「エセル兄さん、聞いてよ。ジョセフ兄さんがノイローゼだって言うから、慌てて会いに行ったら、そのままパリだモクスワだソウルだ、って引っ張りまわされて!帰ってきたの昨日なんだよっ!!」 電話口でいきり立つのは末の弟、ユークリッドだった。 うんうんと宥めながら、エセルはショッキングピンクに染めた髪を指で摘み、上目遣いに毛先を眺める。相手は相槌を返して欲しいだけなことは分かっているので、エセルはあまり、真剣に話に取り合っていなかったりする。そういった文句を言えるのがおそらくは自分だけなので、末の弟はここぞとばかりに言っているのだった。 出かけた時にピンクに染めなおした髪を様々な色にした挙句、またピンクにしたのは良いものの、ここのところ頻繁に色を変えていたので、随分髪が痛んでいた。これは、1度ゆっくり、天才美容師のジョンにでもトリートメントしてもらおうかな、とエセルは思う。 ピンクの中にグリーンやらイエローやら混じった髪を見た途端、彼は嘆きまくるだろうが、確実に髪の潤いを取り戻してくれるはずだ。 「おまけに、本当にともだちなんだな、とか言うんだ。もう」 「そういう勘だけは良いからねー。ユーク、気を付けなね。イヴァンくんとのこと、バレた日にはとっても大騒動だよ」 指先から髪の房を放して、エセルは電話の前でにっこり微笑む。これが映像の送信機能も持ち合わせた電話機なら、とても見事な笑顔が相手に見えたことだろう。 話題となっているお互いの兄、ジョセフは、末の弟のことに関してはとても鋭い。というか、かなり執着している。いつかの晩、空中でランデブーしたものの、自分を置いて海外へと「友人」と、行ってしまったことが余程、悔しかったようだった。とうとう誘拐まがいのやり方で、末の弟との旅行を実行してしまったのだというのだから、それはもうちょっと、かなり凄い。 エセルはやたら太い電話のコードを引っ張ったり、揺らしたりしながら、激怒はしているものの、ジョセフのことを嫌ったり邪険にするわけでない弟の文句を聞いてやる。一族が丹精込めて育てた末の弟は、器がかなり、大きい。ひとしきり文句は言うだろうが、ジョセフ程度のことならたぶん、溜め息1つで済ませてしまえた。 この寛大さに、すくわれてるよなあ、とエセルは思う。 経営手腕はピカイチ。 あの歳で巨大なルグリの企業を平然と抱え、動かして。 容姿も端麗。運動神経も良。 母親譲りの甘めの顔に、精悍な目許。幾分、堅物を思わせる口元と、育ちの良さを感じさせる明るい金色の髪はエリート然とはしているものの、凛々しいといえば、凛々しく。スポーツその他も、何でもそつなくこなす万能ぶりで。 彼は小さな子どもの時から、ルグリを継ぐに相応しい能力と華やかさを持ち続けてきた男だった。 だが、同時に。末の弟のことに対してだけは、公私混同どころか、職権乱用。情けない声、憐れな姿で縋りつくことさえ厭わない。そんな溺愛を受けている当人がバッサリと過剰の分を切り捨てていくから、嫌われずに済んでいるだけで、そうでなければとうにお払い箱扱いになっているに違いない男である。 今頃、ほくほくの顔で仕事をしてるんだろうなあ、あの人は。 「大変だったね、ユーク」 「とってもね。エセル兄さんがいてくれたら、ジョセフ兄さんのストッパーになれたのに…ええっと、ミランダ、だっけ?」 「ミランダ?」 誰だったかなそれは。 にこにこ笑みながら首を傾げたのが伝わってしまったらしい。ユークが怪訝な声を出す。 「…え、だってミランダっていう人に会いたくなった、って出ていったって聞いたけど…あれ?メアリーだっけ、でなくて、アンリ?」 ユークの言葉にふわりと記憶が甦る。 メアリーの腕の中は心地よかった。 アンリの料理も相変わらず絶品で。 最後に出してくれたクレープ・シュゼット。 湯気と一緒に口の中が蕩けそうなほどおいしかった。 …そうそうそうそう。 エセルはようやく思いだした。 帰ってきたばかりだったが、不意にミランダの勇ましい舞踏が見たくなり、再び家を出たのである。 「そういえば、ミランダに会いたかったんだよね、うんそう」 「……そういえばって、…」 非難めいたユークの声を他所に、エセルはミランダの舞踏を思い出していた。 炎が散るような。 水が砕けるような。 勇ましいミランダのダンス。 それはやっぱりとても素晴らしかった。 見たいと思ったそのすぐ後に見られたのは、何と言う運の良さだったろう。 けれども…。 今回こそそれで帰ろうと思っていたはずなんだけど…あれ? どうしてこんなところに居るんだろう、おれ? ミランダと会った後に…、ええと、偶然、ケージに会って、素晴らしいこともあるもんだ、祝おう、ってことで酒宴をしたのが…まずかった、ような。ああ、そうだ。 酔っ払って気付いたら、あろうことかマシューの隣だったんだ。 マシューはちょっぴり紙一重気味な医者なものだから、すぐに切りたいとか舐めたいとか何とか…仕方ないからちょっとスコッチを使って遊んで。 遊び疲れたし、それ以上は付き合えなかったから、路地にもぐりこんで、ひたすら寝て。 ちょっとすごいことがあったんだよね。 鼠の大群と会っちゃって、眠れないしうるさいし。 それでやけにハイになって。 それから、ナントカカントカ会とかいう、やたら堅苦しい会にも出た出た。理事だとか会長だとか言われて。あの時は髪を地毛の金に戻してたから…、もしかして家関連だっだのかな?ん? もっとヤバいことなような気もするけど…まあいいか。 ええと、それから…。 それで何となくカブキが見たくなったから、日本に行ったんだ。宗次とか、タケオ、とかと会った気がする。微妙に盛りあがって、万里の長城を歩こう、とかいうことになって、中国に行って。 小紅と一緒に夜明けを眺めたな。 滔々と流れる江流の流れを見て。 「明蘭のキムチ、美味しかった。お土産に貰えば良かったね。あれは日保ちするのに」 「……韓国にも行ったの?」 「行った行った。もしかすれば、同じ時に同じ場所にいたのかも」 「…………」 コサックダンスも見たよ、というのは言わない方が良いかな、と、思う。モスクワでバレエとサーカスも見た。 ミラーボールの光。 紙吹雪と歓声。 ピエロのキス。 あの時、一緒にいたのは誰だったかな…。 あの人はこういうの、だめなんだろうな、とは思ったけど。 ユークの向こうで、かたん、かたん、とお湯が震えるような音が耳に届く。 紅茶をたてる音だ、と思ったそこで、エセルは記憶の渦から我に返った。 それを察したように、ユークのやわらかな声が響く。 「兄さん、伊藤さんとは、どうしたの」 「伊藤?…ああ、会ったよ、一応」 厳めしい顔を思い出して、つい自分の顔も厳めしくしてしまう。 腐れ縁のあの男は、やはりどうあっても腐れ縁で、会いたくなくても会ってしまうらしい。 気配を思い出したその次には出会うから、究極だ。 伊藤は元々、ユークの知り合いだった。 「日本に行ったからね、ユークのおばあ様にお茶をたてていだいた。おいしかったよ。抹茶はいいね」 清月庵のお茶菓子は絶品だった。 ユークの母親の実家は、いつもこっそり、大歓迎してくれる。 ついでにあの子は達者ですか、と、孫の情報を集めることも忘れないけれど。 その孫たる末の弟は、電話口で小さな溜め息を吐いた。 「お茶は好きだよ、僕も。…ねえ兄さん。伊藤さんが本命ではないの?」 「本命?…まあ、あれとは1番、長いかな」 「好きだって言ってた」 「それは、むかしのこと。おれはね、1人だけには決められないんだよ」 「…………」 何か言いたそうに口を噤んだものの、恋に初々しい弟には、こちらの心の内は複雑過ぎるのだろう。1度黙ってしまうともう、何も言えなくなってしまうようだった。 やさしいユーク。 美しく愛らしい、その姿はいつもきれいで。 ほんの少し色の薄い薄墨色の目と、艶やかで指通りの良い黒髪。 一族の中で唯一日本の血を持つ弟の姿は、いつ見ても黒曜石のような深い輝きを放っている。 あの人が溺愛して止まない末の弟のその清んだ目は、きっといつまでも恋人のもと、保ち続けられるだろう。 「そのうちに帰るよ。これでも帰る家は、1つきりだからね」 「…うん、…」 少し消沈した感じではあるものの、分かった、と頷くその声は、こちらを信用をする声だ。芯のある声は、聞いていて心地いい。ユークは雰囲気を変えるように、明るい口調で話題を変えた。 「ところで兄さん。今はどこにいるの?この電話、随分雑音が多いけど」 「あ、多い?遠いからねー」 黄色い砂塵に目を瞑りながら、エセルは迷い込みそうなほど広く青く晴れ渡った空を見上げた。 乾いた風に、五色の旗。 上へ上へと続く寺院。 「遠いってどこ」 「チベット。タルチョーが見たくなって」 「…放浪癖持ちにはぴったり。帰ったら、また色んな話聞かせてくれる?」 「勿論。じゃあね、また電話するから」 「うん」 そろそろ会社に行く準備をしなくちゃ、と呟く弟に微笑みながら頷いて、電話を切る。 お昼はパチェと一緒に食べようかな。 おいしい干し肉も手に入ったし。 赤銅色に焼けた元気いっぱいの顔を思い出して、エセルは1人そう納得すると、軽い足取りで歩み出した。 エセルの放浪と愛と恋の遍歴は、まだまだ続きそうだった。 終わり
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