感度不良 彼は頷きながら、顎に届くくらいに伸びた前髪をかきあげながら、書類の束に目を通していた。 頷くのは、彼が本を読む時の癖だった。大学生の授業の時もいつもこうで、肩を並べた隣で、頭や髪が揺れるのを横目で感じていた。寝てしまうと、逆に微動だにしなくなる。器用なものだ。 「あ。すご、一千万の大台いってる……収入が一千とんで五十二万円で……」 指でとんとんと、表の数字を差す。きちんと計算するためだろうか、手に持っていた十数枚の紙――領収書などが貼り付けられれているため、実際の枚数よりも厚くなっている――を、ばさりとテーブルに広げた。テーブルの、最初に運ばれたコップが結露して出来た水たまりには触れないよう、気遣ってくれたのが彼らしい。 口中で、数字を呟きながら、計算を繰り返している。突然、眉間に皺が寄った。 「…………」 紙を繰りながら、もう一度計算し直す。一番上の紙から、一番下の紙まで、最初の倍くらいに時間をかけて目を通し、顔を上げる。 睨んではいないものの、冴えた眼光だった。顔がいいだけに、凄みがある。俺は無意識のうちに目を逸らした。 「――で。なんで、諸経費の支出が合計が八百九十七万円かかってるわけ?」 「あー。だから」 「収入が差引き、百万ちょいしか残らないんじゃあ? 石の加工やってるみたいな……」 「だから、そのことで相談を……」 去年はまだ短い俺の作家人生において、相当恵まれた年だったと言える。コンペで数回入賞したのに加え、海外で二ヶ所、国内で一ヶ所、美術館などのコレクションに作品が加えられた。その他、評論家の受けもそこそこだった。 ……ただ気付くと、搬入搬出費用・制作費など諸経費が、大変なことになってい ただけだ……「だけ」で済ますには、法外な金額だが。 とりつく島もない相手に伸ばした片手へ、ぐしゃりと書類が丸ごと押しつけられてしまう。 「相談以前だな。こんな判り易い状態じゃあ、税務署行った方がいいってば。作家とかまぐろ漁師みたいな、浮き沈みが激しい職業には、それなりの対応してもらえるはずだよ」 青い制服を着たウェイトレスがコーヒーを二つ運んで来た。 つっかえることなく一息にそう言い切った鏑木は、砂糖もミルクも入れず、カップに口を付ける。 俺はというと、受け取った確定申告書他もろもろを書類入れの中に、更にそのPPケースを茶のウエストバッグへと戻した。 「……三月入ったら混んじゃうから。窓口が暇な今のうちがいいよ。セオリーさえ守ってれば、税務署は役所の中じゃあ一番親切で優しい」 けんもほろろだった鏑木だが、少し声のトーンを落とし、そう付け足す。 「……ありがと」 そもそも今日だって、確定申告について悩んでいるとメールに書いたらば、あちらから相談に乗ると言ってくれたんだ。 ずけずけと物を言う男だったが、良く気が付く性質をしている。本人は認めたがらないが、その税務署の何万倍も優しい。 鏑木に大分遅れて、俺もコーヒーを。 窓際の席なので、ぼんやりと通りを見るが、平日の新橋よりの銀座の裏通り。飯時とも微妙にずれているせいか、あまり面白味も無い。スーツ姿の男女ばかりだった。店内も同様だ。 いい年のくせに、一見フリーターのような服装の俺たちは、激しく浮いてしまっているだろう。 「それで圭太。どう、これから飯でも喰うか飲む?」 携帯を見た。思っていたより、時間が経ってしまっていた。本題に入る前、だらだらと雑談をしていたのが良くなかった。残ったコーヒーを飲み干す。 「悪い。俺三十分ちょっとだけ、三丁目の方に用がある」 「三丁目?」 「謳歌画廊。企画展の打ち合わせ」 「謳歌? ……あそこってさあ」 急いでいるのが判ったのか、鏑木もコートを羽織るとレシートを掴む。コインケースを出そうとする「後で」と目配せされた。 「ああ、俺とは傾向違うんだけど、ピンチヒッターとして急遽入って欲しいってさ」 「オーケー。じゃあ……」 さよならと上げかけた腕を、掴で止める。 「もし、空いてるんだったら、うちに顔出してけよ。朝出る時、お前に会うって言ったら、おふくろ会いたがってた レジで会計を済ませるのを横目に、先に外に出させてもらう。 路駐していたマウンテンバイクのチェーンキーを取り外していると、鏑木はもう後ろに立っていた。長い影が、頭を低くした俺の上に落ちてくる。俺よりも五センチばかり高いのに、体重は軽い。ひょろ長いフォルムの影だった。 「んー? それなら、お邪魔させてもらおうかな。お、マウンテンバイク変わった?」 「ああ。後輩が実家に帰るっていうから、中古のを五千円で譲ってもらった」 軽く手を挙げつつ、いったん別れる。鏑木ならば、突然家に行ったって家族の誰も驚きやしない。学生時代は週二か三のペースで来ていたものだ。 ゆっくりとペダルをこぎ出すと、アスファルトの道を滑るように進む。白い車体のマウンテンバイクは、有名メーカーのものだけあって、前に使っていたのよりも数倍乗り心地がいい。中古といえども、あまり乗りこんでなかったらしく状態も申し分ない。言い値で買ってしまったが、これならもっと出しても良かったと後悔しているくらいだ。 快適だが、ぬくい店内と打って変わり、身を切るような二月の冷たい空気に頬を撫でられ、背筋が一気に冷えた。 銀座の画廊に自転車で来ると驚かれるが、単に家が近いだけだ。 それも金持ちなどでなく、戦前からの地元民だっただけに過ぎない。曾祖父以前は、港で材木を扱う商いをしていたそうだ。 流石にバブルの土地高騰には堪えきれずに、マンション住まいとなって今に至っている。 そんなたわいもない理由だが、口さがもない連中は「藤森は金持ちのぼんぼんだ」だの、噂しているらしい。 もっとも、この美術業界。桁違いに裕福だとか家筋がいいだのという作家連中は沢山居たので、この程度のことと別段訂正しないで居る。親しい周囲だけが知っていてくれればいい。 いったん、中央通りに出るとやはり人が多い。それでも、年明けのセールをやってた一月よりは大分減った。「二八」という言葉もあるように、今はかなり客は少ない時期のはずだ。 スピードを落としたり、どうしても混雑しているところは、手で押してやり過ごす。裏通りに入ればほぼ直線ですぐだったのだが、そこまでに随分と時間がかかった。 画廊の前に着いた時には、約束の時間五分前になっていた。道に面した部分は全面ガラス張りとなっていてホワイトキューブの内部が見える。五十号ほどの版画作品が規模的にはあまり大きくはないところだが、もう五十年近くの老舗だ。 内外の平面作品が中心だが、扉から搬入出来るサイズならば、立体も取り扱わないでもない。ただ、それも古典的な「彫刻」が主体で、俺のようなインスタレーション作家を取り上げることは極端に少ない。鏑木が驚いていたのも同じ理由だ。 企画展で取り上げる予定だった外国人作家が家族のトラブルで急遽帰国しなければ。そして、キュレーターが俺を推薦しなければ、一生縁が無いと思っていたギャラリーのひとつだった。 今日は展示スペースには用はない。脇の階段を昇り、DMが貼り付けられた扉を無視して、奧の事務室に行こうとした。 入ったことはないが、確か突き当たりのエレベーター手前にドアがあったはず……来廊した折り、朧げに記憶に残っている。 「よお」 後ろから声をかけられる。階段を遅れて駆け上がって来た顎にまばらな髭を生やした男は、俺をここに紹介してくれた張本人だった。 年期の入り過ぎているくたっとしたジーンズに、流行らないだぶだぶの大きさのダウンジャケットを着ている。 一見、ただの怪しい中年だが、正真正銘の美術評論家だった。 「倉橋さん、どうも」 「お前も相変わらずだなあ。せっかく謳歌でやるんだから、髪の色は今時あれだが、ともかく服くらい、さ」 「服?」 「もう少しらしい格好してくればいいのにってことだよ」 服? 作家が画廊を訪れる時、正装するなんて聞いたことない。そもそも、倉橋さんのような格好の人間に言われたくない。それよりは、随分小綺麗なチョイスをしたつもりだ。コートの下はチノパンに、シンプルなシャツ。それに、ウエストバッグ。ごくごく今風な若者のファッションだろう。髪だって、茶髪だが、ぎりぎり金髪の一歩手前だ。 頭に疑問符を浮かべつつも、先導する倉橋に続く。予想していた場所にあったドアをノックした後に開くと、薄暗い廊下かに突然開けた明るい室内に、目がくらみそうになった。 事務室はそう広くない。壁という壁に並んだ高い棚のせいかもしれない。同階に展示室を設えた関係か、天井が馬鹿高いのだが、そのすれすれにまで届くくらいの家具でひしめきあっていたのだ。下から上まで、棚にはびっちりとファイルや本が並んでいる。 一番上の棚には、身長一八十弱の俺が背伸びしても届かない。部屋の隅には、今しがたまで使っていた痕跡が残る踏み台が置かれていた。 「藤森圭太さんですね。オーナーの謳田です」 そんな巨人仕様の部屋に居たのは、老年にさしかかった小柄な男性だった。父親の後を引き継いだ二代目は、若い時分にニューヨークで著名版画家の刷り師を担当していたという評判通り、頭を下げる代わりに西洋式に片手を伸ばしてきた。顔だけは見たことがあった。 「……昨秋、トリエンナーレで拝見しましたよ。あのテラコッタのインスタ、印象に残ってます。実に良かった。大物じゃないし、派手さや奇抜さとは縁遠かったけれど、完成度は一番じゃなかったかな」 握手に応じると、意外な賞賛の言葉が続いた。嬉しいが、手放しに誉められると気恥ずかしくて、目を伏せてしまう。こんな時、つくづく俺は若造なんだなと、思い知らされるようだ。 インデックスに戻る |