欲望
目が闇に慣れるまで待った。
暗いだけの視界に、ぼやけた輪郭が浮かび上がり段々と明確な形をとっていく。
毎日眺めている自分の私室。置かれている家具や調度品は、一団員のものよりも遥かに洗練されている。もとより、あちらと違うのは、こちらが個室である点だろうか。
集団生活を続けていたから、はじめて部屋を移った時は肩の荷が一気に降りたかのような心持ちにすらなった。
この修道院での生活において、一人きりの時間を持てるというのは、何よりの贅沢であるのかもしれない。
物々をはっきり認識できるようになってから、ゆっくりと寝台から降り立った。廊下で誰かに出会っても大丈夫なよう、制服ではないが、最低限の身なりは整えた。
燭台も持たずに廊下へ出る。深夜遅くの修道院全体が静まり返っていた。扉か額の金具でも、微かな光を受け反射しているのだろうか。聖像の御顔がうっすらと輝いていた。昼間なら見まごうことなく、ただの石像であるのだが、こうした時間に対面していると、妙な生あたたかさを感じる。滑らかに磨きこまれた白い石の表面下に、血が通っているようにすら思う。
もしも本物の女なら、絶世の美女に違いない。聖職者としての立場からは、おくびにも出せぬことだが。
同性の修道女ならともかく、男ばかりの禁欲を命じられた世界に、何体もこのような像が置かれているのは皮肉なことだ。いつもそう思っている。
なるべくそちらと目を合わさないよう、足早に通り過ぎた。
見張りが立つ扉の手前で止まり、修道院裏手に面した窓をそっと鍵をあける。なるべく音をさせぬよう、開けた窓から外に出た。
石床とうって変わって、柔らかい草むらが出迎えてくれる。春まだあさい季節、萌え出たばかりの若芽に葉ばかりだが、靴底から足裏、そして脳天に。伝わってくる植物の柔さは、かえってざわめきに拍車をかけ、不快だ。
正面扉には、夜通し明かりをたやしていないが、こちら側にそういった配慮は全くされていない。
月明かりと、それを映しながら流れていく川面だけが頼りだが、幼い頃から過ごしていた場所。目を瞑っていても、歩くだけなら何の支障も無かった。
真直ぐ井戸にまで辿り着くと、乱暴に木蓋をずらし、水を汲み上げる。
上着を脱いでおく程度の理性は残っていた。腕を袖から抜いて、その辺に放り投げてしまう。
濡れた釣瓶の縁を両手で掴むと、中身を頭からぶちまけた。
井戸水はまだ氷のように冷たい。首筋から背中にかけて感じたのは、冷たさよりも肌を刺す痛みだった。
ぽたぽたと濡れた髪先から、地面に雫が落ちる。体温が戻ってくる前に、続けざまにもう三杯を。目元を手の甲で拭っただけで、後ろに尻をついた。
指先の感覚はすっかり無くなったものの、酷く落ち着いた気持ちになっている。昇っていた血が、みるみるうちにひいていった。
あらためて空を見上げると、雲ひとつなく晴れた空に南中した満月が浮かぶ、見事な月夜だ。
濡れたままの身体に、風が吹きつけられる。対岸に生えた大木の、梢一本すら揺れさない優しいものだったが、その波ごとに熱を更に奪っていった。これでいい。もっと下がっても構わない。
その姿勢のまま動かずに居たが、表の方からこちらにがさがさと近づく音が聞こえた。
四つ足の獣でない。魔物でなく人間だとするなら、こんな時間こんな場所を歩く者など、一人しか考えられぬ。最悪だ。
今、角に来た。
逃げることなど少しもしなかったので、曲がった途端に自分と出くわして驚いたのだろう。視界の端にちらつく赤い足の主は、歩みを止めてしまった。どうせまた、ドニの酒場で騒いで来たのだろう。
「……兄貴」
上半身裸で、全身濡れそぼったマルチェロに、言葉をなくしているようだ。
同じ男だ、理由も判るはずだ。そもそも、このような時間、許しなく宿舎を抜け出るのは禁じられていた。
立ちすくんでいたククールだが、マルチェロが一向に動かないでいると、のろのろとまた歩き出す。草を踏んでいく乾いた音。前を通り抜けた瞬間、酒や香料の残り香がぷんとした。
真直ぐに、窓から宿舎に戻ればいいものを、その前でまた止まった。そのまま、動く様子が無い。
「すぐに立ち去れば見なかったことにしてやる」
業を煮やして、そう言ってやった。早く行ってしまえ。
ところがククールは、去るどころか来た道を戻ってくる。数歩手前に立った。
顔や姿など注視していないが、何やらがさがさと身動きをしだす。ついで、赤い布がばさりと足元に落とされた。
そして踵を返す、音もなくするりと建物の中へ入っていった。
置き土産をあらためてみるが、やはり制服のケープだ。夜目にも目立つほど赤い。どうやら、これで身体を拭けということか。
起き上がるついでに取ってみると、人肌に直で触れているのではないかと思ったくらいぬくい。
これを着衣していた人物の顔が、瞬時に浮かび上がる。同時に、ほのかに漂わせていた酒場の匂い。いや、それだけではあるまい。巧妙に隠されているが、確かに汗が香っている。臭気で無いはずなのに、一番はっきりと判別出来た。
つまんでいたケープをまた地面に落として、釣瓶いっぱいに水をまた汲む。
肩口から全身に冷水をかけ、底に残った液体は、その服へと注いだ。
“sacrament”に書こうとして、削ったシーンでリサイクル。
昔のお坊さんは、冷水に浸かったりして、こういうのをやりすごしていたそうです(効くのか?)。 あんな本出しといて何ですが、ストイックな兄スキー。
05.04.15
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