兵舎の裏は一面の草原だった。大きな樹木はなく、ここに「到着した」当初、高く強い陽差しを存分に吸った背丈の高い雑草が繁茂していた。
それからまだ十日しか立っていないのに、太陽は段々と威力を弱め、もう風は冷たい。日本国の「初秋」を思わせる。この国……夜魔ノ国の者に訊くところ、これから日に日に寒さを増していってやがて雪の季節となるそうだ。
勢いを失った陽光に比例して黄みがかってきたものの、細長く尖った葉はまだまだ瑞々しかった。その葉の草が寄り集まってできた株がそこかしこにあり、それぞれの茎の先端がほのかに赤い。決して、西空に広がる夕焼けのせいだけでなく。これが黒鋼の知っているのと同じ草ならば、もうじき白くふわふわとしたものが頭をかざるだろう。
そんな草原のなか、目をこらすまでもなく、異質なものが居る。風を受けるたび、薄い色の頭髪が揺れ、一歩踏み出すと黒鋼に気づき、更に白い面が振り返った。
「てめぇ、じっとしてても目立つやつだな」
歩み寄ると、「んー、そんなことないよー」とでも言いたげに、ファイは身体をわざとらしく右に傾げた。黒い衣装の上に付けた肩当てが擦れ合い、硬い音を立てる。
着いて十日。まだ十日目。言葉はほとんど通じていないのにも関わらず、魔術師は黒鋼や他の人間の会話の半分以上を理解しているようだ。固有名詞など、単語数を着々と増やしていることもあるが、身振りや、周囲の雰囲気などを感じとっていることの方が大きいのだろうと、黒鋼は思う。
黒鋼はファイの二の腕を着物の上から掴んで、軽く引っ張った。
「戻るぞ。もうすぐ『月の城』に行く」
抗うことなく歩に従ったので、黒鋼はすぐに手を離す。ファイも「月の城」については、茫洋とながら理解しているはずだ。
夜叉王たちに保護を受けた後、丸二日かかって、黒鋼が「小狼たちがいないこと、噂もないこと」を伝えると、ファイは迷わず、天空に浮く「月の城」を指差した。何を言わんかは、すぐ知れた。
夜叉王から反論は聞かれなかったが、その側近たちに異邦人ふたりを「月の城」へ同行させることを承諾させるのに、更に七日。黒鋼の焦燥も大きいが、唖者を装う魔術師のそれは比較にならないに違いない。事態が動くのではないかと、期待はしている。戦いへの高揚ももちろん。
「気ぃつけろ。怪我すっぞ」
草の株と株とをすりぬけるとき、魔術師の白い手が葉に対し、あまりに無防備なように思え、そう呼びかける。幼いころ、何度この鋭く硬い葉で傷をこしらえたことだろう。
ファイは、最初何を注意されたか判らなかったようだが、やがて原因はこの草なのかと、指先で葉を突っついた。
「ススキだな、同じ名前かどうかは知らねぇが」
「『すすき』」
「おう」
周囲に誰もいないから、今は魔術師が喋っても支障はない。もっともふたりきりでも、黒鋼が促してやらない限り、ファイは口をつぐんだままだった。
たわいもない会話に緩んだ空気が、不意に張り詰めた。草原が風でざわめくなか、別の気配が混じる。兵舎の方から近づく馬影があった。騎乗しているのは、長い黒髪の男だ。
「連れ立って散歩か。もうじきに出陣だ。月の城が現れる」
男は……この国の王は、馬上のまま、そう問いかけてくる。黒鋼たちと同じように、戦装束をまとう。
「ふん……余所者にうろうろされると迷惑だと言いてぇのか」
この年若い王を決して嫌ってはいない黒鋼だったが、出陣前にわざわざ単騎で訪れた大仰さを揶揄してやりたくなった。だが、無礼なからかいにも、夜叉王は動じない。
「そんな疑いをかけているのならば兵舎になど迎えたりしない。そもそも私は、お前たちを間者などとは思ってもいなかった」
終始淡々と語る男だ。余所者に色めき立つ周囲とは対照的に、夜叉王は警戒するどころか、黒鋼たちを無条件で受け入れた。
黒鋼とて、自分たちがいかに怪しく見えるかはよく判っている。夜叉王の態度は有難くもあったが、不可思議さもあった。
「お前たちはまだ出会って日が浅いな」
王はそう、剣の切っ先のようなススキが揺れるのを見やる。
「謀を企てるには距離がありすぎる……早く戻れ」
もうこれ以上話す必要はないとでも言うかのように、夜叉王は手綱を引くと、馬を反転させてしまった。
ふと振り返ると、さすがにこのように込み入った会話は理解しかねるのか、どこか訴えかけるような視線をしている。黒鋼は再びファイの二の腕を無言で掴むと、ずんずんと歩き出した。
いきなり腕を引っ張られ多少足がもつれかけたファイも、じきに歩調を整え、遅れつつも付いてくる。布地の下で歩くたび収縮と弛緩を繰り返す、腕の筋肉。ほのかにあたたかく感じる体温。少なくとも、見かけの距離だけはこんなに近い。
夜叉王の姿はあっという間に見えなくなった。そのあとを追いかけるよう、黒鋼は緑の剣をかきわけて進んだ。
09.07.26
SCCで配布したもの。