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アウトサイダー
相対的に考えてみれば、きっと私はハル兄さんの方が好きなんだろうと思っている。
割合長身なのに痩せ型で、話振りは居たって優しい。私の何倍も長く生きているのに行動は時々子供みたいで、お菓子が大好き。
何より、“裸”のままだった私に正しい知識の使い道を教えてくれたのは彼だから、知識だけがずっと味方だった私がまるで親のように慕うのは当たり前なのかもしれない。
だからと言ってスネークが嫌いな訳じゃない。
スネーク―――今はスネークではなくなったけど、私はこの呼び方が大好きだから今でも使っている。私が呼ぶのを彼が嫌がったこともない―――は何をしていても様になる人だと思う。ただソファに座って新聞を広げているだけで、まるで雑誌のモデルか写真家のポートフォリオを見ている気分になる。
昔任務に行く時に見ていた背中は、ああこの背を見ていれば絶対に助かるんだろうという気を持たせるような、とても頼もしい背だった。一度抱きついてみたことがあるが、残念ながら当時の私には腕を回すことも出来なかった記憶がある。
その反面、性格はとても気さくで陽気、おまけに悪戯好きでもある。私やハル兄さんの疲労が溜まり何とも言えないピリピリしたムードになった時には、気の抜けるようなジョークや他愛もない悪戯を仕掛けてくる。何かに失敗したり昔を思い出すといつの間にか傍に居て、頭をわしわしと優しく撫でてくれたりぎゅっと抱き締めてくれたりする。
でもそんなスネークが、私は内心、少し怖いと思っていた。
数日に、あるいは数週間に一度。スネークは物凄く落ち込む。
それを鬱状態と呼ぶのだとハル兄さんが教えてくれたのは、スネークが任務に出なくなり鬱にもあまり陥らなくなった頃のことだった。
朝起こしに行っても身動きも、返事すらもしてくれない。
起きても怖いくらい、まるで能面―――“男が居ない”という意味ではないらしい―――の様な顔をして無言で私の退室を促す。
そしてそのまま一日中部屋から出ることもなく過ごすのだ。
鬱状態は何日か続き、ふと気付けば元に戻っている。
私はそれが理解できなかった。そういう心境が分からないのではなく、いつものスネークを知っているからその落差が分からなかったのだ。
だから私は、鬱のスネークに対して何度かやってはいけないことしてしまった。
酷く出来の悪いサニーサイドアップを作り、それをベッドで蹲る彼に無理やり食べさせようとしたこともある。拙い言葉を必死で連ね、延々と叱りつけたこともある。
その時に見たスネークの眼は、機械の眼だった。
無表情を通り越して無機質。
それがメタルギアやアーヴィングに取り付けられているのではないことに気付いた瞬間、私は心臓が止まりそうなほど怖くなった。
それ以来私は通常時のスネークにも一歩離れた関係になるように努力をした。
ハル兄さんとスネークに出会う前にはどんな人に対してもそうやって過ごしてきたから、そういう関係を作ることには慣れている。ただ彼らには私の恐怖がすぐに見透かせたらしく、ハル兄さんが積極的にスネークと私を一緒の場におくように仕組む様になった。
その時期だけは、少しハル兄さんが嫌いだった。
スネークの方も私に対して不味いことをしたのだと慌てていたらしく、必死に会話をしようとしたり一緒に買い出しをしに行ったりと距離を縮めようとしていた。
ただ、それでも私は頑なに彼を避けた。
初めての味方。初めての理解者。初めて隣に居てくれる人。
その変貌を目の当たりにして流せるほど、あの時の私はそこまで大人じゃなかったらしい。
結局私の防御を崩したのはハル兄さんだった。
私がアフガンの民営メディアから、戦場に居る若い頃のお母さんの写真を入手した時に彼は何気なく話しかけてきた。
「いい写真、見付かったみたいだね」
「う、うん」
「見てもいい?―――やっぱり君たちは親子だ。よく似てるし、何より美人だ」
「こ、このお母さん、凄くき、綺麗」
美人だと言われたことに少し照れてしまい、いつもより酷い吃音混じりで返答をした。
「もしも、もしもだよ。この画像が偽物だったらどうする」
「え、え?」
「もし、この画像を発見することによってある特定の場所に信号を送る機能が備わっていたら、どうする?」
「ち、ちゃんと、と、し、慎重に」
「うん。君がどれだけ優れたクラッカーかということは僕も分かってる。今まで画像を引き上げてきていることでそれは証明されてる」
ハル兄さんは私の座っている椅子の背もたれに寄り掛かる。
会話の内容についていくので精一杯な私は、背もたれが彼の体重で軋むのを咎めはしなかった。
「じゃあ、そこに辿り着くまでの情報がミスリードだったらどうする?」
「う、嘘」
「そう思うよね。あんな分かり難くて複雑で、おまけに見付かればこっちの居場所なんてすぐにバレる様な道を通る者は、みんな細心の注意を払う。そして同時に、そんなところに違和感を感じればすぐにその道は止めるものさ」
「違和感、んな、何て感じ、じなかったよ」
「それを自在にこなせる人が、或いはソフトが、或いは―――AIが、あるとしたら?」
その言葉で私はあの、とても悲しい物語を思い出した。
この話を終わらせようと、彼らは戦ってきた。
「AIだって高位になれば人間を欺きだってする。雷電の時だって奴らは至って自然に振る舞った。違和感なく君を呼び込もうとするなら意外と楽に出来るのかもしれない」
「そ、そんな、なの」
「君のお母さんに、オルガに関する情報の断片を混ぜて最終目的地に画像をセット。あとはそこまで来るだろう君を待つだけ」
「な、何でそ、そんなことをする、るのか理解で、出来ない」
「君を監視するため。優秀な人材を―――彼らが野放しにするはずがない」
全身が氷のように冷たく固まり、なのにじっとりと汗が滲んだ。
毎日のように、会いたくても会えない家族を探してネットワークを走り回っている。そして毎日何かしらの収穫物を得て私は引き揚げる。
それ自体が仕組まれているのなら。
今までそんなことを考えたこともなかった。
何故って―――彼らを、信じていたから。
もう君は拒絶しなくていいんだ。
この世界はそんなに恐ろしい所じゃない。
ゆっくりでいい、『外』に出る練習をしよう。
僕らと一緒なら、大丈夫だよ。
彼はそういって笑い、もう一人は静かに微笑んだ。
それを信じたことが―――間違いだった?
どうして信じたのだろう。
だってこの人たちは、私を―――。
脳内を駆け巡る思考は、段々と黒に染まっていく。
ああ、私の中にもこんな厭な感情があったのだなあと、そんな風にのんびりと考えた。
その色を一瞬でハル兄さんは掻き消した。
私の体に回した腕とその体温で。
椅子は私の気付かない内に180度回転していて、私と彼は正対していたのだ。
「ああもう、やっぱり僕は駄目だ。加減というものがこの年になっても理解できないし、言葉の使い方だって下手糞のまんま」
息を吐きながら彼は苦笑し、私をひょいと抱き上げた。
スネークのように力がない彼でも、そのころの私ぐらいは軽々持ち上げられた。
「ごめんサニー、今のは全部嘘だ。出鱈目なんだ」
「ハ、ハル兄さん―――?」
「君にね、ある感情について教えようと思ったんだ。とても暗くて、とても辛くて、その原因は自分自身や自分の周りにあって、解決しようにもどう頑張ったって出来ない―――そんな感情があるんだよ、人間には」
「それ、れがスネークの」
ハル兄さんの言葉を少しずつフィードバックしていく。
私の知らない感情。それがスネークの理由。
私が答えを出したことに気付いたハル兄さんは、にっこりして私の頭をゆっくりと撫でた。
「スネークはね、普通の人が見ないようなものを見過ぎてる。それは体中に残って、バグみたいに時々異常を起こすんだ。人間にはウィルス対策ソフトは入ってないからバグを除去することは出来ない」
「じゃ、じゃあスネークはず、ずっとこのままなの?」
「そんなスネークは見たくないだろ、サニー」
全力で頭を縦に振った。
怖いことは、嫌いと同じじゃないから。
「どう、どうすればいいのか、かな?」
私が呟くと、ハル兄さんは私の頭を胸に押し当てる。
「その為に、僕らはいるんだよ。僕らは」
「彼を愛せるから」
私が無言でいると、彼は慌てたように私の顔を見た。まるで、言った言葉が恥ずかしくて仕方がないかのように、顔を真っ赤にして。
それが何だか可笑しかったので私は彼の頬に鼻先を押しつけた。
「お、面白いこ、ことを言う、うね」
「そ、そうかな。僕、何か変なこと言っちゃったみたいだね」
そうじゃなくて、と私が言うと彼はきょとんとした。
「だ、だって、ハル兄さんはス、スネークのことが、す、好きでしょ」
「え?えっと―――サニー?」
「ち、違う?」
「いや違う訳じゃないけど、というか―――でも隠してる訳でもないんだし、いやいやまずその時点で間違っている訳で、そもそも―――」
ハル兄さんは目を泳がせながらぶつぶつ呟く。
私は何か変なことを言ったのか。
ハル兄さんがスネークを好きなんだろうというのは分かる。ずーっと心配しているし、誰よりも理解しているし、誰がどう見たって最高の相棒だと思う。
スネークだってハル兄さんが好きだと思う。お互いぼろぼろだった時でも相手のことを気遣うのは、好きな人じゃなきゃ出来ないから。
私がそう拙く言葉を連ねると、彼は目を丸くしてから小さな溜息をついた。
今でも、私はスネークのことが少し怖い。
優しい顔の裏には無機質な面が隠れているのを知っているから。
ソリッドの卵で目玉焼きを作り、食べている最中にそのことを教えた時に見せる顔はとっても怖い。
全てを終わらせるために彼のしたことを見続けたから。
ストックされてた煙草を全部水に漬けたのがバレた時に私を叱った顔はとっても怖い。
鬱という名のバグが完全に修復された訳ではないから。
寝付けなくてスネークとハル兄さんの寝室をノックした時に覗いた顔は、何故かとっても怖かった。
私はスネークになることは出来ないし、ハル兄さんになることは出来ない。
二人がそれだけで成り立てることも何となく分かってる。
それでも私は彼らと一緒に生きる毎日が良い。
『私』を作ってくれた、大切な人たちと。
だって、私は彼らを愛せるんだもの。