獣は、己が傷ついた姿が他者の目に晒されることを、ことのほか嫌う。
野生のものは特にその傾向が顕著で、彼らは他者の目が届かない場所に潜み、じっと傷が癒える時を待ち続けるのだ。
息を殺し、気配を殺し。
何者にも悟られぬよう、細心の注意を払って眠りにつく。
交換条件
『アレ』が、ふらりと出で行ったまま何日も帰ってこなくなるなんてことは、わりとよくあることだ。
こちらとて、暇とは言い難い身。
大抵は、『アレ』の消息など気に留めることもなく、気が済むまで放っておく。
どうせこの心の眼を使えば、居場所などすぐに特定できるのだ。そうむやみやたらに『家』に縛り付けることはない。
何よりも、『アレ』が干渉を嫌っていることを、遊庵はよく知っていた。
他者との不必要な接触は、『アレ』に嫌悪しかもたらさない。
……ただ例外として、預かったものを『保存』するために必要な行為だと判断したときばかりは、問答無用で干渉するようにしているだけである。
「おーおー。生きてやがる」
壬生の中心部から大きく外れた、樹海との境目のような森林の中でそれを見つけた遊庵は、感嘆の声をあげた。
木の洞(うろ)の中に隠れるようにうずくまっているそれを見下ろし、面白そうに喉の奥で笑う。
薄暗い森の中でもほのかに光り輝いている金の頭は、動かない。
死んでしまっているのかと錯覚してしまうほど、生気が薄くなっている。
だが、半開きになった唇に耳を近づければ、かすかな呼吸音が聞き取れ、首筋に手をやれば、
弱々しくも脈打っている様子を確認することができた。
「はっ!獣じゃあるまいに」
発育の悪い身体を抱き上げると、緋い雫が流れ落ちた。
抵抗はない。そもそも意識がない。
だらりとぶら下がった左腕は、奇妙な形に歪んでいる。
それまで彼がいた洞の中には、ほぼ人型をした黒い染みが残っていた。
「……いや、獣か」
思い直し、突出した木の根の上を移動する。不安定な足場などものともしない。
「さて、しばらくは子守に専念してやるとするか」
腕の中に収まった身体は、この年頃の子供としては異常なほど軽かった。
貧相な子供を連れて屋敷に戻り、家のものに用意させた布団に子供を寝かせて傷の治療をし終えたちょうどそのとき、
ほたるが目を覚ました。
「ああ、起きやがったか」
「……」
意識を取り戻したほたるは、しばらくの間、今自分が居る場所を確認するように視線をさまよわせていた。
やがて枕元に座す遊庵の姿を認め、不思議そうな顔をする。
「……助けたの?」
「さぁな」
ほとんど音にならなかった呟きだったが、遊庵の耳は小さな息づかいひとつさえ漏らすことなく彼の言葉を捉えていた。
(上出来)
遊庵は感心する。
どうやら、死にかけていた記憶はあるらしい。
痛みと恐怖で一時的に記憶を飛ばしている可能性もあるだろうと思っていたが、杞憂だったようだ。
状況を説明する手間が省けた。
「そう思いたけりゃあ、そういうことにしておけや」
「ふぅん」
わざとはぐらかすと、ほたるは実にだるそうな、どうでもよさそうな態度で相槌を打った。
次いで、白い包帯が巻かれた胸と手足を見やる。
「あばらが三本と、左腕がイってる。それに比べりゃあとはぜんぶかすり傷みたいなもんだが、ずいぶん失血したな。死にたくなかったら、しばらくここで寝てることだ」
「ん……」
素直に首肯すると、ほたるはその他の物事、一切の興味を失ったかのように瞼を閉じた。
いくら「寝ろ」と言われたからとはいえ、本当に今すぐ寝てしまうつもりなのか。
すがすがしいほど、即物的な行動。
血の気のない白い顔が、明るい金の髪と相まって、より一層青白く見える。
沈黙。
――――……「死にたくなかったら」。
遊庵は、今しがた己が口にした言葉を反芻した。
本当に、死にたくなかったら。真の安寧を求めるのならば。
この屋敷から、一歩も出なければいい。
こんな子供を、狂気のような執念でもって殺そうとしている実の父親の刺客も、さすがに太四老たる遊庵の屋敷内までは侵入してこない。
それが例え庭先であったとしても、一歩でも屋外に出てしまえばその安全性は失われてしまうが、屋根がある場所にいるかぎりは、彼らは決してほたるを襲おうとはしないのだ。
神に最も近しい存在への、恐れと畏れが刺客たちの追撃の手を緩めさせるのかもしれない。まずもって、神の住居を汚す勇気がある輩など、この壬生に存在するはずがないのである。
壁一枚、板一枚。
差はそれだけ。それだけの結界の中に居さえすれば、命の保障はされるのだ。
しかしこの子供は、それを知っていてなお、屋敷を飛び出す。命の危険がある外へ、むしろ積極的に出て行く。
そして気が済むまで外で生活して、無事に戻ってくるか、今回のように死にかけて遊庵に連れ戻されることになるかは、運しだい。
もっとも、死にかけて息も絶え絶えになっているところに迎えに行くのは遊庵が勝手にやっていることであって、本人は別にそのような助けなど求めていないだろう。少なくとも、助けを求める声など聞いたことはない。
どれだけ傷ついても、生き延びて逃げ延びて、敵の目の届かぬ場所でじっと回復を待つ。
手傷を負った彼が取る行動は、昔から全く変わらない。
弱っている姿を見られてはいけない。
食われるから。
動けないことを悟られてはいけない。
奪われるから。
そんな自然の摂理を、これは本能で知っている。
「……なんで」
「あ?」
長い沈黙のあと、ほたるが不意に瞼を開いた。
「なんで、いるの…?」
意味のない独白かと思ったが、どうやら自分に向けられた質問であるらしいと理解した遊庵は、「どういうことだ」と問い返す。
「どうして、あんたが側にいるの?」
「……ああ」
琥珀色の瞳が、まっすぐ遊庵を見つめていた。
こいつがこちらに関心を持つなんて、珍しいことだと、遊庵はこっそり思う。
いつもは何を言ってもどこ吹く風で、こちらの話なぞろくに聞きやしないのに。
「お前の命はオレが預かってんだよ。預かりもんを勝手に壊したらマズイだろうが」
「……」
答えてやると、ほたるは思案するように眉根を寄せた。
「貸し、ってこと?」
やがて出てきた台詞に、一瞬面食らう。
「貸し、か。そりゃいいな」
否定も肯定もせず、遊庵は口元をほころばせた。
だが、ほたるはそれを肯定と取ったらしい。
妙に得心した顔で、頷いた。
「じゃあ、あとで返さないとね」
「――――……」
遊庵は、今度こそはっきり笑った。
豪快に。声をあげて笑った。
将来のことはさておき、今のところは遊庵に世話になることしかできないこの子供が、いったい何を返してくれるというのか。
好奇心が刺激される。
「ほぉー。何をしてくれるんだ?」
「あんたを殺す」
しかし、不遜で不穏な単語を聞き、さすがに口を閉じた。
ほたるは遊庵から視線を外そうとしない。
冷めた瞳の奥に潜む、熱い炎。
「オレはいつか最強になるから。独りで強くなるから。だからオレが一番強くなったら、一番初めにあんたを殺してあげる」
「……」
孤独な強者に、助けはいらない。
孤独な強者に、救いはいらない。
孤独な強者の周りには、誰も存在しなくていい。
だから、今与えてもらった恩は、最強の力でもって返す。
それが最上の敬意。最高の恩返し。
遊庵は浅く息を吐き出した。
魂の一文字が刻まれた舌をわずかに出し、下唇を湿らす。
軽い興奮。
太四老がひとりである己を、恐れ多くも「殺す」と宣言する、この愚かさ。純粋さ。
「上等」
本当に、面白い預かりものをした。
「楽しみに待っててやるよ。いつか最強の力を手に入れたら、真っ先にオレを殺しに来い」
−END−
執筆日:‘04年8月9日
いったいいくつ設定を作るつもりなんでしょう?
……SSの数だけかな。やっぱ;
統一する気なし(をい)
あんまり時間をかけずに、勘優先で書いたもの。
しかしうちの師匠は、なかなかほたを人間扱いしてくれませんね。
これはまぁ、人間5割、獣3割、モノ2割、ってところかな。
だーかーらーどれだけイチャつかせても、こうなっちゃうわけだよ。もう(−−;
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