる。恭吾につつかれても知らん振りをしていたが、さすがにいきなり中空に持ち上げられて驚いたらしい。シーツを引き抜いたぐらいなら、ひょいと飛び上がって難を逃れるぐらいの機転の良さを持つものの、恭吾の素早い動きには対応できなかったのだろう。 「ああ、真鈴ちゃん…」 名残惜しげな声を出した男を見て、俺は小さくため息を吐く。 さっさと床から起き上がれ。みっともない。まあ、俺が落としたのだが。 隣人で幼馴染み。親同士が仲が良くて、子どもの頃俺たちが使っていた塀の抜け穴にはご丁寧に表札まで付いているぐらいのばかばかしいぐらい親しい間柄である。 この男は子どもの頃からたらしだった。 忘れもしない。あれは幼稚園の遠足の日。 もも組のくるみちゃんとりんご組のはやしさん。 『くるみちゃんもはやしさんも可愛いよ。だからけんかしないでね』 この男と手を繋ぎたいあまりに、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、殴り合い蹴り合ったくるみちゃんとはやしさんは、もはや遠足どころではないひどい有り様だった。 そのふたりのおでこにちゅっとキスをして場を収めた、若干5才。 彼女たちの王子さまだったらしい彼の微笑みは効果絶大だった。ぽうっと頬を染めたふたりは、大人しく列に戻ったものである。 両手があるんだからふたりともと手を繋げばよいものだが、必ず2列になって進まなければならないため、ひとりの席をふたりで争うことになったのだが、もともとどちらも恭吾とは別に手を繋ぐ相手がいた。 手持ちぶさたに顔を見合わせていたもも組とりんご組の男ふたりは憧れのくるみちゃんとはやしさんと手を繋げて嬉しそうだ。 そんなに重要なことか?たかが手が。 その頃から少々冷めた考え方をしていた俺は、その一部始終を呆れた眼差しで見つめていた。 誰と手を繋ごうが、そんなものあっという間に終わってしまう。実際、徒歩10分で着くぞうさんの森に辿り着くなり、彼女たちはあっというまにちりぢりになって、誰かと手を繋いでいるなんて面倒でやってられない、そんな雰囲気さえ見せたのだから。 ちなみに両隣から腕をしっかり握られて引っぱられるという、古典的拷問を受けていた男自身はけろりとしたもので、妙ににこにこしていた。 まあこいつの笑顔っていうのはなかなかくせ者で、こいつなら仕方ないと思わせる気安さと愛嬌がある。まあ、ようやく無事、入り口を通ろうとしただけで発生した問題も解決して、一安心だ。 順調に他の園児たちが手を繋いで入り口を抜けていく。 その中で動こうとしないのが先ほどの問題児がひとり。そいつはぬっと片腕を伸ばした。俺の方に。 「せいくん。手ぇ、つなご」 「………はあ?」 おまえは先生の説明を聞いていなかったのか。 隣の女の子と手を繋ぎましょうね、って言っていただろうが。 俺は男だ。おまえの手なんかいるもんか。 「おれ、せいくんがいい」 が、を使った。がを使ったぞ。 保育園児にして日本語の深くて広い使い分けを覚えている俺は、そのてにをはに鋭く反応した。 どうして、が、なんだおまえは。 もも組とりんご組の憧れの人をさくっと振った癖に。 「なんでおれがお前と手をつなぐんだよ」 と、俺もはっきり言ってやったのに、ぞうさんの森でも、ライオンの丘でも、こいつは俺の手を離さなかった。 その間中、俺の胸は妙な不整脈を訴え、息苦しさと喜びでごちゃごちゃだった。どうぶつを見て喜ぶような歳でもなかったが、きっと見られて嬉しかったのだろうと思うが、どうしてあんな動悸がしたのか今でも不思議だ。 「おーい、征一郎〜、大丈夫かあ?」 「大丈夫だ。…いや、何しているんだ、おまえは」 「真鈴ちゃんごっこ」 俺の髪をかきまわし、ぐちゃぐちゃにするのがか? それともおまえの膝に俺を乗せているところがか? 「恭吾。覚悟は出来ているな?」 「いいえ?」 「そこになおれ!」 成敗してくれる。 せっかくの休日に見たくもないこいつの顔を見ているかといえば、俺が呼び出したからだ。 先ほど恭吾がめくっていた雑誌をベッドの端に座ってめくりながら、俺はそっとため息を吐く。まったく内容が頭に入ってこない。 ベッドの上であぐらをかき、新しい雑誌をめくる幼馴染みの顔を俺はねめ付けてやる。 「とにかく、浅く付き合う相手に深い手を出すのはやめろ」 こいつは先日もまた下級生に手を出し、それより少し前に出していた下級生同士が揉めるという事件を相も変わらず引き起こしてくれたのだ。 揉めた彼らはことの張本人であるこいつの取りなしを受けると、なぜかお互い仲が良くなってしまって、こいつのことなどどうでも良くなったようだが、原因にはひと言注意をしなければいけないだろう。 いい加減いつもいつも、面倒ごとばかり引き起こす男だが、幼馴染みではある。放置していて他人様に迷惑をかけていては面目が立たない。 「みんなかわいいからさ、つい、こう、盛り上がるでしょ、ふつう」 「知らん」 「征一郎はさあ、顔も悪くないし、眼鏡なんてお約束アイテムをつけなくても充分冷ややかな雰囲気があって格好良くて、もてもてなのに…なんか固いんだよな」 「…それがどうした。余計なお世話だ」 「蓮みたいな洗い立てのシーツ、真っ白ふわふわです、みたいなのを持てとは言わないって。でも損していると思うんだよ」 「損?」 おまえといること以上に人生の損失はないと思う。 「わ、ひどい」 「何も言ってない」 「言ってる言ってる。顔が」 それがひどい言いようだと思うが。 そう思ったが、口には出さない。しかし読心術でもあるのか、まあね、と簡単に頷いた恭吾の表情はずいぶん大人しい。 明るくはっちゃけすぎるところもない、静かな顔だ。こういう顔も人を魅了するんだろうと思わせる、雰囲気のある顔だった。いつもこんななら大人しくて良いが、それはどれでこいつらしくもない。 「征一郎自身はすごく可愛いところがあるのに、カチカチでガチガチの鎧付きっていうか。でもそんなふうまでして身を守る必要なんてないだろ?」 「…………っ」 どうも時々妙に鋭い恭吾の物言いは胸に突き刺さるものがあった。 兄弟同然に育ってきた俺たちはお互いの性格など、隠しようもなく知られている。ここでの俺はなるべく穏便に話を受け流すべきだったんだろう。だがとっさに、そうすることができない。 「誰が…可愛いって?」 問題はそこだ。 しかしこの切り返しはまずかった。この手の話題は良くない。何のてらいもなく恥ずかしい台詞を吐ける男。それが一ノ瀬恭吾であることを俺は忘れていた。大失態だ。 「どんなに不機嫌でも真鈴には甘い顔を見せるところだとか、冷ややかさを装いながら、相手を立てようとするところとか、お気に入りのお菓子が出た時に無意識に笑みをうかべているところとか、ぜんぶ可愛いって」 「…………」 「…………」 「まあ、それはともかく」 なんでこう失言はすぐ我が身に返るのか。 俺の失言はともかく、重要なのは恭吾、おまえの不特定多数の異性及び同性交遊。 危うく話をすり替えられるところだった。 俺は呆けそうになる意識を叱りつけて話を戻す。 「だいたいな、おまえは良いかもしれんが、中には本気になる者だっているだろう。そういった者を悲しませるつもりか?」 「そうならない子を選んでるって」 「本命ができたらどうするんだ」 「うーん、どうするって?」 「浮ついたおまえを信頼するまでに時間がかかるだろうし、おまえだって思い悩むんじゃないのか」 「相応しい人間じゃないから?」 「そこまでは言わないが、…そう誤解されることにもなりかねない」 「それは大丈夫。だって俺のこと分かってくれてる」 「いや、だから…?、……」 俺は自分の顎を指でつまんで、ぴたりと口を閉ざした。 今の話からすると、もう本命がいるってことか? 「………、なら、尚更……」 知らなかった。本命がいるのか? 俺は妙な戸惑いを覚えて言葉をつまらせる。 どうしてこんなふうに言葉が詰まるのか分からない。 こいつに本命がいるというなら、喜ぶべきことだ。 今はふらふら、ふらふらと蜜を求める蝶のように落ち着かない腰も、次第に座ってくるってことだろう。歓迎こそしてそれを拒むいわれはない。 そうに違いないというのに、俺の気分はざわついて困ってしまう。 ここでうまい冗談など言えれば良いのだろうが、何もうかんでこなかった。 「わー。どうしてそこで黙っちゃう?」 「どこで黙ろうが、俺の勝手だろうが」 「な、征一郎。俺の本命知りたくない?」 「…………」 朝から晩まで、家でも学校でも一緒にいるのに、俺はこいつの本命が誰なのかちっとも分からないなんて、幼馴染みの沽券に関わるだろうか。 C組の美少女とはもう分かれたようだし、B組の美少年はどうだったろう? こいつが今まで、あるいは今も付き合っているだろう相手なんか多すぎていちいち思いうかばなかいのが正直なところで、考えれば考えるほど苛ついてくる。本当に本命なんかいるのか?つい先日も下級生に手を出した挙げ句、もう興味もない男が? 「いや、別に」 「教えてあげるって」 妙に甘ったるくて優しい笑みをうかべた恭吾が俺にのし掛かってくる。 どうして本命を言うだけで俺をベッドの上に引き倒し、あまつさえ俺が起き上がれないよう自分の体を重しとして使うのか。 「どけ」 「どかない」 「重いぞ」 「そりゃ、征一郎より筋肉在るしな。な、征一郎。これいやか?」 いやに決まっているだろう。 その文句がこいつの口の中に奪われる。 ………これは、キス? 「き、…きょう、ご…ッ」 「うっ、下半身に来るなあ。おまえの声って」 ふくらみを押し付けるな! もう1度唇を合わせてくるな! 「離せ…ッ」 のし掛かってくる体を押しのけようとするが、びくともしない。 そうだった。 こいつは俺の攻撃をいつも避けもしないが、実際には俺よりずっと鍛え抜かれた体と優れた格闘センスを持つのだ。 頭の中にかっと血が昇る。 全身の血が煮えたぎるような、激しい怒りで目の前が白くなった。 「おまえの本命に密告してやるぞ!」 それが誰かは知らんがな。 堂々と高圧的に言いのけると、こいつは妙にきょとんとした顔になり、ぷっと吹きだしてから、懲りもせず俺の唇をついばむように浅い口づけを繰り返した。 「俺が好きなのはあんただよ」 「…はあ?ばかも休み休み言え」 「だから、あんた。遠見征一郎が本命だって言ってるわけ」 冷ややかな眼差しにかけては誰にも負けないと自負している俺? 不本意ながらいじめられたい先輩ナンバーワンの俺が? 「好き?」 「そうだとも」 「おまえ…まだ、保育園の頃の好きとの区別がつかないのか?」 「いや?その頃からすでに俺はあんたを愛してたぜ?」 いや、それは勘違いだ。 そうに違いない。 だというのに、真っ白になっていた視界がどきまぎと赤く染まる。 どう。どういうことだ? 「ふ。服を脱がすな、おまえは…っ」 「しちゃおうぜ。告白ついでに」 「ついでにするもんじゃないだろうが」 「ずーっとしたかったんだ」 俺は服を脱がされ、再び深い口づけを受ける。 口だけでなく、首筋から、胸もとから、淡く兆した前も、全て。 「きょ、…恭吾…っ」 丹念に解した後ろに、熱の固まりを押し付けられる。 あんなに長く一緒にいたのに、体の中に圧し込まれ、挿れられる圧倒的な存在感も全身を融かすような熱量も、未知のものだった。 俺は喘がされ、大きさに呻き、迸りで白く体を汚したが、こいつとするその行為がそれほど嫌でもないことを知った。ことを終えた後にきちんと殴っておいたが。物事には手順とか順序とかあるだろう。いきなり襲うな。 「おまえはまたどうしてそう、世儀に構おうとするんだ」 「いやあ、だって可愛いからさ」 「だってじゃない」 「でも愛しているのはおまえだけだぜ?」 「………っ」 ああ、そうだとも。 それを言うのがこいつでなければ許さない。 俺はいつもこいつに気持ちを乱され、こいつのひと言で収まる。 俺もまた、こいつにたらされたひとりだと言うことなんだろう。 呟きは声なく胸の中で呟かれる。 「……俺も」 「え?何か言った」 「何でもない!何も言ってない!仕事をしろっ」 「ええ〜?」 のし掛かるな、耳に息を吹きかけるな、世儀に迷惑をかけるな、やたら他人をたらすな。ああもう。 なんでこいつは、こうなんだ。 俺の今日もまた胸の中で埒もないことを呟く。 好きになった方が負けだと世間ではまことしやかに囁かれるが、こいつとの場合。 恐らく生まれたその日から、どちらか先も後もなく。 こんなふうになったのかもしれなかった。 |