壬―みずのえ―



「しかし、みずのえ、とはよく言ったもんだな」
 いつものように、気まぐれに求められ、気まぐれに受け入れた男と、褥(しとね)とぬくもりを共有しながら疲労した身体を休めていたほたるは、寝物語の最中に遊庵がふと呟いた台詞の意味を掴みかねて、「何が?」と怪訝な顔をした。
 夜はとうに更け、一部の闇に生きるものたちの他は、ほとんどの生物が活動を休止する 時間。
 障子越しに入ってきた淡い月の光だけが、肌を重ねる彼らの姿を照らしている。
「あ?みずのえだ。壬(みずのえ)」
 遊庵はほたるの手を掴むと、弟子の掌に指で『壬』と書いた。
 しかしほたるは、それでも「わからない」と首を振る。
「陰陽五行だ。お前だって少しくらいは知っているだろう」
「……さぁ?」
「っとにバカ弟子だな。お前はよ」
「だってそんなの知らないもん」
 遊庵の呆れ声を、ほたるは右の耳から左の耳へと聞き流した。
「知らないで済むかよ。仮にも九曜の一員が」
 言って、遊庵は右首筋の『火』の刺青に触れてくる。
 鮮やかな朱色でほたるの白い肌を彩るその刻印は、壬生に隷属される者の証。
「木剋土だとか、木生火だとか、聞いたことねえのか?」
「ない」
「……そーかよ」
 徹底的に否定すると、遊庵はそれ以上の言及を止めてしまった。
 ほたるは内心ほっとする。
 小難しい話は、聞くのも面倒だ。眠くなる。
 壬生が持つ技術の多くが、主に道教を祖としているのは知っている。もちろん、道教か ら派生した陰陽五行の思想も、体制の中に多分に組み込まれているということも。
 ほたるが属する五曜星という組織も、五行説とは浅からぬ関係にあるのだという。
 ――――だが、それだけだ。
 ほたるは冷めた眼で暗い天井を見上げる。
 思想がどうした。知識がどうした。
 中身や由来なんて、どうでもいい。
 大切なのは、自分には火精を操る能力があり、それが自分の強さを証明する手がかりの 一つになっているという事実のみだ。
 遊庵は疲れた様子で嘆息し、もう一度ほたるの掌に『壬』と文字を書いた。
「ま、詳しいことは面倒くせえから省くけどな。そいつは『みずのえ』って読むんだよ。水の兄だ」
「水の、兄……」
 誰かを思い出させる単語だ、とほたるは思った。
 言うまでもない。
 顔を思い浮かべて、嫌な気分になる。
「甲・丙・戊・庚・壬を陽に配し、乙・丁・己・辛・癸を陰に配する。んで、兄を陽、弟を陰とし、五行の木火土金水を配す。基本だろうが。知っとけ」
「やだよ、メンド……」
 嫌な奴の顔を思い出して不愉快になったことに加え、この師匠らしからぬ師が珍しく 説教めいたことばかり言うのが鬱陶しくて、ほたるは渋面を作った。
 しかし、ふと気付いて呟く。
 「……兄が陽で、弟が陰なんだ?」
 嘲りの感情が、ほたるの胸中に飽和した。
 陰と陽。影と光。
 決して交わることのない、最も近くて最も遠い存在。
「へぇ、まんまじゃん。面白いね」
 ほたるの平坦な口調に、かすかに皮肉な響きが宿った。
 正妻と妾の子。
 あいつはいつも陽の光の下にいる。対してこちらは、いつも影の中だ。
 暗い昏い闇の中でしか生きることを許されない。
 初めから、定められていた。
 己は、影であると。
 兄は光で、自分はその光が届かない所のみに存在することができる、闇の住人。
 そんなこと、わかっていたが、難解で理解する気にもなれない太古の思想にすら肯定されてしまうと、納得を通り越していっそ滑稽だと思ってしまう。
「言うだろうと思ったぜ」
 ほたるの心の動きを察しているのか、遊庵もどこかおかしそうに喉の奥で笑っていた。
 彼らは月明かりの中で、顔に出さぬまま密やかに笑いあう。
 心の内で笑う。
「ってーか、これって壬生の『壬』だよね」
 ややあって、ほたるは宙に字を書いた。
 『みずのえ』とも読むのだというその字を、繰り返し繰り返し見えない半紙に書く。
 この文字を掌に書かれて、ほたるが真っ先に思い浮かべたのが一族の名だった。
 親しんでいるわけではないが、嫌でもよく耳にし、眼にする二文字だ。
 だいたい、『壬』の一文字を与えられてすぐに『みずのえ』と読む者など、それほど多く いるとは思えない。
 この地に住まう者なら尚更、まずは一族の名を思い起こす。
 だから『みずのえ』の意味をすぐに理解できなかったからと言って、「バカ」とけなされ る謂われもないだろう。
 そう文句を言おうと思ってほたるは口を開きかけたが、不意に遊庵の台詞の裏に隠され たもうひとつの意味を悟り、押し黙った。
 閃いた、と言ったほうが正しい。
「ああ、そっか。そうだね……」
 一人で納得して、頷く。
 壬生の『壬』は、水の別字。
 その水に属するのは、壬生を絶対なものと信じ、壬生にすべてを捧げ、壬生に己の存在 価値を見出しているあの異母兄。
 水を司る者。輝かしい光の中にいる者。
 水の兄。壬(みずのえ)。
 壬生を守護する、壬生の奴隷―――――――。
 確かに、よく言ったものだ。
 あの者を表すのに、これ以上ふさわしい言葉はあるまい。
「ふーん……」
「なんだよ」
「ゆんゆんって、変なこと思いつくんだね」
「いつまで経っても減らねえ口だな」
 男の首に腕を絡めて抱きつくと、むにっと頬を摘まれた。
 首を振って逃れ、かすめるように唇を重ねる。
 腰まで伸びてきた遊庵の手に身を委ねつつ、ほたるは「これは面白いから覚えておこう」と思った。
 みずのえ。
 壬生の虜囚を意味する名……



 −END−


 執筆日:‘04年6月13日




 とりあえず、まずはごめんなさい。
 これ、本当ならいわゆる裏ってところに置くべきです。
 でもまぁ、ただ話しているだけだしさぁ;
 というか、遊ほたがのんびりと仲良くお話しているなんて、ヤってる時くらいしかないんじゃあ……それ以前に、 こいつらその時くらいしか一緒にいないんじゃないかと。

 珍しく小難しい話。
 こういうものを書くのは、かなり抵抗があるのですが。
 だって十干十二支を眺めてたら思い浮かんじゃったんだもん;
 「兄貴は壬だなー…って、壬生の『壬』じゃん。うわ、まんまだ。こりゃ運命だ」と。
 ある程度古文を読む力がある人でないと、訳わかりません。
 最低、十干の「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の読み方くらいは知ってないと。
 こういう意味でもごめんなさい。
 普通の人は知らないよ。こんなの(−−;
 とはいえ、青藍もきちんと理解しているとは言い難いんですけどね。陰陽五行説。
 だから、多少おかしな記述があるかもしれませんが、その辺はスルーの方向で(うわぁ;)
 あ、ほたるの陰陽の捉え方は、確信犯で間違ってます。
 陽が光で陰が闇だという意味はありません。…多分ありません;
 光や闇という言葉は、どちらかというと西洋哲学のほうにあるんじゃ…?
 まぁ、壬生はカバラの知識なんかも取り入れているはずだと思いますが。

 それから、角川の地名事典(←ちゃんと引用しろよ)によると、  「壬生」という地名は元々「水生」と書いていたところを転じて「壬生」とした、ということです。
 どう考えても、「水」だから「壬」の字をあてたとしか思えねぇ……
 辰伶が壬生から逃れられないのも納得(するな)




back