andante -唄う花- 番外/その笑顔
「よいか、皆々様」 「おうとも」 「ふだんどおりだ、いいか」 「ええ」 「蓮様、おかえりなさい!」 はじけるような笑顔の中に、びらりとこぼれ落ちた横断幕を見て、オレはつい笑ってしまう。 退院おめでとうと書かれた幕は、どことなくいびつな手作り感いっぱいで。あとで聞けばみんなそれぞれひと針ずつ縫ったものだとか。 「オレ、しょっちゅう出入りしているけど、いいのかな…?」 と、言ったら、父さんは苦笑い。 きっとその度に趣向を凝らしてくれるさ、って。それもまた申し訳ない気がしたけれど、こんなふうに迎えてくれるのがこんなに嬉しいなんて、オレ、思わなかった。 それは雨が続いた日のあと。 体調を崩したオレが病院に運び込まれてそのまま入院することになったときのことらしい。 ふだんとてもにぎやかな食堂には、どこか沈んだ顔をした顔がずらりと並んでいた。 「どうすべきだと思う」 まず口を開いたのは、この家に仕えて長い庭師だった。 「名尾さんが言うには、だいぶ食欲が落ちているそうだ」 「日が良くないよねえ…。なんでよりにもよって音浜祭が間近に迫ったときに…」 「こら、それを言うな。1番お辛いのは蓮様だぞ」 「んなこと分かってるよ。だから悔しいんじゃないか」 掃除や洗濯ものなどを担当してる部屋担当は威勢良くたんかを切りながら、笑いじわの刻んだ口もとをへの字に曲げる。 音浜祭にはみんなで来てね、と花が咲くように微笑み、学内に入るための券を渡してくれた顔を思い出すと、涙がこぼれそうになるのだ。 はじめは、正直なところみんな戸惑っていた。 家を出て行った長男のことや…、その子どものことは、これまでもうっすらと流れてきていて、さてどんな子だろうか、という感じはあった。 それが思わぬことで間近で接することになって、どうすればよいのかと。 当主を失った悲しみでいっぱいのまま、急いで部屋をととのえ、新しく人が入るのだという余裕を持てないままその日を迎えた。 「はじめまして、…蓮です」 そう言ってぺこりと頭を下げた子どもは、想像していたよりもずっと貧相だった。 着てきたのは中学校の制服だろうが、手首がすっぽりと隠れるような大きさで、傍目にも少しぶかぶかしているのが分かる。不ぞろいな前髪で隠れた顔は青白く、けれど放れた声は少しはっとするような不思議なつよさがあった。 お互い緊張していたせいもあり、初日はぎくしゃくとした会話だったように思う。 仲間内では、派手さでならした長男の息子だし、きっとその子どももそうだろう、という話に傾いていたから、どこかひっそりとした雰囲気の「新しいうちのぼっちゃん」に不安を覚えたのは仕方ない。 世儀家の人間は良くも悪くもつよすぎる個性を持っているもので、どこかしら強烈に人を惹きつけるものがある。だから、違和感があったのだ。でもそれは、すぐに間違いだと分かった。 新しいうちのぼっちゃん、がはじめにみんなを驚かせたのは、その記憶力だった。 とにかく名前覚えがいい。 世儀家に仕えている顔ぶれは通いや住み込みとあわせて、相当な人数にのぼる。それをひとりひとり覚えて、なおかつ会話の内容も覚えているのだから、度肝を抜かれてもおかしくない。 古参の者はそれぐらいなら前の当主もそうだったよ、と素っ気なかったが、新しいうちのぼっちゃんの、耳障りのいいふんわりとした声で名前を呼ばれるのは、思っていたよりもずっと嬉しいもので。 おまけにうちの新しいぼっちゃん、はめげない子どもだった。 主人を失って日に日に体力が落ちていた飼い犬のベスに、こちらがびっくりするぐらいけんめいになって、尽くしたのだ。 ベスは世儀家に相応しい、美しく気高い犬だった。主人以外の手にはむやみに撫でさせることもない、世話係もいたが、おのれが認めた相手以外からは決してえさをもらわない。 あんまりにもがんばるので、周りの者がつい、ベスにはむしろ、このまま誇りを保つことが何より幸せで、大切なのだと諭したが、それに対するうちの新しいぼっちゃん、の言葉はきっぱりしていた。 「仲良くなりたいんです」 ベスを哀れんでいるわけじゃなくて、じぶんが仲良くなりたいから。 なんという勝ち気な言いぐさだと腹を立てる者もいたが、それも長くは続かなかった。犬小屋のそばで疲れ果てて眠り込む体を見つければそっと日影に移したり、ベスが気に入っていたものをさりげなく用意しておいたりと、小さな波が広がるようにして、新しいうちのぼっちゃん、から、うちのぼっちゃん、少しずつ変わっていった。 うちのぼっちゃんは、とにかく笑顔がいい。 花が咲くようにほほえむ。 機転が利いて気配り上手で優しくて、数え上げれば切りがない。褒めすぎじゃないのか、と言われるぐらい、褒めるところしかない。 「人間誰だって腹に一物抱えてるものだろう」 「ないよ。いや…、ぼっちゃんの前じゃあ、そんなのどうだって良くなるんだよ」 「かわいいんだよ」 「とにかくほっとするんだ」 「癒される」 地味な大人しい子ども、などという評価は、気づけばそんなの誰が言ったんだろうね、と首を傾げるぐらい、きれいに塗り変わっていた。 確かにうちのぼっちゃんは、元気いっぱいはねまわって遊ぶよりも、家の中でじっとしている方が好きだ。 放っておくといつまでもピアノと楽譜のそばから離れないので、ちょっと気をつけて見守っていた方がいいし、体もあんまり丈夫じゃないから、手伝うときらきらとした顔を言われても、涙をのんで、ここからはだめだと止める必要がある。 根っから働き者なので、だめだと言われると、かなりしょんぼりとした様子になるが、のんびりするのも必要、と真剣な顔をしているうちに、いつもうとうとと眠り込んで、周りの笑顔を誘う。 そんなうちのぼっちゃんが、何より楽しみにしてきた音浜祭に呼ばれて、嬉しくないはずがない。 忙しいぼっちゃんの邪魔をしないよう、そっと行って、そっと帰ってこようとは言っていたけれど、このまま行けば、当日ぼっちゃんが参加していることはないだろう。 それに、みんな何より、むざむざ体調を崩させてしまった責任を感じていた。もっと気を配っていれば、それが防げたんじゃないかと思う。 「そういや、料理担当はどうした。ここには来てないけどさ」 「差し入れをつくるんだと」 「差し入れ…?何をだい」 「のりだと」 「なんでもなあ、こう…切り絵みたいな」 「ものすごく燃えてたぜ。あそこはしょっちゅうぼっちゃんと過ごしてるもんなあ」 「いつもぼっちゃんが来る頃になると、やけに活気づいてさ。最近やけにうまくなってねえか、うちのめし」 「そりゃあ張り合いが出るからさ、腕も良くなるさ」 庭師からは切り花。 部屋担当からは特別寝心地がいいリネン。 ベス担当からは本日のベスの様子を写真付きで報告。 寝間着もより汗の吸収が良くて、着心地の良いものを厳選。 もちろん平癒祈願は日参だ。この際、神頼みでも何でもしておくべきである。 「他に何か、わたしらに何かできることがないかね…」 がん首そろえてうんうん悩んでも、なかなかいい案が見つからない。 この人数がお見舞いに行ったり、品物を渡すのはどだい無理な話だし、そんな迷惑をかける気は端からないが、うちのぼっちゃんの笑顔を早く見たい、というのは、全員の一致した意見だ。 みんなうちのぼっちゃんが好きなのだ。 ただ早く元気になって欲しい。 けれど、今も病院でがんばっているだろうぼっちゃんの姿を思うと涙があふれそうになり、どうにも悲しくて仕方なくなってしまう。しぜんと仕事にも手がつかず、こうやって食堂に集まっては何が出来るか相談していた。 ふだんはきびきび動くことを信条としている室内長の少し厳しい顔も、ぼっちゃんをより可愛くきれいに見せる服は何かだろうかといつも真剣な顔をしている衣装担当も、どことなくうかない様子だ。 そうした顔ぶれをぐるりと見回して、この屋敷でいちばん長く勤めているので、ひっそり長老とも呼ばれている老人の目がぎらりと光る。 「てめえらよ。わしらにはわしらの領分てのがあるだろう」 ぴしゃりと放たれた声に、若いひとりがためらいがちに口をひらく。 「領分…かい」 「この家で気持ちよく過ごしてもらう。それがいちばん大事なんじゃないかい」 いつも通りにおかえりなさいと迎え入れられるように。 どうしたって火が消えたように沈みがちになる屋敷の中を陰から支えていくのは、じぶんたちだ。 縁の下の力持ち。 それが彼らのつとめである。 領分なんて言葉にするとむずかしいが、つまりはいつも通りやっていればいい。ただそれだけだ。 なるほどそういうことか、と思えば、少しずつみんなの顔に明るさが戻る。 それなら彼らにもできるし、うちのぼっちゃんの為にやれる、せいいっぱいのことに違いない。 「よっしゃ。おれ、仕事に戻る」 「あたしも」 「そういや、蓮様が気にされてた天井のくすみ、今のうちに業者いれちまおうよ」 「ああ、ちっと大旦那様に伺ってくる」 ばたばたと動き出してみれば、時間など幾らあっても足りない。 ちょっと大げさじゃないかという意見もあったが、たまらず用意した横断幕は、押し合いへし合いしつつもみんなで持った。 無事退院が決まって帰ってきた蓮が見たのは、いつも以上にきれいにととのえられた屋敷と、ふだん通りに明るく出迎えてくれる、みんなの顔だった。 |
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