赤い風景



「おいで」
 そう言って、彼女はにこやかに手招きした。
 ほたるは何の疑問も抱かずに走り寄り、彼女の膝の上にちょこんと座る。
 彼女は長く伸ばしたほたるの髪を一房手に取ると、慣れた手つきでそれを編み始めた。
 ほたるは大人しく、彼女の作業が終わるのを待つ。
 これから地平線に沈んでいこうとする、ほのかに赤く色づいた太陽の光が、狭い畳敷きの部屋に入り込む。
 窓の外では、それよりもずっと濃い赤色のトンボが、数え切れぬほどたくさん辺りを飛び交っていた。
「さぁ、できた。お外に行こうね」
「ん」
 左右に一つずつ、二つの三つ編みをつくり終えた彼女は、満足そうに笑ってほたるの手を取った。
 ほたるはやはり逆らうことなく、彼女に手を引かれるままに外に出る。すると赤色の日 差しが幼い身体に照りつけたが、彼女がさっと身体をずらして影をつくってくれたため、 さほど眩しい思いをせずにすんだ。
 ほたるの手を引く彼女の足取りに、迷いはない。
 下草を踏みながら、どんどん道なき道を進んでいく。
「ねぇ」
「なぁに?」
「どこいくの?」
「内緒」
 言葉少なに尋ねてみても、言葉少なに解をはぐらかせただけだった。
 特に理由を知りたいとも思わなかったので、ほたるはそれ以上の言及はしなかった。
 彼らはそれっきり黙りこみ、歩を進める。
「ああ、間に合った」
 やがて、丘のように小高くなった場所に到着すると、彼女はほっと息をついてほたるを抱き上げた。
 赤い光が、ほたるの金の瞳に突き刺さる。
 思わず彼女の胸に顔を埋めると、「見てごらんなさい」とやさしく声をかけられた。
 恐る恐る、まぶたを開く。
「―――――…………」
 赤い風景が、ほたるの視界いっぱいに広がっていた。
 草も木も、空も土も、世界のすべてが赤い色に染まっていた。
「ここはねぇ。お母さんが一番好きなところなの」
 景色に見入るほたるに、彼女は穏やかに話しかける。
「今日はあなたのお誕生日だからね。どうしても見せてあげたかったの」
「おたんじょうび?」
「あなたが生まれた日のことよ」
 振り返ると、赤色が溶け込んだ彼女の金の髪が眼に入った。
 自分とそっくりの、絹のような手触りの髪を小さな手で掴む。
「いいこと?」
「そうね。いいことね」
 彼女はふっと顔をほころばせた。
「だって、今日はあなたが私のところにやってきてくれた日だもの。ありがとう、って言いたいじゃない」
「ありがとう?」
 ほたるは首を傾げる。
 彼女の言葉の意味が、よく、わからない。
 「ありがとう」とは、誰かにお礼するときに言う言葉だ。
 だのにどうして彼女は、今ほたるに「ありがとう」と言うのだろう?
 お礼されるようなことを、自分は彼女にしただろうか?
 彼女は笑顔のまま頷いた。
「そう。ありがとう。あなたがやってきてくれて、私は本当にうれしい。こんな風に、お母さんが好きな景色を見せてあげること以外、何もしてあげられないけどね」
 しかしこのとき、彼女の笑顔が少しだけ曇った。
 ほたるは、ぎゅっと彼女の胸にしがみついた。
 何故か、そうしたくなったのだ。
「どうしたの?」
 戸惑うような彼女の声が、聞こえる。
 やわらかい声。やわらかい香り。
 あたたかい、人――――――――。
「……ありがとう。私のかわいい坊や」
「……」
 小さな親子の姿は赤い景色の中に溶けて、いつしか闇に消えた。



「また寝てやがんのかよ。クソガキがっ!!」
 いい天気だなぁ、とぼんやり外を眺めていたら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 背中に容赦ない蹴りを入れられたほたるは、「わ!」と間抜けな声をあげてごろごろと畳の上を転がった。
「むー……朝?」
「の、逆だ。もうじき日が暮れんだよ。ったく、こんなときにまで寝ていやがるとはな……」
 ぶつぶつと、遊庵が呟く。
 ほたるはのろのろと上体を起こし、眼をこすった。
 次いであくびをしようと口に手を持っていったところで、その手首を遊庵に引っ掴まれる。
「さっさと来い。時間がねぇんだよ」
「え?」
 そのまま引きずられそうになり、ほたるは慌ててきちんと自分の足で立った。
 わけもわからぬまま、外に連れ出される。
 ほたるの手を引いて歩く遊庵の足取りに、迷いはなかった。
「どこいくの?」
「内緒だ」
(……あれ?)
 思わず尋ねたとき、ふと何かがほたるの胸を掠めた。
 昔、こんな会話を、誰かとしなかっただろうか?
 下草を踏みしめて、歩く。
 手を引かれて。
 周囲を、赤いトンボが飛び交う。
「……」
 ほたるは黙りこむ。遊庵も、余計なことは一切言わずに歩を進める。
 ……この道、景色。
 知っているような気がするのは、何故だろう?
「あー、間に合ったぜ」
 やがて、丘のように小高くなった場所に到着すると、遊庵はほっと息をついた。
 赤い光が、ほたるの瞳に突き刺さる。
「あ……」
 目の前に広がった景色を見た瞬間、ほたるはやっと思い出した。
 草も木も、空も土も、すべてが夕暮れの赤い光に染められた景色。
 それを一望できる、この場所。
 そうだ。ここは。
 遠い日、まだほたるが守られて生きていたとき、母が連れてきてくれた。
 彼女が、一番好きな場所だと教えてくれた……
「気に入ったか?」
 景色に見入っているほたるの様子を勘違いしたのか、遊庵はにやりと笑ってほたるの頭をくしゃくしゃに掻き回した。
「ここはオレが一番気に入ってる場所なんだよ」
「……」
 奇しくも、彼女と同じことを、遊庵は言った。
 偶然?
 それにしては、できすぎている。
「お前、今日誕生日だろうが。別にわざわざ祝うようなもんでもないけどな。オレも普段、師匠らしいことは何一つしてねぇわけだし、きれいな景色見せてやるくらいはしてやろうかと思ったんだよ。……なのに、部屋行ったら寝てやがるしよ……」
 この師が何事か謀ったのかとほたるは思ったが、頭をかいてぼやく遊庵の姿からは、そ の言葉以上の意図は感じ取れなかった。
 本当に、何も知らないでほたるをここへ連れてきたのだろうか?
 わからない。
「……」
 ほたるは赤い風景を見ながら、母のことを思い出そうとした。
 母の顔は、正直もうほとんど覚えていない。
 ただ、よく泣き、それ以上によく笑う人だったような気がする。
 好いた男に捨てられた哀しみに涙しながら、幼いほたるの前では、いつも精一杯笑っていた。
 この赤い景色が好きだと言って笑って。
 己を苦境に叩き落したほたるという存在に、「ありがとう」と言って笑って。
 ……それは、陽炎のように、蜉蝣のように、儚い思い出。
 ほたるは景色から目を離すと、繋いだ手を少しだけ強く握り返して、遊庵を見上げた。
「……ねぇ」
「あん?」
「ありがと」
「………」
 奇妙に歪んだ師の顔はなかなか印象的で、ほたるの記憶の中に深く刻み込まれた。
 赤い風景と共に。



−END−


 執筆日:’04年8月15日





 恐れ多くも、ほたる誕生日企画に参加させていただいたブツです。
 13日当日にネタが降りてきて、慌てて書いたんですよね…
 お母様は少女漫画なんです……ああいや、少女のような人なんです。
 ただのイメージ。
 別の話で出すときは、また違ったキャラにするかもしれないし(そういう奴だ)
 ま、あまり勝手に創ってしまうのは嫌だから、出さないように努力しますけど;
 ここだけの話、お誕生日を祝う習慣があったかどうかは疑問なので、色々濁してます。
 他にも、ほたるの名前とかお母様の呼び方とか家の構造とか位置とか、色々と。
 だってわかんないんだもん(開き直るな!)
 しかも勝手に旧暦に直して、秋だし。
 ……ところで、壬生に赤トンボっている?(知らないのかよ)




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