「ただいま」と大らかな笑顔と共に帰ってくるその姿は、いつも大きくて、揺るぎがない。
 背負わされているものの重さを感じさせず、むしろ軽やかな印象さえある。
 けれどそれは、本心を隠していることと同義であり。
 誰にも、家族にさえも見せようとしない、あの人の素顔。
 それを知ることができる人間は、いったいこの世のどこにいるというのだろう……?



 交換条件



「ただいまー……」
「おー、おかえり」
「あれ?アニキ!?」
 一家の者たちが主に行っている近衛隊士としての仕事、領土の見回りを終えて帰宅した庵曽新を迎えたのは、居るはずがないと思っていたすぐ上の兄だった。
「仕事じゃなかったのかよ?」
「終わったから帰ってきたんだろうが。オレは有能だからな。あんなちんけな任務、すぐに片付けられんだ」
「……自分で有能とか言ってんじゃねーよ…それよか、姉貴たちは?」
 兄の言い草に額を押さえて呻き、庵曽新は先ほどから感じていた疑問を口にした。
 いないと思っていた人間が居るのは別に構わないのだが、その代わりのように他の兄弟たち姿が全く見えないのは、さすがに不可解だ。
 家屋の収容能力を超える人数を抱え、いつも狭苦しいと感じていた部屋が、やけに広々としているように見えた。
「ああ、ちっとヤボ用頼んだんだ。そろそろ戻ってくるとは思うんだが……」
 庵曽新の疑問に、遊庵は口をモゴモゴとさせながら答えた。
 言葉が少し不明瞭で聞き取りにくいのは、物を食べながら話しているからだ。
 「行儀が悪い」なんてことは言わない。それは姉たちの役割だ。
 鼻につんとくる強烈な匂い。
 その正体は、兄が手にしている袋にでかでかと書かれた「激辛せんべい」の文字を見るまでもなく明らかである。
「へぇ……って、んじゃ次の領土の警備、誰がやんだよ!?」
 庵曽新は、一度はその答えに満足して頷いたが、ふと重要なことに気づいて思わず声を荒げた。
 しかしそれを聞いた遊庵が、呆れたようにわざと大袈裟に肩を落とす。
「お前、あんだけ勉強してたわりには、意外と頭わりいよな」
「なっ……!?」
 いきり立つ庵曽新に、遊庵は冷静に指摘した。
「オレが家に居るんだから、警備なんかいらねえだろうが」
「あ……」
 指摘を受けて、庵曽新の頭に上った血液が一気に下降する。
 この一家では多少事情が異なっているが、そもそも近衛隊士とは、太四老を守るために存在しているものなのだ。
 その「守るべき対象」が目の前にいるというのに、わざわざ傍を離れるようなことをするのは、愚の極みである。
 おまけにこの兄は、心眼ではるか遠くの光景を視ることができるのだ。
 領土内で何かあったとしても、いの一番にこの人が感知する。
「あ〜。クソ!」
 庵曽新はバツが悪そうに頭をかいて、兄の隣に腰を下ろした。
 畳の上で胡坐をかき、足を台にして頬杖をついて、せんべいを食べ続ける兄を見上げる。
 しばらくそうしていると、何を勘違いしたのか、兄はせんべいを一枚取って庵曽新に差し出した。
「なんだ?お前も食うか?ほれ」
「……い、いらね」
 差し出されたせんべいを、庵曽新は慌てて押し戻した。
 兄の辛いもの好きは、はっきり言って半端じゃない。
 こんなものを食べたら、十中八九味覚が破壊される。
「……」
 家の中は、静かだ。
 日ごろの喧騒が嘘のよう。
 兄がせんべいを咀嚼する音のみが聞こえる。
「アニキ、あのさ……」
 物寂しい室内の空気に誘われて、庵曽新はポツリと兄を呼んだ。
「ん?」
 口いっぱいにせんべいを頬張った兄が振り返る。
 緊張感の欠片もない顔。
 悲壮感も何もない顔。
 焦りや怒りや哀しさや、背負っているものの苦労も苦痛も何も感じさせない顔。
 何でそんな顔をする。
 何でそんな顔ができる。
 あんたはいつもそうやって、傷ついたことなどないのだと言わんばかりの顔をする。
 それが真実ではないはずなのに――――――。
「…………いや、なんでもねえ。オレ、部屋に戻るわ。姉貴たちが帰ってきたら、教えてくれ」
「お?おお」
 喉元までで出かかっていた次の言葉を寸前で飲み込み、庵曽新はバタバタとあわただしい足取りで自室に引き上げた。




 自分の部屋に駆け戻り、ぴしゃりと戸を閉め切ったところで、庵曽新は深々と息を吐いた。
 鼓動が早い。
 早い血流に、心臓ばかりでなくこめかみまでもがドクドクと熱く脈打っている。
「……やべえな」
 閉め切った戸にもたれかかり、そのままズルズルと座り込んだ。
 薄汚れた天井をぼやりと眺め、もう一度大きく息を吐く。
(なにやってんだよオレは)
 じんわりと押し寄せてきたのは、後悔の念。
 何も言わない、見せようとしないあの兄に、
「辛くないのか?」
 そう、言いかけた。言いかけてしまった。
 言ってはいけないことなのに。
 ただ守られているだけの自分に、そんな言葉を口にする資格などないはずなのに。
 目を閉じる。
 闇が視界を覆う。
 世界から色が消えていく。
『庵曽新が太四老になったら、オレが殺すよ?』
 すると不意に、懐かしい声が聞こえた。
 はっと目を開いて声の主を探したが、そんな人物はどこにもいない。
 だが、窓際に目を向けたとき、庵曽新は昔いつもそこに居座っていた奴の存在を、唐突に思い出した。
 金の髪を束ねた、二つのお下げ。何者も寄せつけない、野良猫のような瞳。
 だらしなく両足を投げ出し、片腕を窓の桟に乗せて、いつもどこか遠くを見つめていた。
 あれはまだ……確か庵曽新が、太四老を目指して日々努力を重ねていた頃のことだ。
 絶対に太四老になってやるのだと息巻いていた庵曽新に、螢惑が冷ややかに言い放ったのだ。
『言ったでしょ?王も太四老も五曜星も、オレが全員ぶっ殺す、って』
 とても正気の沙汰とは思えなかったが、庵曽新は彼の本気を知っていた。
 こうして口に出して言っている以上、彼は機会さえあれば本当にそうするつもりなのだろうと。
 だから、半ば冗談で、半ば一抹の不安を押し殺して、ならば遊庵も殺すのか?と聞いてみた。
『ゆんゆん?』
 螢惑は、一瞬怪訝な顔をした。
 けれど、その次の瞬間、不敵に笑って、
『当たり前でしょ。あの人も殺す。みんな殺す』
 きっぱりと、言い切った。
 庵曽新の“家族”を、殺すのだと。
 “家族”として接している彼が。
 そんなことは許さない。自分の家族に手を出したら、承知しない。
 そう反論すると、螢惑は、実に楽しそうにこう言った。
『じゃあその時は、ゆんゆんの前に庵曽新がオレと死合うんだね』
『――――――…………』
 絶句した。
 …その螢惑は、数年前にこの家を出でいってしまって、今はようとして行方が知れない。
 外の世界に行ったのだと聞く。
 いつか帰ってきて欲しいと思っているが、いつ帰ってくるのか、本当に帰ってきてくれるのか、それは誰にもわからない。
 けれど、もしまたもう一度、あの火の守護星の名を持つ男に会える日が来るのなら。
 自分たちでは果たせない、願いを。
 この壬生の奥深くに閉じ込められ、身動きの取れない家族たちが、どれほど願っても叶えられない夢を。
 あいつに望むことは、罪なのであろうか?
(ケイコク…アニキ……)
 庵曽新は、祈るような心地で思う。
 どうか、あの、重圧に押しつぶされまいと、しゃんと背筋を伸ばして歩いている大きな背中が。
 いつか、救われる日がくることを。
 ――――願わせて………



 −END−


 執筆日:‘05年2月21日




 人様に差し上げたものの、再利用です。
 遊ソニ。の、つもりだと思われる。
 使えそうだから上げよう…と思って眺めていたら、お題に沿っていると言えなくもない内容だったので。
 本来のお題に使う予定のネタが当時から没って没って没(以下略)を繰り返して今に至っているため、 とりあえずこれでお題達成ということにさせていただこうと思います。
 本来のお題ネタは、何か間違って出来上がる時がありましたら、こちらと差し替える形にしようかと。
 …でもそもそもさぁ。「交換条件」って、すでに普通のSSで使っちゃっていたから、ネタ出しの時点ですごく困っt(やかましい)
 色々なことに負けた感がいっぱいの更新でございますが、ご容赦を。(2011年6月)




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