子猫のいる生活



 今にも崩れ落ちてしまいそうなボロ小屋の戸を、遊庵は叩く。
 初めは指の第二関節で軽く。次に握りこぶしで強く。
「おーい、ケイコーク。生きてっかー?」
 応えはない。とても扉とは呼べない腐りかけた木板の奥からは、何の気配も感じられず、ただ静寂のみが返ってくる。
「オレだオレ。いるなら返事ぐれえしやが……」
 しかし遊庵は、ふと戸を叩く手を弱めた。
 ふわりと戸の奥から漂ってきた、胸が悪くなる臭い。
(これは……)
「おーい、死んじまったかー?」
 さすがに不審に思い、遊庵は家屋にかろうじて引っかかっているだけの木戸を押し開けた。
 その刹那。
 暗闇の隙間から、明らかに遊庵を狙う意図を持って突き出された、白い刃。
「!?」
 虚を衝かれたのはほんの一時。それも恐ろしく短い。
 直ちに事態を察し、遊庵は内心ため息をついた。
「だから……っ!」
 片足を上げ、履いた草履の裏で刃を受け止める。
「誰彼構わず襲うんじゃねぇって……」
 くるりと足首を捻り、刃を上へと蹴り上げる。
 これで相手は丸腰。
「言ってんだろうがクソガキャアっ!!」
 仕上げに怒りに任せた鋭い蹴りを、襲撃者の小さな身体に叩き込んだ。
 転がる丸っこい身体。
 転がって転がって、小屋の真ん中あたりで止まる。
「お前な、相手の力量を見極めることもできねーのかよ。そんなんじゃすぐ死んじまうぜ?」
「う〜……」
 すぐに起き上がった子供は、目じりにうっすらと涙をにじませて、低く呻いた。
 小さな鼻を、これまた小さな手で押さえている。
 蹴り飛ばしたときにでもぶつけたか。
 天井ギリギリの所で弧を描き、まっすぐ刃先から落ちてきた刀を片手で器用に受け止め、遊庵は苦笑した。
「思ったよか元気そうだな」
 受け止めた刀を、傍らに放り投げてやる。すると子供は、わき目も振らず刀に飛びついた。
 両手で柄を固く握りしめ、自分の身長よりもずっと長い刀身を持ち上げる。
 遊庵を睨み付ける眼光の鋭さは、まさしく闘う戦士のそれ。
 遊庵がこの物置小屋を子供に貸し与えてから、すでに一ヶ月ほどの月日が経っていたが、まるで気を許してくれる様子がない。
 剥き出しの敵意。
 誰も信じない。誰も求めない。
 そんな眼を、している。
 ……
「しっかし何だぁ?この臭い」
 子供の鋭い視線をあえて無視し、遊庵はぼやきながら小屋の中に足を踏み入れた。
 ……と、その途端、先ほどから遊庵の嗅覚を著しく刺激していた異臭が、ことさら強くなった。
 思わず顔をしかめる。
 発生源は、間違いなくこの小屋の中だ。
 知らない臭いではないから、おおよその見当はついている。
 しかし、それにしてもこれは……
「……げぇっ!」
 薄闇の中、子供の後ろに存在していたその光景に、遊庵は鼻の頭に皺を寄せた。
 どうりで嫌な臭いがするわけだ。
 子供の後ろにあったもの。
 それは、無造作に積み上げられた、人間の死体だった。
 しかも、真新しいものではない。殺されてから何日経っているのか、皮膚が所々腐敗して、中の屍肉を晒している。
「でけえ生ゴミためやがって……」
 その胸中をかすめたのは、驚愕か、呆れか、それとも感嘆か。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……それ以上は面倒だ。
 どの死体も、一刀で急所をつかれるか、体を真っ二つに切断されるかして絶命している。
 見事なものだ。
 こうもきれいに殺せるとは。
 死体の身なりは、さほど良いものではない。
 野党まがいの下級眷族でも迷い込んだか。
 いくら滅多に人が寄り付かない場所とはいっても、バカの一匹二匹が通りかかることくらいはあるだろう。
「あーあー。きったねーな」
 折り重なった死体の山を見下ろし、遊庵は嘆息した。
 小屋を満たす死臭と腐臭、黒い血の跡、腐敗した肉。
 どう考えても、住みよい生活環境の中にあってよいものではない。
 確かに、この物置小屋は好きに使ってよいと言ったのは遊庵だが……限度というものがあるだろう。
「おい、掃除しろよ」
「……」
「聞いてんのか?掃除しろ」
「……」
「おい!」
「……」
「っだー!聞けっつってんだろーが!!」
「……」
 何を言っても無反応な子供の襟首を、遊庵はむんずと掴み上げた。
 そっぽを向こうとする金色の頭を強引に捻って自分と向き合わせ、超至近距離からがなりたてる。
「いいか!?部屋は汚したら片付けんだよ!!わかったか!!」
「……」
 子供はそれでも、何も言わない。挑むような眼で遊庵を見据えている。
 ぷちりと何かがはじけ跳んだ遊庵は、もう一度怒鳴ろうと大きく息を吸い込み…はたと気がついた。
 吊し上げた子供の懐に顔を近づけ、犬のようにクンクンと鼻を鳴らす。
「お前、何日身体洗ってねえ……?」
「……」
 子供はやはり、何も答えなかった。だが、もはや疑いようがない。
 遊庵はパッと手を離して子供を一旦解放し、小屋の出口を指差してこう命令した。
「掃除は後だ。川行って洗ってこい」
「……みず、や」
 しかし、それまで何を言っても無反応で、まともな人の言葉すら口にしようとしなかった子供が、突然はっきりとした拒絶の意を示しだした。
 珍しいことだと思ったが、遊庵もここで素直に「さいですか」と引き下がってやるわけにはいかない。
「『や』じゃねえ!洗ってこい!!」
「やー!」
 嫌がって暴れる子供を、無理やり小屋の外に放り出した。
 もっとも、放り出すだけでは不十分だと分かっていたので、逃げられないようにしっかり抱きかかえた上で、近くの川まで強制連行する。
 川に連れて行く間も、子供は暴れに暴れた。
 遊庵でなかったら、滅茶苦茶に振り回す刀に致命的なダメージを負わされるか、あるいは焼き殺されるかしていたと思うほど強烈に。
「いやー!やーっ!!」
「……お前な、何をそんなに嫌がってんだよ?」
 子供がここまで嫌がる理由を知らない遊庵は、激しすぎる抵抗に辟易しながらぼやいた。
 これ以上手間をかけさせられるのはごめんだとばかりに、衣服を身に着けたままでもいいから川に放り込んでしまおうと、子供を抱いた腕を振り上げる。
 だが、投げ込む寸前にふと思いついて、遊庵は振り上げた腕を元の位置に戻した。
 子供を川原に下ろすと、自身は近くにあった大石にどっかりと腰を下ろして膝を叩く。
「よし。じゃあこうしようぜ」
「!?」
「どんな手を使ってもいい。オレをここから一歩でも動かせることができたら、勘弁してやる」
「……」
 子供は、探るような目つきで遊庵の提案を聞いていた。
「ウソは言わねーよ。信用するしないは、お前の自由だがな」
 にやりと笑って、腕を組む。
 子供は動かなかった。けれどその瞳の奥に、不屈の闘志が宿る。
「どーするんだ?おい」
「……」
 握りしめた刀の切っ先を、子供は不意に遊庵に向けた。
 そのまま、ものすごい勢いで突進してくる。
 遊庵は慌てず騒がず、子供の鼻面めがけて足を突き出した。
「そらよっと」
 盛大な水音が、梢を揺らした。



「遊庵、楽しそうですね」
「あ?」
 陰陽殿の廊下でひしぎと雑談を交わしていると、唐突にこんなことを言われた。
「あんだよ急に」
「いえ……そのように見えたものですから。何か面白いことでもあるんですか?」
「あー……」
 返答に困って、後ろ頭をかく。
 しかし、「そう隠すことでもないか」と思い直し、遊庵は何気ない口調で暴露した。
「実は最近、子猫を飼い始めてな」
「子猫……ですか。あなたが?」
 意外そうに、ひしぎが目を見張る。
「ああ」
 頷きながら思い浮かべた子猫の魂は、全てを拒絶する寂しい色をしていた。
 アレは、大勢居る弟妹たちとは、また違う生き物だ。
 孤独で、不器用で、それ故に不安定で美しい。
 儚く脆い、憎しみしか知らない小さな魂。
 あんな哀しい色をした魂を、遊庵は他に知らない。
 だからこそ、引き寄せられた。
 惹き寄せられた。
「結構、楽しいもんだな」
 光も影も捉えたことのない盲目の瞳の奥で、小さな星が瞬いたような気がした。




 −END−


 執筆日:‘05年2月28日




 246話が出た直後から書き始めたのに、どうしてこの程度の分量にこんなに時間がかかっているんだという話。

 師匠は子猫を蹴飛ばして虐めて遊んでいるといいです。
 修行なんだか愛情表現なんだかわからない妙なスキンシップしてるといいです。
 ときたま子猫に噛み付かれて裏でシクシク泣いているといいです(なんですと?)
 というか師匠、お掃除の前に水浴びさせても意味ありません。
 バカですかあんた?(をい)
 どうせ「また汚されたらたまんねー」とか言いながら、結局お掃除してあげたんです。
 お母さんです。師匠。




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