下校時間

 学校のどこが好きかと聴かれれば、長い長い渡り廊下を進むうちに段々と大きくなる生徒たちのざわめきと答えよう。ファイ・D・フローライトは常々そう思っている。
 真面目なことなんかよりも、くだらない話題であればあるほどいい。楽しそうならば、ちょっとした騒々しさなど、放赦されて然るべきだ。
 それが、この化学教師の持論である。
 今、彼と並んで歩いている体育教師も、賑やかなのは嫌いでない。無秩序すぎるものは、遠慮したいが。
「さすがに静かだねぇ」
 前方に長く伸びる影の頭あたりを見つめながら、化学教師は呟いた。アスファルトの地面に歩を進める度、革靴がコツコツと鳴っている。
「そうだな」
 帰宅時、教員の通用口からぐるりと敷地内を一周するのが二人の日課だった。もちろん専門の警備員や用務員もいるけれど、教師でないと気づかないこともあるからだ。学生当人たちだけでなく、煙草や菓子の包みなど、よろしくない落とし物があるときもある。それで風紀など、普段見えない部分が明らかになった。だから、どんな遅い時間になってもこれを続けている。
 今日は日が暮れる前の帰宅だが、期末試験前ということで部活は基本的に禁止。特例として大会などを控えた部は活動を許されているが、それも5時まで。
 普段ならまばらながらも人がいる時間なのに、人影すらなかった。
 二人きりになると「黒みん、今日のご飯なんにするー?」などと軽口が出てくるファイだったが、人気のない学校ほど独特の雰囲気に溢れているところはそうない。それに圧倒されてか、口数の多い男も無言のままだった。
 特に何事も起こらないまま、二人が終点である校門にさしかかったときだ。随分と久々に、黄色い声がぼんやり聞こえた。内容は判らないが、この高さは紛れもなく女の子のものだ。
 段々と近づくにつれ、話している内容と人物の判別がつくようになった。
 校門をくぐると、出てすぐの角にある自動販売機前で、女子生徒が二人立っていた。サクラとひまわりだ。掘鍔の生徒は、ここで友人と待ち合わせをする機会が多く、おそらく小狼か百目鬼、四月一日あたりを待っているんだろう。
 二人とも片手に缶ジュースを持ち、きゃあきゃあと雑談に興じていた。あまりに夢中になっているせいか、教師二人に全く気づいていない。
「サクラちゃんたら、かわいー」
 顔を真っ赤にして小柄なサクラが、ひまわりの肩を叩く。当然、本気でなく戯れの延長だ。
 未だ気づいていない二人に、化学教師が声をかけた。
「どしたの?」
 驚かせるつもりはなかったのだが、途端二人とも弾かれたように肩が上がった。一瞬の沈黙のあと「丁度いいー」とひまわりが笑う。どうやら、話題は黒鋼かファイか、あるいは両方かに関係あることだったらしい。
「ファイせんせー、聴いてくださいよぉ」
「ひまわりちゃん!」
 教師たちに身を乗り出してきたひまわりの袖をサクラが引っ張っている。悪戯っぽく、黒髪の少女がいたずらっぽく口元に手を当てた。
「ふふ、サクラちゃんがファイ先生のこと『おとぎ話に出てくる王子様みたい』ってー」
「もー!」
 「この前、小狼くんと観にいった映画に出てくる人に似てたって言っただけです!」と、サクラは弁解している。
 「ああ、それなら」と、黒鋼にも心当たりがあった。映画のタイトルは言ってはいないが、おそらく古典童話をモチーフにした、今話題のアニメ映画だろう。
 観てはいないが、テレビや雑誌などで目にしない日がないくらい、しつこく取り上げられている。化学教師と顔立ちこそ似ていなかったけれど、金髪碧眼と年格好と体型、それに番宣で耳にした声優ののんびりとした語り口に、黒鋼もファイを思い出したことがあった。
 辺りが喧噪に包まれたが、話題にされている当人はいたって涼しそうな顔をしている。いつもの間延びした語調で。
「あはは。でもそれ後ろ半分は一応ホントだしー」
 その一言で、他3人(黒鋼はもともと静観していたが)はぴたりと黙った。
「え?」
「て?」
「ああ?」
 あっけにとられた3人に「冗談じゃないよぉ」と、ファイ。
「オレの実家って、北欧のちっちゃい国の王族なのー。オレの叔父さん……つまり父の兄が今の王様やってるんだよねー」
「ええっ」
「でも、今は民主国家になってて、王室なんて飾りみたいなもんだから。王様は、毎朝夕お供も付けずに自転車で商店街つっきってお城まで通ってるよー。で、外交とかの国務につくの」
 へらへらっと、ファイは本日の夕飯について言及しているくらい、重みなく語る。
 黒鋼が「知らなかったぞ」と、抗議めいた視線を女生徒に気づかれぬようよこしたが、ファイは取り合わなかった。
「それって、ファイ先生が王様になる可能性もあるってことですか?」
 驚きが去ると、さっきまで頬を紅潮させていたサクラも、ひまわりと一緒に矢継ぎ早にファイに質問を投げかけだした。お喋りしているときもそうだが、興味に取り付かれている女子ほど手が付けれないものはないと、黒鋼は短い人生の間に、そして職務上、とてもよく知っている。流れは当事者同士に任せ、傍観に徹することに決めた。
「うーん。可能性はあるけどかなり低いねぇ。うち子だくさんの家系らしくって。双子・三つ子・四つ子がじゃんじゃん居て、オレの王位継承権なんて20番目より後だもん」
 その他、勘ぐればかなり際どい部分も尋ねられたけれど、ファイは終止当たりさわりなく受け流していた。そういったやり取りがしばらく続き、底なしに思えた女子二人の好奇心が満たされつつあった頃、ようやく会話が途切れた。そして、たった今存在を思い出したといった風にファイが傍らの黒鋼を覗き込んだ。
「黒様先生仏頂面ー」
「……あのな」
 本人はこともなげだけれど、大の大人として黒鋼は、仔細は判らないなりに重要性は感じているつもりだ。
 例えば「お城まで通ってる」という話。「王室なんて飾り」ということ。
 それらから判断するに、王族を名乗り国がそれを認知している以上、多かれ少なかれ国庫からある程度の援助を受けているに決まっている。そうすると身分自体がパブリックだということだ。何にせよ、一般人と並べるわけにはいくまい。
 今更、培ってきた二人の間の関係をどうこうするつもりはないが、黒鋼は心中で頭を軽く抱えていた。
 しかし、浮かない顔の男とは裏腹に、その背中を叩くとファイは快心の笑みを見せた。
「大丈夫! オレは『お嫁行っても婿養子を迎えても、どちらでも好きにしなさい』って、両親、王様ともども一族の了解済みだからー!」
「はぁ!?」
 「こんな場所で何言いやがる」と叫ぶ寸前で、黒鋼はどうにか踏みとどまった。
「黒鋼先生! 玉の輿狙いですよ!」
「今風に言うと、セレブ婚ですね」  居合せた少女たちはいつもの化学教師の冗談と捉えたのか、くったくなくはやし立てる。ファイは「オレ、十メートルくらいあるトレーンを引きずるのが夢でぇ」などと、悪のりしだした。
「ふざけんな!」
 黒鋼が一喝するとそれが合図だったように、四月一日、百目鬼、小狼が背後の校門から現れた。
 どうやら、このあと百目鬼の家に集まって勉強会をするつもりらしい。女の子組も、教師とその生い立ちから気が逸れたのか、五人ともに「さよーならー」と手を振りつつ、足早に立ち去って行った。
 残された教師はその背中が見えなくなるまで見送ると、生徒とは反対方向の駅にまでどちらからともなく足を向ける。影はもう周囲の暗さと同化して、消える寸前だ。いわゆる「大禍時」。帰宅を急いでいるのか乗用車が法定スピードやや越えくらいで、車道を通り過ぎていく。
「黒むーがどう考えてるか判らないけど、別に大したことじゃないから言わなかっただけー」
「……それならそれで、今のタイミングで言うか。普通」
「サクラちゃん、すごく恥ずかしそうだったでしょー? だから話を逸らしてあげたくって」
 それっきり、二人とも黙り込んだまま歩いた。黒鋼としてはそんな理由じゃあ納得していないが、この場で問い詰めるわけにもいかない。
「あ」
 学校が見えなくなるくらいまで進んでから、ぽつりと化学教師が呟くと、隣の黒鋼の袖を引く。
「念のため言っておくけど、黒りんせんせー」
 ファイは背伸びして、頭ひとつ分高い耳元で囁いた。
「……うちの国、同性結婚オッケーなんだよー。これホント」
「…………!」
 今日一番の爆弾発言を口にすると、化学教師は快活に「オレ、ク△リスみたいなドレスがいいなぁ」などと、駅につくまで一人勝手に夢を語っていた。








07.07.12
構想仕上がりまで20分シリーズ。
付き合っているのには認めるが、社会的にどうのという話になると、踏ん切りが付けられない黒様。