眼鏡は要りません


眼鏡は要りません
 鬼が帰ってきた。
 空港の出口から出てきた鬼は、黒の細身のパンツに深緑のジャケット、光沢のある柔らかな白のシャツ、開いた首元には銀のネックレス、サングラスを掛け、黒いボストンバッグを提げていた。
「気障野郎め」
 悪態を吐くものの、半分以上は足かと思わせる高い腰、長い腕に細い指、そしてアイドルのように小さな顔は、気障な格好が余りにも似合っていた。軽くサイドに分けた黒髪が形の良い額を際立たせている。サングラスの下には垂れ気味の何処か茫洋とした目があるはずだ。  鬼が、こちらに気が付いたのか軽く手を振った。濃い色のサングラスの所為で視線の先は見えない。孝志は手を振り返すのに少し躊躇った。 「孝志じゃないか」
 近付いてきた鬼がそう言った。
「……じゃないかってお前、迎えに来いとか言っておいてなんだその言い様は」
「あはは、まあいいじゃない。……久し振りだね」
「ああ」 
二年ぶりの再会だった。
鬼の名前は津森明良。二年前、就職した会社を半年で辞めて、アメリカに行った。五日前、唐突に『帰る』と連絡を受けて、足が無いから迎えに来いと居丈高に言われたのだ。
明良の声は低く柔らかいのに、どこか他人を従わせるようなきつさがある。孝志はその声に逆らえず、今日ものこのこと愛車のホンダ・エディックスを飛ばしてここに来た。
電話でのやり取りは頻繁にしていたものの、この二年、顔を合わせたことは無かった。けれど、そんな事実は無かったかのようにまったく以前と同じように明良は振舞う。いつの間にか明良の手に有ったボストンバッグは孝志の手に移っていたし、暑いと言って明良が脱いだジャケットは孝志の肩に掛かっている。
そそくさと助手席のドアを明良のために開けてやり、自分は運転席に乗り込む。後部座席にボストンバッグを投げ込んだ。二年たっても相変わらずの甲斐甲斐しい自分に、自然と溜息が漏れた。
「なに、どうしたの」
「別に」
明良がサングラスを外して、こちらを見ていた。柔和な表情だが感情が読めない、相変わらずの顔だった。笑っているわけでもない、けれど無表情と言うには柔らかい、昔からこの顔には、老若男女、沢山の人間がだまされてきた。情けないが、自分もそのうちの一人だ。
ふと、その顔に違和感を覚えた。
「その目……」
 黒いはずの瞳が、灯りのない立体駐車場の暗い車の中で、淡く緑に輝いていた。
「ああ、カラーコンタクトだよ」
「……こ洒落たもん付けやがって」
 感じた驚きをそう吐き捨てて、その瞳から視線を外し孝志はエンジンを入れた。
「向こうに行って、視力が落ちてさ。今じゃ眼鏡かコンタクトが手放せないの」
「だからって、なんでカラコン……」
「似合うからいいだろ?」  確かに似合っていた。だから孝志は何も言わず、車をゆっくりと発進させた。



 てっきり実家に帰るのだと思っていたが、明良が示した行き先は、不動産屋だった。
「今日から入れることになってる」
 マンションを買った、と事も無げに言った。
 驚いたが、孝志はへえ、としか言わなかった。言えなかったというのが正しい。この二年、たまに電話でやり取りはしていたのだが、明良がアメリカの何処で何をしていたのか、どうして急に帰ってきたのか、何も知りはしないからだ。この二年、無職だったということは無いだろうが、マンションをぽんと買えるほどの稼ぎをどうして得たのか。怖くて孝志は訊けなかった。
 明良は大学時代から自立していた。津森の家は裕福で明良は何不自由なく育てられたのだが、父親が自分のあとを継いで弁護士になれというのを突っぱねて、大学二年の時に仕送りを止められた。それから明良は両親に頼らず生活していた。その後両親との関係は回復したのだが、明良はもう自分はひとりで生活できるからと、両親からの仕送りを断ったのだ。『受け取ってしまえば、また同じことを繰り返すかもしれないしね』と明良はその時言っていた。
 あの時明良がどうやって生計を立てていたのか、孝志は今でも思い出すと苦い気持ちになる。
 大きなビルの中にある不動産屋に行き、何枚かの書類にサインをして、鍵を受け取った。車に戻り、今度はそのマンションを目指す。 「中、見ないで決めるなんて、思いきったな」
「一応、陽菜に見てもらった」
 陽菜は明良の妹だ。津森兄妹は、よく似ている。
 柔らかい顔立ちをしている兄弟は、けれどお互い気が強くて自信家で、その見た目とは裏腹に凶暴なところがあった。兄は空手、妹は剣道の段持ちで、実際強かった。兄弟仲が良いので滅多に無いが、この二人が喧嘩をすると大変なことになる。一度巻き込まれた孝志は酷い目にあった。
「陽菜ちゃん、元気か?」
「みたいだね。明日仕事終わりに来るってさ。子供嫌いとか言ってたけど、塾の講師、うまくやってるらしい」
「まあ、陽菜ちゃんなら何だってうまくやるだろ」
「要領良いからな」
 そういいながら笑う明良も、要領の良さなら負けていない。孝志は明良ほど要領よく物事をこなす人間を知らなかった。例え失敗しても、どうしてだかそれを許される状況を作ってしまうのだ。
「兄弟揃ってな」
 そんな話をしているうちに、目的のマンションが見えた。
「あれか」
「そうだね」
 川沿いに立つ白い外壁のマンションは十五階建て。地下の駐車場に車を入れて、まずは一階の管理人室へ挨拶に行く。荷物は午前中に届きましたよ、と初老の管理人は言った。
 エレベーターは、鍵を入れなければ動かないタイプだった。鍵を差し込んで回し、十二のボタンを押す。十二階で扉が開くと、明良は迷うことなく左に曲がった。三つ扉を通り越して、一番奥の『[』と書かれた扉に鍵を差し込む。
 中を見て、孝志は思わず声を上げた。
「広いな」
「そう?」
 玄関がまず広い。自分の靴と共に明良が乱暴に脱いだ靴を揃えてから、明良の後を追ってリビングに入った。適当にボストンバッグを置いて、ゆっくりと部屋を眺める。
「……広いな」
 孝志はもう一度そう言って、溜息を吐いた。このマンション、一体幾らするんだろうか……。考えただけで背筋に悪寒が走った。見ると、明良は壁際に詰まれたダンボールの幾つかを早速あけている。孝志も明良も、二十五歳。どう考えても不相応だろう。親の援助が有ったのかと思いたいが、大学時代から金銭の援助は一切受けていない筈だ。見かけによらず頑固な明良は、一度決めたら動かない。
 ダンボールをあけるのに夢中な明良は放って、孝志はマンションの中を見て周った。リビングに、ダイニングキッチン、その他に部屋が二つ。ウォークインクローゼットと、書斎らしき本棚が左右に天井まで伸びた小さな部屋。トイレに、広いバスルーム。ランドリールームも有った。
 家具はすでに全て入っていて、生活するのには困らないだろう。
「……ああ、でもベッドが無いな」
 家電製品も机も椅子も全て揃っているのに、何故かベッドが無い。
「なあ、お前今日どうやって寝るの。布団敷いて寝るのか?」
 リビングに戻ってそう訊くと、明良は顔を上げて、あ、と口を開けた。 「そうだった。ベッドだけは買ってないんだよね」 「なんで」
「寝てみないとわかんないかなって思って。人間は生きてるうちの三分の一はベッドの上なんだからさ、良いの選ばないと」 「今日はどうすんだ」
「んー、どうしようかなぁ。……とりあえずベッドは今日買いに行く。目星は付けてるんだ。付き合って?」
「……コーヒー飲んだらな」
 ダンボールから取り出した二つのカップとコーヒーメーカーが机の上に乗っていた。
「そうだね。コーヒー、淹れてよ」
 はい、とコーヒー豆を手渡される。
 ああ、俺が淹れるのね。そうだな、そういうもんだよな。淹れてくれるのか、と少しでも期待した自分が馬鹿だった。
 まったく変わっていない明良に、苦笑いしか出てこない。
「でさ、これ食べようよ。好きだろ」
 明良がボストンバッグから取り出したのは有名メーカーの高級チョコレートだった。
「アメリカってホント、ろくな土産が思いつかなくてさ。日本でも売ってるけど、これしか思いつかなかったんだよね」
 パッケージを開けて、一つ摘む。その手を向けられて、孝志は困惑した。
「はい、あーん」
 目を細め、唇の端を吊り上げて、明良が笑う。表情が余り出ない明良にしては珍しい顔だった。
 久しぶりに見たそんな顔に、孝志は何故だか動揺して、言われるままに口を大きく開けてしまった。そっと人差し指で押し出されたチョコレートが、舌の上に乗る。
「美味しい?」
 問われ、ああ、と呟いた。
 この鬼め、と思う。こんな餓鬼臭いことをさせるんじゃない、この鬼め。
 孝志はコーヒーメーカーを引っ掴んで、キッチンに向かった。