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月吹く風と紅の王 番外/ちいさな星





「ユーリア!」
 息を切らして産屋に飛び込むと、ずっとそばについてくれていた産婆が口もとにすっと指をのせる。
 リィジアはこぼれ落ちそうになる大きな声を飲み込んで、腰も曲がり顔がくしゃりと縮んだような姿の産婆に丁寧に礼を言った。年季の入った革かばんを握る手は力強く、男の子だよ、と、通り抜けざま肩をぽんと叩かれると、一瞬しびれを感じるぐらいだった。
 後ろ姿に何度も頭を下げ、リィジアはユーリアの眠る寝台に近づく。少し疲れた様子で瞼を閉じた妻の髪を撫で、リィジアは傍らで眠る赤ん坊に目を留めた。
 はっと息をのむ。
 触れようとした手を思わず止めると、ユーリアが気づいたらしい。
「…リィジア…?」
「ユーリア。…起きたんだね。辛いところはない?何かしてほしいことがある?」
 首を横にふって、大丈夫とユーリアがこたえる。リィジアは汗ばんだ前髪をやさしくかきあげて、口づけを落とした。
「ほんとうに…よくがんばったね。…ありがとう、お疲れさま…」
 終わりまで言い切ることが出来ず目もとを潤ませるリィジアに、ユーリアはそっと手を伸ばす。リィジアの蒼い瞳から、粒の大きな涙がこぼれ落ちた。
「かわいい子でしょう、リィジア」
 薄く明かりが差し込む部屋の中でもよく分かる、透きとおるような月色の産毛に頬を寄せて、ユーリアは微笑んだ。リィジアと同じ髪の色だ。産婆は生まれたばかり赤ん坊に産湯を使いながら、親譲りのきれいな子だねえと茶目っ気たっぷりに笑っていた。
 指先で涙をすくいとり、大丈夫よ、とささやいて促す。おそるおそる我が子を抱き上げるリィジアに、赤ん坊の薄い瞼がふっとひらいた。
「あら。起きたわ」
「目も…」
「そうね、リィジア…」
 こぼれそうに大きな瞳は蒼く、星を散りばめたような銀の光がまざりこんでいる。
 泣きもせず不思議そうに瞬いた顔は、生まれたばかりだというのにずいぶん品良く見えた。親の欲目と笑われても、きっと賢い子になると、そう思う。
「…ロッディは?」
「おばさんと機嫌良く遊んでいるよ」
 若夫婦を心配して手伝いに来てくれた隣の家の夫婦は、7人の子どもを育て上げた心強い先輩だった。
 話に誘われたようにロッディを連れた夫婦が現れて、リィジアに抱かれた赤ん坊を見るとそろって笑顔をうかべる。
「男の子だってね」
「はい」
「だんなさんにそっくりだこと。きっと美人になるよ」
 リィジアにすすめられて赤ん坊を受け取り、手慣れた様子で抱きかかえる夫人に、夫も頷く。ユーリアは懐かしそうに目を細めた。
「あんまり泣かない子みたいで。びっくりしました」
「そりゃあ、物怖じしないよい子だ」
 先に生まれたロッディを思い出して、大人たちは目を細める。何がそんなに悲しいのかと思うぐらい、ロッディは良く泣く子だった。今もあまり変わりはないが、懐かしく思い出すぐらいにはおさまってきている。
「ロッディはな、体いっぱい使って、はじめての世界を知ろうとしてたのさ」
 自分が話されていることにも気づかずに、うとうとと船をこぎ出すロッディは、力強い腕に抱かれてとても幸せそうな顔をしている。リィジアは起こさないよう気をつけながらロッディを受け取って、ユーリア譲りの茶色の髪をゆっくりと撫でた。
 ずっとたったひとりで愛情を受けていたロッディが、弟を持ってどういう反応を見せるのか。それが少し心配で、同じだけ楽しみでもあった。
 リィジアの不安を読み取ったように夫婦が微笑んで、大丈夫だ、と力強い声が向けられる。
「嵐の中を歩むようにつよく、大海を揺らすように大きく、森を支えるように立派な風になれ」
 まったく老いを感じさせない低く響き渡るような朗々とした声で、生まれたばかりの赤ん坊へ言祝ぎが告げられる。風の精霊としてたくましく、愛情をたっぷり受けて伸びやかに育っていく姿を思い浮かべられるような、祝いの言葉だ。
「ありがとうございます」
「この子の将来は安泰ね」
 何せこの大音声にも平気な顔をしている。
 みんながそう思ったところで、案の定、びっくりして目をあけたロッディがぐずりだす。こりゃあ先は長いな、とばかりに辺りはどっと、にぎやかな笑い声に包まれた。




 ルシエの後には、ふたりの女の子に恵まれた。
 ユーリアの後を継ぐ女の子だ。
 ロッディは母を手伝って妹たちの世話をするのが楽しいようで、毎日はりきってせっせと動いている。
 間にはさまれたルシエはちょこまかと兄の後を追っては、そのまねごとをして、それに飽きるとひとりでごそつきだした。年が近い兄妹たちと遊ぶのも、ひとり遊びをするのも同じだけ楽しいらしく、薬草道具のお古で調合の真似をしているところなどはなかなか真剣な顔だ。
「ロッディたちと遊ばないの?」
「ん…。いま、いそがしい」
 さてどちらが忙しいのか、と悩むぐらい、わき目もふらず草の葉をすりつぶしている。
 ぱらぱらと振り入れたのは、砂の粒だ。きちんと種類を分けて集めているところは、さすが薬師を兼ねる巫女の息子だと言える。
 妙に感心しながら幼いルシエのそばに屈んで、リィジアは頬杖をつく。
「ねえ、ルシエ。お父さんと一緒にご本読まない?」
「よまない」
 いつもだったら喜んで本を広げたリィジアの膝に飛びついてくるのだが、よほどその遊びが楽しいらしい。
 放っておいても良いのだが、ロッディは里の子どもたちと遊んでいるし、ユーリアは少し難しい薬を作っていて、しばらく部屋の外には出てこられない。母親について離れないミメイとセイラは当たり前のようにそのそばだから、ユーリアに任せられる。
 そうなるとルシエだけ誰もそばにいないことになり、それは少し心配だった。家の周り、あるいは里の中にいる分には問題ないが、何ごともなかったような顔で里よりだいぶ離れたところへ出かけて行かれるのは困る。
 好奇心がつよいというのか、肝が据わっているというのか。
 興味を覚えたことには突きすすんでいかないと納得できない質なのだろう。
 すでに何度か見失って慌てたことがあり、どれも事なきを得たとはいえ、目を離すことが出来ない。
「それなら…。散歩に行かない?お父さんと一緒に」
 子どもの足だと少しかかるが、こんもりとした小さな山がある。
 ロッディぐらいの歳になると小さすぎて物足りないようだが、ルシエならまだ気になる場所のはずだ。
 思惑は当たって、ぱっとあがった明るい夜のような瞳がリィジアを映す。
「…いく」
「うん。行こうね」
 行って帰ればお昼寝してくれるだろう。そうすれば安心して仕事に取りかかれる。
 自身の思惑はまったく匂わせず、リィジアはにっこり微笑んで、草のつゆに染まった手のひらを握った。




「ねえ、ねえ。これはなあに?」
「んー、トウトギのさなぎかな」
「トウトギって?」
「ほら、あそこにいる」
 みっしり茂った草むらにかがみ込んで、好奇心いっぱいに輝く小さな子どもの問いかけにこたえながら、ゆっくりと歩く。久しぶりの裏山のぼりが楽しくてたまらないのだろう。さきほどからルシエは、あちらこちらに行っては、あれなにこれなにと、大忙しだ。
 リィジアは手のひらで陽射しを遮り、雲ひとつない空を見上げた。
「あれわ?」
 リィジアの真似をして細い首筋をこくんと上向けたルシエが、指を差す。ああ、とリィジアは頷いた。
「みんな、光を浴びてうれしそうだね」
「うん。うたっているね。らあうー、たあうーって」
 空の中に広がった群れの歌声にあわせて、地面を弾んだルシエが浮き出す。
 風の子どもたちは歩くより先に飛びだすと言われているぐらい、やすやすと空を飛ぶ。ただし体が軽すぎて、放っておくとすぐにちょっとした流れに巻き込まてしまう。はっと気づいて手を取ると、草むらをざわりと抜けた流れで景気よく小さな体がぶれる。
 布がはためくように体が揺れたが、と気にならなかったらしく、ルシエは笑顔を見せたままその場でぱたりぱたりと腕を振りだした。耳にふれる音色を舞で重ねていくのは、このところ気に入っている遊びで、放っておくといつまでも珍妙な動きを披露している。
「ルシエはじょうずに合わせるね。師匠をつけてあげる時期かな」
「ししょー…?」
 言葉の響きが気に入ったのか、口ずさみながら跳ねまわる姿に目を細め、リィジアはルシエと一緒にくるくるとまわってみる。
 はじめはリィジアが教えても良いが、どうせならちゃんとしたところで学ばせてやりたいと思う。
「きらきらってしているね。とっても、きれい」
「そうだね」
 ルシエが見ているものをリィジアも見ることができる。
 小さきものと呼ばれることもあるそれらは、見えない者も多い。幼い子どもならば見聞きできることが多いが、ロッディは少しぼやけて見えて、ミメイたちは気配だけ分かるようだ。
 おそらくは血の力なのだろう、とリィジアは思う。
 それはとても不思議で、複雑な、悲しいような嬉しいようなものをリィジアに感じさせた。
 リィジアとルシエが里の仲間と異なる姿を持つことは、ほんのちょっとした偶然に過ぎない。ただ古い血の名残のようなものだ。
 精霊の性質は、その容姿にあらわれやすい、と言われている。花の精霊などはその例として分かりやすく、もともとの花びらの色と似た髪色だったり、瞳だったりする。
 姿形が違うリィジアに同族とは異なる能力があったとしても、それは至極当然のことだ。そのため、リィジアは幼い頃から色々な人たちに預けられて、自身にあったやり方を探していけるようにと育てられた。
 親となった今は、それが苦しい決断だったのだと、たいへん重い決断だったのだと気づけたが、当時はそのことについて、ずいぶんと辛く感じたものだった。
 そうやって育てられたリィジアは成長してからも様々な場所を流れ歩き、ユーリアに出会わなければ里に入ることもなかっただろう。
 風は同胞である。そのことに変わりはない。それでも、同じものを見聞きして分け合えるような、そんな相手がいればと思った。リィジアはどこへ行っても、かすかなさびしさを覚えていく。
 ようやく出会えたユーリアはリィジアの足りないものを埋めてくれる相手だし、理解し合えるとっておきの仲間でもある。かけがえのない相手を得た今であっても、こうしてルシエを見ていると、時々胸がざわめくような気がした。
 同じ特徴を持った者として、いつか必ず出会う迷い道に入り込んだとき。
 そのときリィジアは、同じ道を通った者として行く先を伝えることが出来る。
 たったそれだけのことが、とてもリィジアの心を揺さぶった。それはふとした瞬間にやってきて、我が子を守らねばという気持ちと、分かち合いたいという気持ちの両方を沸き立たせる。
 もの思いにふけるリィジアの袖を、ルシエの小さな手のひらがつかんだ。
「ししょー、って、いっしょに遊ぶ?」
「…そうだね。遊びながらね、じょうずになれるよう、教えてもらって」
 できるだけ多くのこと学んで、その中のたったひとつをきわめても良いし、きわめなくてもいい。健やかに伸びやかに大きくなっていってくれることだけが、望みだ。
「ルシエ。一緒に、歩いていこうか」
「うんっ」
 やわらかい子どもの髪を撫でて、リィジアはルシエと一緒に地面も空もいっしょくたにしながらはねまわる。
 はち切れんばかりの笑みと明るさがリィジアの心を軽くして、どこまでも高く遠くまで飛んでいけそうだ。そうしてその手は、当たり前のように母親や兄や妹のもとへリィジアを連れて行く。それはとても幸せなことだと、リィジアは思った。





返事不要

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