good faith

 この店の敷地を、もう何度行ったり来たりしたか。
 ある意味、家と学校よりも慣れた場所かもしれなかった。それにも関わらず、未だに戸惑うことが多い。
 うまくは言えないが、面積をはっきりと知覚できないのだ。もちろん、建物や部屋の位置関係は把握している。
 なのに、同じ場所に向かっていても、その度ごと距離感が異なっているように思えた。ほんの一瞬で着くこともあれば、道のりがやけに遠く感じられることもある。
 しかし、だからといって物理的に時間がかかるというわけでもなく。純粋に身体で味わう感覚の話だ。
 侑子も謎の塊であるが、この店もそれと同じくらい不思議に満ちていた。様々な出来事に巻き込まれてきたけれど、四月一日はまだその全貌を掴めていない。
 その不思議の総本山たる本人は、朝顔の絡まったすだれのかかる縁側で、膝にすやすや眠る黒と白の不思議生物を載せ「四月一日、今夜は『琵琶の長寿』が飲みたいわー。きんきんに冷やしたの、よろしくね!」と、マルとモロのあおぐ団扇の風で凉をとっていた。緊張感のカケラもない。
 いつもなら文句をたれながらも宝物庫に向かう四月一日だが、丁度スルメイカを捌いている途中だった。
 全五杯中、まだ四杯が手つかずだ。ねっとりとした白い身は熱に当てられるたび鮮度と味が落ちていく。調理は時間をあけずに、素早く済ませてしまいたい。
 こんな用事にはうってつけだろうと、侑子と並ぶくらい酒好きの居候の名を呼んだが返事はない。仕方なくイカの載ったバットごと冷蔵庫にしまい割烹着を外すと、勝手口から飛び出した。酒がしまわれている宝物庫へ。
 梅雨は明けた。夏のべったりとした空の青が、下の方から濁った橙に塗り替えられつつある。日は大分傾いているのに、まだまだ暑かった。
 赤味がかった日差しが落ちる二の腕やうなじ、額に汗が滲みだす。ほとんど無風。湿度の高い空気が辺りに充満している。微妙にサイズの合わないサンダルと砂と小石が擦れて立てる靴音すら、濡れて聴こえてくるようだ。
「ビワノチョウジュビワノチョウジュ……」
 聞き慣れない銘柄名を口中で呟きながらの母屋からの道筋は、割と短い方だった。
 「おや」と思ったのは、宝物庫の扉が開いていたことだ。明るい周囲から隔絶されているみたいに、ぽっかりと暗い穴が空いている。そこだけ、数時間先の夜に続いているみたいな通路。
 子どもの頃、いや少し前までの自分なら躊躇するくらいにその闇は暗かった。
 でも、今は違う。歩を緩めることなく、内部へ足を踏み入れる。その瞬間、けっして恐怖ではなく、ひんやりとした室温に肌が粟立った。生理的な変化はすぐに収まったが、いつもの空気とは微妙に違う。何者かの気配らしい違和感に周囲を見渡しても、陳列されたあやしい物品の輪郭に変化はない。首をひねった四月一日だったが、その正体はじきに判明した。
 途中右に曲がったところにある日本酒の棚の横、そこに長身の男性が背中を向け立っている。こちらに気づいたようで、声をかける前に金髪を揺らしながら振り向いた。
「あれぇ、四月一日くん?」
 蒼い双眼を糸のように細めたのほほんとした笑顔。ついさっき、見つからなかった酒豪の居候その人だった。
 タンクトップから覗く肌が、暗闇に浮き上がってひたすらに白い。少しくせ毛がかった金髪と碧眼は、すれ違う人が振り返らずにいられないほど澄んだ色だった。
 三ヶ月ほど前、店に転がり込んできたファイと会ったひまわりが「ファイさんって王子様みたいね」と感想を述べた通り、おとぎ話の登場人物のような容姿だ。ただ、喋りだした途端、そんな認識はすぐに裏切られてしまう。
 この魔術師といいうちの魔女といい、いわゆる魔法使いは皆変人ばかりなのではないかと、四月一日はそう確信するに至っていた。
「ファイさん、ここに居たんですか。侑子さんに頼まれて日本酒取りに来たんです」
「グッドタイミングー。オレも夕食の酒を見繕ってたんだよー」
 そう言うが、彼が立っていたのは酒を置いている棚の横。眺めていたのは酒ではない。
 彼の背後を覗き込むと、表装された「刺青」がたたずんでいる。アラベスク模様にも似たそれは、かつて人の背に彫られていたのが信じられないくらい、そこにしっくりと貼り付いたままだ。
「つい気になっちゃって、ね」
「…………」
 四月一日の視線に気づいたのか、その元々の持ち主は微笑みをたやさずに語る。
 あのとき、四月一日もそこに居た。事情は知らないが、望みの対価に代えられるほどのものだから、ファイ自身にとってどれほど大切なものなのだろう。
 しかし「対価は戻らない」。侑子は常々そう言っている。こんな側にありながら、彼がそれを手にすることは二度とあるまい。
 そう思うと、自然と四月一日の眉が寄ったが、その眉間の前で白い手が横に振られた。
「勘違いしないで、オレが見てたのはコッチ」
「……え?」
 否定を現した指先が、額の隣に立てかけられた剣を示す。柄に銀色の龍細工が施されている。しかし、これはファイでなく、三ヶ月前まで一緒に旅してきた忍者の持ち物のはずだ。確認に仰ぎ見るが、彼は静かに頷いた。
「これが、今オレがここに居る理由」
 何を言いたいのか掴めない。交互に剣と白い顔を見ていると、静かな空間に男の声が響く。
「『払った対価は戻らない』んでしょう。でも、これはオレの持ち物じゃなかったから、手に入れられない道理はない」
 そこまで言われて、ようやく話の端が四月一日にも見えた気がした。想像した続きを話そうと──。
「──その、手に入ったあとは……」
「あははー」
 真面目なことを話していたはずなのに、語尾には到達できず、能天気な大声でかき消されてしまった。けれど、これはおそらく肯定だ。それくらいの空気を読むことはできる。
「本人に頼まれたわけじゃない、ですよね?」
 彼は話題を切り替えたかったのかもしれないとも思ったが、あえて四月一日は再度尋ねた。しつこいかもしれないが、今この場で真意を確かめてみたい。そんな気がしたのだ。
「こんなこと言ったら怒鳴られちゃうだろーねー『ふざけんな、他人の世話を焼く前にてめぇの身の振り方でも考えやがれ』ってー」
 はぐらかされるかもしれないと思ったけれど、ファイは破顔したまま、答えてくれた。懐かしい過去を思い出しているのだろうか、遠くを見ているその視線はいつもに増して優しい。
「だったら」
「おせっかいでもいいんだ」
 迷いなく言い切るが、素直に頷けない。
「でも……」
 口ごもる四月一日を、ファイが真っすぐに見下ろす。いつも上がっている口角の位置は変わらないものの、目の色が変わった。「笑顔」の裏に、色々な表情を持っている人だ。
 性別も人種も年令も顔立ちも異なっているが、その性質は九軒ひまわりと酷似していると思う。笑ったまま、悲しんだり困ったり寂しがったりしてしまう人の顔だった。
「四月一日くん。オレ、ずっと誰かの役に立ちたいと思ってたんだ。『願い』をかなえてあげたいって。でも結局全部無理だった。オレ自身の『願い』だってカタチにすらならなかったんだから、当たり前だけど」
 歌うような抑揚の独白を聴いていると、自然に息がひそやかになる。
「色々終わって、文字通り身体ひとつで放り出されて。一番したいことを考えたとき、思いついたのがこれだった」
 そして顔を伏せ、触れるか触れないかくらいの近さで龍の口のあたりをなぞった。光る白銀に指先が映る。
 まだだ。まだ、言いくるめられるわけにはいかないと、閉じかけた唇を四月一日は意志の力でこじ開ける。
「ファイさんは良くても、相手は望んでないかもしれないです」
「うん。自己満足だよ。でも、オレはそうしたい。してあげたい。相手のためでもあるけど……どれだけ年月がかかっても、ひとつでもかなえられればオレの人生にも区切りがつく気がする。今までのことを終わりにして、新しくはじめられる踏ん切りがつけられる……」
 そこまで言われると、これ以上忠告などできなかった。正しいことをやっているとは思えない。でも、全て判っていながらも貫きたいというのならば、あとは彼自身の問題だ。
 本気で怒ることができるのは「おせっかい」を押し付けられる当事者だけだろう。
「で、侑子さんのリクエストはー?」
「──え、ええと……『琵琶の長寿』って日本酒で……」
 いきなり話を元に戻された四月一日は少々面食らった。身体を反転させ、ファイは瓶の並んだ棚を見上げている。
「『びわのちょうじゅ……ビワノチョウジュ』? ……もしかして漢字?」
「多分。あ、アレだ。上から二段目の右から三番目」
 「琵琶の長寿」と黒々とした文字で記された瓶は、四月一日の伸ばした腕がかかる前にファイによってさらわれた。立ち位置は、四月一日の方が近かったはずなのに。本人は何気ない動作だろうが、同じ男としてはリーチ差が少し憎らしい。
「はいはいコレね──やだなぁ、オレがまだ知らない字だー。漢字って、星の数ほどあるんだねぇ。憶えても憶えてもキリがないよぅ」
「星よりは全然少ないっすよ」
「本当? ……あとさっきから気になってたんだけど、四月一日くんから嫌な匂いがするー」
「きっとイカです。夕飯は侑子さんのリクエストでイカ刺になりました」
「うわぁ……」
「旨いっすよ、新鮮だし」
「オレの分だけ焼いちゃっていいー? 自分でやるからさぁ」
「侑子さん、怒るんじゃないすか? 『皆、同じものを食べてこその夕飯じゃない!』つって」
 何気ない会話をしながら、そこを後にした。大事そうに酒を抱えたファイを先に行かせ、宝物庫を閉めたのは四月一日だったが、再びそこが闇に閉ざされる直前「なるべく早くファイさんがたっぷり怒られますように」と、呟いた。
 いつか、言葉にすればそれが本当になると侑子が語ってくれた。だから、きっとそうなる。そうに違いない。
 保証はないが、何故か確固たる自信が四月一日のなかに宿っていた。








07.08.08
バッドエンドでなければ、日本国エンドかミセエンドのような気がする。ファイは店で言葉を憶えたり、生魚に慣れたりして来るべき嫁入りのリハビリをすればいい。
琵琶の長寿は私が飲みたい(お前か)。