南の果ての猫 三十を過ぎると、気の知れた仲間同士の呑みと言っても、そこそこの店に腰を据えることとなる。 しかし、一軒目はそれなりの中華料理店だったが、二軒目の質はがくんと落ちた。 二次会に赴こうと、ふらふら繁華街に彷徨い出たものの、年明けすぐの週末のためか、十数人のグループが飛び込みで入られる店などそうない。 年末ほどでないが、道という道は酔っぱらいや、それ目当てのキャッチでひしめきあっている。 そこで、やむなく飛び込んだのは大学生や若い社会人御用達の、二級の居酒屋チェーンだった。営業時間が長いのと品物がやたら安いのが売りの、たまに事務所の若いのにオールで付き合った最後に辿り着くような店だ。 個室などは当然確保はできず、ホールのせせこましいテーブルに肩を寄せあって座る。椅子を引くと、隣席の背にぶつかる狭い空間。 そんな人一人がやっと歩けるような通路を、若い店員がトレイいっぱいにグラスを乗せて運んで来た。一人一人に給仕することなどかなわないから、一ケ所から目的地にまで酒を回していくのはセルフサービスだ。 学科構成としては、かつて女性が七割を占めたものだが、二次会にまで残った女性はたった三人。この年代になると家庭や子育てのため融通がきかなくなる。 どうせ身体をくっつけるのならば女性の方が嬉しいが、生憎両隣は男だった。毒々しい色合いのサワー類を幾つか回した後、ようやく俺が頼んだ生が到着した。 こういう店のカクテル類は信用できない。もっとも、最近は、ビールを頼んだのに発泡酒がくるという罠も待ち構えている。 二軒目だから、乾杯も不揃いで何とも勢いなく終わった。「美学教養、長田ゼミにかんぱいー」と、力ないかけ声だけ。 消えかかった白い泡に口を付けていると、右から肘で胸を突かれた。 「おい。志摩さあ」 そう呼ぶ声は、微妙に呂律が回っていないせいで、不可思議なアクセントとなっていた。 白いサワーを右手に持ったままの男は、沢田という同じゼミに居た奴だ。十三年前はバンドをやっていて、金髪に近いくらいの長髪で過ごしていたのだけれど、今は額の生え際が後退しはじめている。 同性として同情の念を禁じ得ない。自分に差し迫った問題でないとはいえ、他人事ではなかった。 うっかり、その見事なM字のラインにいきそうになった視線を、慌てて据わった目元に引き戻す。 「志摩さあ。お前、あいつと親しかっただろ」 彼は気付かなかったようで、酔っぱらい特有の口調で語尾を奇妙に伸ばしながら。ともすると、店内の雑音に混じりそうになる声を聞き取ろうと、身体ごと沢田に寄せて、耳を近付ける。 「あいつ、ほら渡井だよ。去年、油画(ゆが)の専任講師になった。聞いたか」 わたらい、ワタライ、渡井。 その四語を聞いた瞬間、ほろ酔いがすうっと抜けた。次の店を求めてさまよった一月の東京の寒空よりも、強力な酔いざましだった。 混然一体となっていた周囲のノイズのもつれがほぐれ、その無数の会話のままクリアに耳へ届く。 例えば、斜め後ろの席でぐずぐず鼻をすする女。四角いテーブルの斜向かいで、こぼされる部下の愚痴。 入り口でレジを打つ店員のキータッチ音など、一つ一つはっきりと聞き分けられた。 「いや、ヤツとはもうずっと連絡とってない」 すっかり素面に戻ったのを隠したまま、俺はわざとけだる気に言い放ち、二口目のビールをあおった。旨味はなく、苦いだけだ。 沢田は、大学生の頃から変わらない愛嬌のある目を、禿げた額の下でくりくりとさせる。 「ホント? 失踪したらしいぞ」 あやうく、喉を通っている途中のビールを吹き出しそうになった。無理矢理、嚥下して、まじまじと沢田を見返すと「何だ知らなかったのか」と。 「正月早々に、あいつの弟からサークルの同期のOB、OGに連絡があった『暮れ前に、突然失踪したんだけれど、心当たりはあるか』ってさ」 顔に手を立てて思い出せば、こいつと「渡井」は確かに同じサークルだった。自転車部。俺は沢田個人と特別親しくはなかったが、それでも「渡井」を介して何度か呑みにでかけた。 心中で「失踪」と、一度つぶやいてみると、非日常感が際立つ。あらためて沢田の言葉を反芻し、ようやく矛盾に気付いた。 「おい、お前、今暮れって言ったな?」 「ああ」と、沢田が頷く。肉付きが良くなった頬がたぷんと揺れた。 「俺、年賀状受け取ってるぜ。今年。十二月も別のハガキが来てる」 「マジ? 今年、俺んとこは来てなかったんだけど……」 半信半疑のようだが、俺の場合は逆で「今年は久々に」来たのだ。没交渉になって九年ぶりではないのか。 年末年始、実家から帰った足でマンションのポストを探って、部屋に向かう道すがら年賀状を選り分けた。仕事関係は事務所だから、こちらはプライベート中心だ。子どもや家族の写真が大半で、年末の例の賞があったから「授賞おめでとう!」の書き文字が目立つ。 一枚、文字だけのシンプルなものがあった。一人のエレベーター内でそれを抜くと恩師からのものだ。ここ数年のとおり「今年こそはと考えているんですが……」と、筆ペンで記されている。溜息とともに、それを列の最後尾に戻し、現れたのが「渡井」からの年賀状だった。市販の絵葉書で、場所は京都。仏像の写真であった。 その一枚をエレベーターの暗い照明にかざす。宛名書きはボールペン。リターンアドレスもなく、手書き文字は他に見当たらなかった。相変わらず几帳面な、やや四角張った文字。 年賀状が来るような予感はしていた。 何故なら、十二月の中旬、静岡の消印でやはり絵葉書が来ていたからだ。そこに記されていたメッセージも「授賞おめでとう」とのことだったが、千回は言われた言祝ぎのなかで最も重いものだった。 「……そうかあ、俺もお前のこと思い出してはいたんだけどさ。その弟に連絡していい? どうにも手がかりないらしくって、親しい人がいれば紹介して欲しいって頼まれたんだ」 回想にひたっていると、そう畳み掛けられる。事態が事態だけに、首は横に振れない。 俺が了承すると、沢田は懐から取り出した携帯電話に登録していたある番号を表示させた。「渡井正樹」とある。こちらも携帯番号だ。「どうするお前からかける?」と聞かれたが「いいや」。こういう時、頭から突っ込んでいくタイプではない。根が臆病なもので、猪突猛進は向かないのだ。 「なら、俺から明日にでもお前の連絡先伝えておくよ……渡井っていえば、お前は学校から呼ばれないの? お前だけ成功すればさあ……」 「志摩くん。ごめんねえ。私これ買ったんだけど……良かったらサインとかしてもらえるかな?」 嫌な話題を振られたところで、後ろから割って入られた。三人いた女性の一人。やはり同じゼミ出身で、卒業してすぐに企業のデザイナー部に就職したがすぐに結婚退職したと聞いた。 彼女が差出したのは、白地にペールグリーンと黒い文字のロゴの大きい版型の雑誌。中央にはでかでかと、俺のポートレートがある。黒い服に緑が良く映えていた。 「ああ、うん。いいよ。買ってくれたんだ。ありがとう」 「特集も一通り揃ってて良かった。スタッフキットの一連の広告デザインがいいな、あそこの服好きだし。あ、横に私の名前も書いといてよ『遠藤さんへ』って」 一緒に添えられたサインペンで、自分の顔の横に「志摩一」と名前を記す。頼まれた宛名は、うっかり旧姓を書きそうになってひやっとした。 年末に出た雑誌で、巻頭には俺の特集が設けられている。今年いくつか取った賞のご褒美といったところだ。 深刻な話をしていたはずだが、酔っぱらいの沢田はそれで興が逸れたのか「俺もその雑誌買ったからな、今度サインしてくれよ」と、のたまう。 俺は切り出されたくないことを回避でき、笑いかける振りをしながら胸をなで下ろしていた。 事務所の営業は、公式の案内では十時からだが、実際は九時半あたりにはもうスタッフが揃っている。デザイン系の事務所だと時間にルーズな場所も多いが、うちはその辺、徹底的に指導していた。 更に珍しがられるのはタイムカードと残業代の完全支給をしている点だろうか。これは俺の経験だが、不思議なものでタイムカードの制約があった方が、皆仕事に集中してくれる。残業代がかさむことはそうない。 十八人のスタッフが在席しているが、各プロジェクトには二人以上で一組のチームを作り、当たらせている。 どうしてもこの業界の男女比は女性が多くなるのが常だったが、デザイナーという業務は結婚や子育てと両立するには厳しい。その結果考えだした方式だ。これなら、急な用件があった際でも、不在を補え合える。 結果、内十二名が女性だったが退職する者は少なく、開いて数年の事務所の割には、きちんとしたベテランが頭を揃えていた。 これは彼女たちにとっての得ばかりでなく、俺の業務的にも非常に有利に働く。 「志摩さん。本紙来ましたー!」 事務所奥の扉から所長室に入り、マックを立ち上げた途端に呼ばれてしまう。黒いロングコートを脱ぐ暇もなかった。朝イチで持って来るとは言っていたけど、もう少し後だと思っていた。 小走りで向かった応接では、良く見知った印刷屋の営業氏が、校正紙の入った大ぶりの封筒を抱きかかえたまま立っている。 俺が入室したのを見て、小柄な身体をぴょこんと曲げた。 横には女性二名。彼女たちが今回の仕事の担当だ。担当と言っても、企画から完成まで、こうした節目節目には俺のチェックが必ず入る。 「真坂さん、おはようございます。エタールさんの本社の方には?」 応接のデスク上に常備してある、ダーマートグラフの赤を選んで持った。「そちらには、バイク便が向かってるはずです」と答えながら、彼はがさがさと大きいテーブルに校正紙を広げていった。今回は、雑貨ブランドの春もののパンフレット。版型はAB版と小さいが、二十ページを越えるため、ページ順に並べるとかなり場所をとった。 最初から見ようとしたが、俺の手は表1で止まってしまった。 「マゼンダがきついですね」 「はあ」 「人物の肌色は、あまり赤くしたくないって指示をしましたよね」 女性モデルが一人、真っ白の着衣で立っている。彼女は正真正銘の黄色人種なのだが、肌色は可能な限り白くと指示してあった。背景色の指定も限りなく白に近いアイボリーだったが、気持ちピンクがかって見えた。 「文字色に引きずられちゃったんですねえ」 脇で俺の手元を覗き込んでいた女性二名の内、俺と同年代の、アートディレクターとして在籍してもらっている方が印刷屋の気持ちを代弁してそう呟いた。下部分に配置したブランドロゴがチャイニーズレッドだ。 初稿だから仕方ない部分もあるが、他ページもことごとく赤味が強い。ロゴは必須だから予想していたけれど、きつく言っていた分、営業の真坂氏はすっかり恐縮してしまっている。 最終ページにまでびっしり「赤味取る」の指示を書き終わって、俺は席を立った。後の細かい校正は彼女たちに任せる。彼女らは、俺が退場するとたずさえていた資料を真っ先に開いて、校正を開始した。文字を含めてのチェックだ。テキスト情報に関しては、バイク便が向かった会社でも見るのだろうが、なるべく目は沢山通っていた方がいい。 修羅場と化した応接を出ると、唯一のセクレタリーがドアのすぐ横で待っている。 「お客さまです。渡井正樹さまだと」 彼女が指し示す入り口には、青年がいた。面識はないはずなのだが、奇妙に見覚えのある風貌で、思わず目を擦りそうになった。 「昨日は遅くに失礼しました。渡井正樹と申します」 憎らしいことに、声までよく似ていた。あまり手入れしてないぼさぼさな眉毛。髪もそんな気を使ってない。 俺がかつて見知った男が、十年前の姿そのままでいた。力が抜けかけた膝を立て直し、こちらも頭を下げる。 年令は聞いていなかったが、まるで学生だ。ハーフコートの下はチノパンなどカジュアルな服だったから余計に若く思えるのかもしれない。例え年が離れた弟であっても、今年三十五の俺と同級生の兄を持っているのだから、少なくとも二十四か五は、いっているはずだ。 その証拠に、佇まいと喋りには大学生特有の恥じらいがなく、堂々としている。 応接は埋まっているし、作業部屋も別のチームが何やら蠢いているようだった。俺は仕方なく奥の所長室へと彼を案内した。 金曜日の飲み会の翌日、沢田は宣告した通り「渡井」の弟へ連絡をとったらしい。 俺の携帯に電話があったのが祝日である昨日、月曜日の朝。最初俺は電話かメールでと提案したのだが、彼は職場とどうにか折衝をとって、この訪問に至ったのだ。 一見学生風だが社会人だけあって、態度はしっかりしたものだった。白いインテリアで統一した室内は目を引くだろうと思うのだけれど、彼は一八〇はあるだろう背をしゃんとさせたまま、俺に従って部屋に入ってきた。 机上に見せたら不味い資料がないことを一瞥してから、椅子に座るよう招く。俺は近場のスツールをたぐり寄せ腰をおろした。 十畳はたっぷりある部屋なのに、こいつと向かい合うと空気が薄く感じられる。呼吸が浅くなった。 「まず、ハガキはこちらです」 机の放り出したままのカバンから出したハガキは二枚。片方は静岡の御浜岬。もう片方は平等院の雲中供養菩薩像の絵ハガキだった。 「渡井正樹」は俺の知っている「渡井」と良く似た仕草で、まず海のハガキ。親指と人指し指で長方形のカードの端を持つと、ひっくり返して見ている。 裏には俺の自宅への宛先以外には「渡井敦」という書名だけだった。リターンアドレスもない。 たったそれだけなのに、彼の目は裏面に釘付けとなっている。日本人には珍しいくらい高い鼻の落とす陰影。 そうしていると古びた砂壁に背を預け、ヘミングウェイを読んでいた「敦」を思い出す。随分前に亡くなった祖父が漁師をしていたそうで「老人と海」を読むと、何となく連想すると話していた。 そして、ハガキの切手部分をまるで貴金属の表面のようにそっと指でなぞる。 「消印は……十二月十六日……ですか」 「すみませんが、私は彼とは十年近く会ってないんです。今回この二通がきたのも突然で驚いていたところです。他には何も……」 浸っているところに申し訳ないが、昨日と同じ文句を繰り返させてもらう。 「一時期、一緒に暮らしてたと伺っています」 しかし、先制したはずの俺に笑った顔は、案外余裕があった。そうだ、奴はこんな風なしたり顔などはしない。 差異を見つけ、何故かほっとした。なので、その追求にもさほどの動揺はなかった。 「そうですけれど……卒業して私が新居を見つけるまで、ほんの半年ほどの間のことです」 俺の主張は聞こえているはずなのに「渡井正樹」は答えない。仏像のハガキも同じように観察をはじめた。そちらは年賀状として来たから、消印も付いていないことは伝えてあったが、失踪した実兄を追う肉親の執念というものだろうか。 「では、ずっと連絡をとっていなかった志摩さんの住所をどうして知っていたんでしょう」 「OB・OGの名簿に自宅住所を掲載していた時期があるので、それをご覧になったのだと思います。共通の知人もおりますし」 たったそれだけの手がかりだったけれど俺は事務所の名入り封筒を出して、それらをしまうために渡してやった。彼は素早く、下げてきた革のカバンにそれを仕舞ってしまう。用件はそれでおしまいのはずだった。 「志摩さん」。気持ち、椅子に座り直してから。 「今夜、また兄の部屋に行くんですが、同行をお願いできないでしょうか」 そんな申し出など、全く困惑するしかない。九年会ってなかった男の部屋に上がって何の役に立てるだろうか。 しかし、そんな戸惑いは「渡井正樹」の次の一句で瓦解してしまった。 「兄の家は当時と同じアパートですよ。時間は立ってますが、他に家へ上げるほど親しい人も見当がつかないので、来ていただけると助かります」 「……引っ越してないんですか」 一瞬絶句した。大学に近く通勤には至便だろうし、アトリエ兼住居は一人暮らしには充分な広さだった。しかし、あのボロボロの建物に、専任教員の収入が得られるようになってからも住み続ける理由なんてどこにもない。 あの付近ならば、もっと奇麗で広いマンションとアトリエなどごまんとある。 同じ部屋、か。 瞼の裏で、西の窓から差し込む光でオレンジに甘くけぶる飴色になった砂壁がちらつく。昨夜まで、あまり関わらないでいようと決めた気持ちがぐらついていた。 「来ていただけませんか」との再度の誘いに、俺は折れた。 「渡井正樹」とは、夜の七時に、問題のアパート前で待ち合わせとなった。 時間と場所以外の詳細はない。九年近寄ってもいないところだが、目を瞑ってでも行けそうだ。 学部と院の前期課程、計六年間通った美大のすぐ近くだった。九年前と同じように畑のど真ん中にあって、周囲の建物もやはりまばらなままだ。一月の六時過ぎでは、風景は、全て似たようなグレーの濃淡のみの輪郭となってしまっていたが、見間違えなどしない。 屋根の傾斜、壁に歪み。狭い市道から駐車場の砂利へ乗り入れる。でこぼことした地面に車体が大きく揺れた。 その左右への揺さぶりのリズムに、ざりざりとタイヤが無遠慮にバラストをかき乱す音も懐かしい。 こんな安くて古いアパートに、十数台は車が停められるスペースがある。つくづく無駄だと思っていたが「消防署の指導なんだとさ。万が一のときに、消防車が停められるように」と、敦がかつて大家からの受け売りで説明してくれた。 グループ展のため、銀座への搬入を手伝いに来たときのことだった。忘れない。 アパートと塀寄りの定位置に車を停めた。いつも停めていた場所だった。 到着は六時半頃だったが、停車して外に出た途端、カンカンと二回から階段を降りる人影がある。「渡井正樹」だった。俺を部屋で待っていたらしい。 街灯もない、民家の明かりも届かない場所で、二度目の対面を果した。言葉もなく頭を下げあってから、階上へ向かう。先導などいらないので、俺が先に進んだ。 急な傾斜の、赤錆だらけの雨ざらしの階段。同じく錆ついた集合ポスト。コンクリの廊下には、洗濯機が並んでいた。 入り口から二つ目のドアに置かれたのは、真新しいものの二槽式のものだった。 全自動よりも脱水が強力で、気に入っていたのはどちらかといえば俺だった。 ドア前で振り返ると、正樹氏は「開いてますよ」と頷く。 手を出す気配がないので、俺が仕方なしにドアノブを握る。ひんやりとした真鍮のドアノブは、同じ手触りのまま俺を待っていてくれた。 九年ぶりに入る、昨年の十二月十日に行方を絶った男の部屋だった。男は大学の専任講師で、その日には授業もあったのに、だ。 入ってすぐは台所で、ドアが三つ見える。トイレと風呂場と奥の部屋に続くドアだ。 キッチンの様子に嫌な予感がした。全てに見憶えがありすぎる。玄関のたたきに置いた傘立て代わりの壷、シンクに貼られた青いタイル、小さな食器棚。正樹氏に断るのも忘れ、俺はフローリングの床を大股で行き過ぎると、奥の部屋に。電気はついていた。閉まっていた引き戸を開ける。 配置も何もかも、九年前のままだった。やや大きい本棚が二つと、黒いデスク。ローテーブル。 左に続く間に行くと、百号ほどのキャンパスが何枚か重ねられて砂壁に立て掛けてあった。この広い壁がお気に入りで、制作にはげんでいたものだ。畳の床にはアクリル絵具などが幾つも散乱している。こちらの部屋を「アトリエ」と呼んだ。 開け放たれたれていた二つの部屋の間の襖の上を見ると……布は取り去られていたが、画鋲の跡が点々と残っている。その数を数えそうになってやめた。 一番上に立て掛けられた絵はカーキ色だ。 絵は抽象だったが、四つ足の獣らしきものが右隅に見うけられる。白い毛並みに、べたんと床に座りこんだようなシルエット。他は不鮮明なのに肉球の付いた片足には指がはっきりと六本。 キャンパスに無地のままの箇所はないが、明らかに絵の密度が薄い。まだ途中の作品なのだ。このカーキの背景や獣のようなぼやけた塊も、あくまで下塗りの産物なのかもしれなかった。 「朝、いつもの時間に、ここのアパートから兄が自転車で出勤するのが目撃されてます」 「自転車?」 「マウンテンバイクです。カーキ色の」 あやうく踏みそうになったホワイトのチューブを取り上げた俺の後ろに、正樹氏が立っていた。 この空間に居られると、どうにも戸惑うが、表情や声のイントネイションが異なっている。 敦ならば、こんな歯切れ良い発音では喋らない。慣れた空間だと違和感が際立って、別人だと思い知らされる。それは俺にとっては好都合だった。 「で、次は横浜市内の銀行。金を五十万引き出したのが判ってる」 「五十万? それは……」 「防犯カメラに映ったのを警察に確認してもらったんですけど、確かに兄でした」 絵の次に目立つのは本棚だ。品揃えは変わっているのだろうが、傾向はそのままだ。流行の大衆書などなく、仕事用のものとあとは古典に類されるもの。 特にアメリカの翻訳小説を繰り返し読んでいた。背が折れたヘミングウェイなどが目立つ。 中でも一番真新しい背を辿るとアーヴィングの去年でた新刊だ。ぱらぱらとめくると、新しいけれど既に読まれた形跡が書籍のあちこちに残る。 「何か変わったこととか、判ったことってありますか」 本来の目的を思い出し、思考を今現在に戻した。変わった点をあげつらうだけなら簡単だ。二つの部屋にかけられていた布は……この際いいだろう。 他だと、家具はほぼ同じだがテレビやビデオの家電製品が新しくなっていること。 そして、机上にはノートパソコンが鎮座していた。敦がパソコンを操作する様なんて、想像するだにおかしい。が、彼が聞きたいのはそんなことではないだろう。 俺の目はデスク上の壁に虫ピンで止められた三枚の猫の写真に引き寄せられた。 いずれもポストカードで、皆毛の長い洋猫だ。猫種に詳しくないが、チンチラやペルシャでなく、首の回りの毛が特に長く厚みがあった。 「十年以上前からほとんど変わってないが……これかな」 写真に対する興味はあって、作品写真も撮ったしスナップを撮ることも多かったが、わざわざ部屋に飾ろうなんて男じゃなかった。 しかも猫が好きだったなんて聞いたこともない。 「猫なんて飼ったことないくせに」 「そうですね」と相槌を打ちつつ、そのデスク上にびっしりと並んだスケッチブックの中身をちらちらと確認した。 「あと、スケッチブックがない」 「スケッチブックなら、それが」 「いや、書きかけのがない。あいつならこれと同じサイズの……F6のスケッチブックをいつも持ってた」 敦はスケッチブックは最初から最後まで丁寧に使い切る。描き損じたら、その横にべつの絵を描きはじめた。俺が失敗して破って丸めかけるのをたしなめるくらいの、几帳面さだ。 だが、ここに何十冊も並んだスケッチブックは、どれもこれも最初と最後のページが埋まっている。 「あいつ、特別画材は持たないんだ。鉛筆でもボールペンでもマジックでも、適当に使って描くはず」 |