The year-end

 ジョーカーは何時もの通りの時間起床し、何時ものように朝食を取るために、巨大飛行船トルバドゥールの船内を移動している最中だった。既に朝のトレーニングを終え、軽くシャワーを浴びた後だ。
 短い黒髪もきちんと撫でつけられ、青い目の眼光も鋭い。黒い中国服に包んだ長身の背を、ぴんと伸ばして歩く。
 トルバドゥールは現在、日本上空二万フィートに居る。
 丁度、日本時刻で十二月二十九日、午前七時。今年ももう終わりである。
 ジョーカーは大股で歩きながら、おそらくまだ寝ているであろう仕事上のパートナーにどんな小言をくれてやろうかと思案していた……こんな暮れにまで、あなたはぐうたらして。少しは来年の予定でも立てたらどうなんですか……。
 しかし、その足と思考はドアの前で止まった。何時もなら開くだろうドアが閉められたままなのだ。立て付けなど物理的な破損でなく、明らかに電子ロックがかけられている。
 廊下にたった一人のはずのジョーカーは、宙に向かって話しかけた。
「RD(アールディー)。ここを通してくれないか」
「すみません。ジョーカー」
 船内の何処からか響いてきたのは、電子音 ただしイントネーションは平坦でなく、感情らしきものがこめられているように思う。
「あなたから見たドアの向こう側の廊下には、まだノミ取りが終わっていないネコが四匹いるのです。そして、今その内の一匹が扉を爪でひっかいている最中です」
 このトルバドゥールに搭載され、全てを管轄する人工知能RDは、微妙に語尾を濁らせた。人間ならば頭を下げて済まなさそうに話している風情だ。
 こんな風に弁解されて、弱らない人間がいるだろうか。いや、いない。ジョーカーもご多分に漏れず頭を抱えた。
 試しに、冷たい金属の扉に額を押し当てると、音こそ聞こえないものの、何かがひっかいているような細かい振動が微かに伝わってくる。
「…………」
「ですから、このドアを開けるとノミ取りを終えた二十七匹のネコと終わっていないネコが混ざってしまうことになります。そうなると、ようやく先の見えてきたクイーンの……」
「……判った。別ルートから行くよ」
 言葉ではそう了承したジョーカーだったが「クイーン」という名詞を口にした瞬間、ふつふつと腹の奥から怒りがこみ上げてくるのを感じた。
 その途端「ふぎゃあ」というのか、小さい叫びが扉向こうから聞こえた、気がした。同時に引っ掻くのも止む。扉越しで姿が見えないながらも、激しい殺気にネコが怯えおののいたのだ。
 ジョーカーは迷うことなく、迂回して別の廊下に向かった。もう十年近くも暮らしてきた我が家だから、迷うことなどない。
 ただ足取りは著しく重かった。武術を志したものならば、彼がどんなに修行を積んだ手練れであり、今どれだけ怒り心頭でいるかが、その足音だけで判っただろう。RDも船内の集音器から波線で入力されるその音波や超音波から、ジョーカーの感情を推測することが出来た。
 もっとも、だからといって特別対策を立てる必要はない。日常茶飯事だ。
「RD」
「はい、ジョーカー」
「『クイーン』は起きているんだな」
「はい」
 また、怒りの方向に空気の振動が触れる。だが、これもいつものことである。
 かつかつと長い廊下を歩いてきたジョーカーが、ドアを開けるとそこに居た。
「クイーン」
 飛行船とは思えないほど広い部屋に、豪華な調度品。その中央に置かれた品の良いソファ。
 そこには 長い銀髪の人物が茶トラのネコを抱いて優雅に横臥していた。愛用しているチェリー模様のパジャマでなく、既にタキシードを着用済みだ。普段より大分早く起きていたらしい。
 白磁の肌と神の手による造形としか例えようのない横顔。ただただ美しく、年齢も性別も、民族的な特徴さえ垣間見えない。
 殺気をはらんだジョーカーに慌てることなく、ふうと同じ姿勢のままため息をついた。
「やあ、ジョーカーくんかい。ネコくんが怯えてしまってノミ取りにならないから、その邪眼で睨まないで欲しいんだが」
 動いていないのはクイーンだけで、腕の中の茶トラ模様のネコは尻尾を膨らませて居た。ジョーカーに見据えられ気が立っているのだ。
 そんなネコの両脇を持って、クイーンはソファに普通に座り直した。ネコの顔に白い顔を近づけて、ジョーカーでなく言葉が通じない動物にとっくり言い聞かせる。
「すまないね。ネコくん。彼は僕の友だちのジョーカーくんだ」
「僕は友だちではなく、仕事上のパートナーにすぎません。そして、こんな目で睨ませているのはあなたのせいです。クイーン」
「あんなことを言っているけれど、本当はとても心の優しい子なんだ。我が子のように育ててきた私が一番良く知っている……深い愛情を注いでいるというのに反抗期なのか最近グレてきてしまったけど……」
 まるで、子育てに悩む母親のように、灰に紫を差した瞳を悲しげに曇らせる。
「クイーン!」
 なるべく穏便に対応しようと努めていたジョーカーだが、たまらず声を張り上げた。ついで、足を開き大きく構えをとった。
 突然の大声と動きに、辛抱がきかなくなったネコがクイーンの手元から飛び出してソファの影に逃げる。
「うん? いいよ、相手をしようじゃないか」
 ジョーカーの様子に優しく笑ったクイーンは、すっと座したまま腕と両足を組む。真剣に構えているジョーカーに対し、まるでふざけた格好だ。
 だが、そんな涼やかな表情のクイーンに対し、ジョーカーは身動きがとれない。まるで、ソファの影で怯えているネコのような気持ちになっている。ふざけた姿勢のくせに隙が無く、一歩も距離を詰められない。
 子どもの頃から九年間、どんなに修行を積んでも、この人との差はなかなか縮まらない。
「……やめましょう」
 ふと、物陰のネコと自分を連想してしまったからいけない。ジョーカーは自分から、姿勢を正して気を収めた。
「ん。そうかい。じゃ、ネコくん、続きをしよう」
 クイーンは変わらぬ様子でほどいた腕で、膝立ちに座ったソファの背越しにちちち、と逃げたネコに呼びかける。茶トラは動転したままで、まだ近寄って来ない。
 ジョーカーは、ソファの隣に腰掛けながらも大きく息を吐いた。
 クイーンの職業は、ネコのノミ取りなどでなく「怪盗」である。
 狙った獲物は必ず盗むと、世間の評判も高いが、普段はこのようなていたらく。寝ているか、ワインを飲んでいるか、暇つぶしと称して犬ネコのノミ取りをして日々を暮らしている。
 育ての親に似ず勤勉なジョーカーとしては、この怠惰さやC調加減ががどうにも我慢出来ない。
 ネコは辛抱強いクイーンの説得に応じて「にい」と鳴くと、ぴょんとソファの背に飛び乗って来た。クイーンが手の中へ、ネコを素早く抱き寄せる。
 ふと、ジョーカーはその光景を見て思い出すことがあった。
「……クイーン。先日、調べ物をしていて偶然発見したのですが、獣医さんの処方薬でノミなんて一網打尽に出来るそうです」
 クイーンが犬ネコのノミ取りをしているのは暇つぶしであるが、どうにも面倒が多い。今回船内に持ち込んだネコは三十一匹。これらを確保して、船内で世話をして、最後にはそれぞれに飼い主を見つけて届けてやるのが恒例だ。
 しかも、クイーンは対象物の捕獲とノミ取りだけで、あとの世話はRDとジョーカーに押しつけてくる。せめて、これ以外の方法を選んで欲しいとの気持ちがあった。
「ああ。そうらしいね」
 だが、クイーンはあっさりそう答えた。
「知ってるんですか」
「知ってると言えば知ってるさ」
「……じゃあ、さっさと使えばいいじゃないですか」
 ちっちっち。うんざりとしたジョーカーの前で、クイーンは繊細なまでに細く長い人差し指を真横に振った。
「判ってないね、ジョーカーくん。だから君はまだまだ子どもなんだよ」
「何がですか」
 自分が図体ばかりでかい子どもなのは重々承知だが、子ども扱いは嫌いだ。気色ばんだジョーカーだが、クイーンはその人差し指をネコの顔に押し当てて、ふにふにと毛皮を掻いてやる。ネコは、何とも幸せそうな顔で目を瞑った。
「ではヒントをあげよう。私はこのネコくんたちを何処から連れて来た?」
「日本……?」
 具体的に言うと日本の東海地方、愛知県名古屋近郊だ。ネコを連れてきてしばらく「味噌」にはまってしまったらしいクイーンに、えらく珍妙な料理を食べさせられ続けた。牛肉のカルパッチョ味噌風味にクリームの代わりに味噌を使ったウィンナー風コーヒー……ああ、味噌で炒めたエスカルゴだけはそこそこ美味しくて誉めたらば、調子に乗って更にエスカレートして……思い出し胸やけしそうだ。
「地域でなく、もう少し具体的な」
「具体的。主に都市部、でしたよね」
 ジョーカーは行っていないが、クイーンが「裏通りで、ネコを捜していたら変な目で見られたよ」と、楽しそうに話してくれていた。
 日本の住宅地に、東洋系の自分ならまだしもこの銀髪の風貌はさぞ目立ったことだろう。通報されなくて幸いだった。「天下の怪盗クイーン! 次の標的はネコ?」などと、マスコミにかき立てられているところなど、想像したくない。この人は蜃気楼の術を使うけれど、心情的に不安定になったりすると、それも完璧ではないそうだから。
「そう。では彼らの飼い主は?」
「飼い主と見られる人物がいたらあなたはトルバドゥールに連れて来ないはずです。ですから、おそらく野良ネコばかりでしょう」
「その通り! いいかいジョーカーくん!」
 ネコをうにうにしていた人差し指が、ジョーカーを指した。びし! そう効果音の書き文字がクイーンの背景に見えた気がした。
 まるで推理小説の「犯人はお前どぅぁぁぁあ!」という、探偵卿のポーズを連想させられる。
 もっとも、本人は正真正銘の怪盗であるが。
「彼らは様々な理由で、野良ネコとなった。人間に捨てられた子、虐められた子。事情は多様なれど、人間に少なからず敵意を抱いているものなんだよ。そんな彼らを、すぐに獣医に見せたらどうなる?」
「判りません。すぐにノミがいなくなって万々歳じゃないんですか」
 ジョーカーを指した指は、またネコの顔に戻っている。今はネコの眉間あたりを掻いていた。当の本ネコは、もううつらうつらと夢見心地だ。
 それとは裏腹に、クイーンの顔はうつむき加減で銀髪がはらりと横に落ちてきているせいか、気鬱そうにも、こう呟いた。
「残念だけれど、彼らには『獣医に診てもらって、ノミがいなくなる』という図式が理解出来ないんだよ、ジョーカーくん。獣医に連れて行っても、『また人間に虐められる』と思うだけさ」
「…………」
「だから、トルバドゥールで満足な食住を与えられ、私たちに親切にされ……人間に対しての恐怖心を解いてあげてから新しい飼い主の元に送り出してやるべきなのだよ」  「さて、と」と、クイーンは言葉を切って。すっかりいい気分で脱力したネコのノミ取りに取りかかる。膝の上に乗せて、まず胴体部分から、両手で毛を掻き分けた。
 ジョーカーもそれきり黙ってしまった。
 「満足な食住を与えられ、親切にされ」か。
 幼いあの時に差し出された、白い天使のような綺麗な手を忘れたことはない。こんな境遇ながらも、神様を信じている要因の一つである。また、恨んでいる原因でもあるのだけれど。
 ジョーカーが感慨に耽っていたその時。
「嘘ですね。良くぞそこまで咄嗟にでまかせを思い付くものです。はじめてネコを連れてきた時のあなたの言葉は、今でもきちんと保存してあります」
 響き渡るRDの、奇妙に厳かな声。
 小さく「だまされるところだった」と、呟くジョーカーの隣で、クイーンは「今度、新しいウイルスでも仕込んでおこうかな」と、声には出さず、心中でそう決めていた。
「まあ、ともかくそんなわけでジョーカーくん。この子を含めてあと四匹でノミ取りも終わるから、そうしたら雑煮でも食べて新年を迎えようじゃないか」
「ZOUNI? 聞いたことがない言葉です」
「餅が入ったスープ、日本の新年料理だよ。地域によって、すましや白味噌味赤味噌味など様々な種類があり、それぞれのこだわりがあるそうだ。育った地域や家による行き違いからの諍いもあり、これが原因で嫁入り先から妻が実家に帰ってしまうこともあるらしい」
「東洋の神秘ですね……とりあえず、味噌はしばらくゴメンです」
 そう立ち上がりながら「白と赤があるのなら、味噌にもワインみたいにロゼまであるのだろうか」と、馬鹿なことを考えたが言わなかった。
 これ以上クイーンに、面白げなネタを与えてはたまらない。新年明けて、三十一匹のネコの飼い主が見つかり次第、本職に取りかかってもらわないと。来年こそは、月に一度は働いてもらいたい。
「そうかい。美味しいのに……そうそう旧正月用に火薬の用意もしとかないとね……」
 不隠なことを呟いたクイーンの中で、ネコが寝言みたいに「にゃあ」と幸せそうに鳴いていた。






 




2005年冬コミでの無料配付本より。
怪盗クイーンの布教ということで、原作を知らなくても内容が判るよう人物紹介も付けていました(こちらもサイト掲載)。本編も入門編ということで、色々気遣ってます。
12/29という設定は、本の発行日がその日だったため。
ジョーカーに対し、育ての親面するクイーンが好きなんですよね。

06.01.29