引かれ者の小唄

 後ろからだった。
 土間で履物を付けている最中だ。かがんで下を向く姿勢を取る際は、格別の注意を払う。すっかり身に滲み付いた習慣だ。
 原因は、ここは屋内でかつ起き抜けで、周囲には顔を知っているものしかいないという、無意識のうちの油断のせいだったろうか。男の方が上手だったとは思いたくはなかったが、それもあるのかもしれない。
 いきなり後ろから、するりと右頬を撫でられたのだ。冷たくも熱くもない。つるつると中性的ではあるが甲高で大きい、紛れもない男の手のひらだった。手の主は見なくとも判る。
「何しやがる」
 振り向きざまに腕を振り回すが、金髪の男は「こわーいー」などとふざけた声を発しながら、後ろに飛び退いた。彼が着地したのは、指先が触れるか触れないかすれすれの外側だ。長めの癖毛とゆったりとした着衣が、うす暗い室内にてふわりと揺れた。
 男──ファイも、もう家主から与えられた服に着替えてしまっている。春香と名乗る少女からの借り物だ。
 未だ真意を見せない同行者は、一見人懐っこくおどけてみせる。
「黒たん、横着しちゃってー」
「ああ?」
「野営してるならともかく。かわいい女の子もいるんだから、できる限り身だしなみには気を使ってよー」
 そこまで言われ、ようやく頬や顎にぽつぽつと目立つ無精髭のことを指しているのだと、気付いた。今朝は全く手入れしていない。撫でた男は、手のひらにざらざらとしたかたい感触をたっぷり味わったことだろう。
 前世界の阪神共和国では、家主に同性がいたこともあってか、髭剃り用の刃物など道具類が最初から準備されていた。
 だが、ここ高麗国では、少女の一人暮らしであるせいか、風呂と手洗場には最近手入れされた気配が全くない女性用の剃刀一本があるきりだった。
 黒鋼としては、一日くらいは構わないと、顔は洗うだけで放っておいたのだが、対峙する相手はきちんとしてきたらしい。白い肌は普段通り、滑らかなままだ。
 反論したいが、あちらの方が正しいのは承知しているから分が悪い。ファイは腰を落とすと、なおも笑っていた。こうなると残されたのは、居直ってしまうことくらいか。
「うるせえ」
 「まるで知世みてえなことを言いやがる」という言葉は飲み込む。
 日本国では「戦場や火急の折りではないのですから」と、よくたしなめられた。「もちろん、あなたのお仕事柄そういったこともあるとは重々承知していますわ。だけれど、ここ白鷺城にいらっしゃるときくらいはきちんとなさってくださいな」と続く。
 そんな、苦く懐かしいことを思い出した。涙を流すには到底及ばないが、この男と話したい気分からも更に遠ざかった。朝餉の用意ができるまで、とっとと外に出てしまおう。
 しかし、黒鋼が扉に手をかけた間際。
「……町見ても、まともっぽい住人で無精髭生やしてる人なんていないって、わかるでしょ。ただでさえオレたち目立つのにー」
 そう駄目押しされると、最早歯向かう手だてはない。なるべく面倒は呼び込みたくはないのは判る。
 腹立ち紛れに舌打ちして、乱暴に戸を引いた。さして建て付けは悪くはないはずなのだが、あまりの勢いに金切り声が辺りに響く。その余韻を両耳に残しながら、手洗場に足を向けると、背中から「よしよし」と、わざとらしい声が届く。
 もう一度怒鳴ってやりたかったが、この魔術師とはどうにも相性が悪いことは、もう思い知っている。この場からいち早く逃れたくて、大股に歩いていった。



 この街に着いてからしばらくは、ホテル住まいでいた。
 大通りから二つ裏に入った、中規模の安宿だった。チェスゲームの日々の懸賞金で充分代金はまかなえたし、居心地も悪くはなかったのだけれど、すぐに転宿を余儀なくされてしまった。
 そのホテルは客室とレストランが別になっていて、朝夕とそこで食事をとる。滞在して二週間立つか立たないかという頃、従業員の間で「長期滞在しているのに、一度もレストランで食事をしていない客がいる」と噂が立ったのだ。
 もっとも、宗教的な理由や度を超えた好き嫌い、食事制限をしているなど、悪意のあるものはなかったが、大事になる前に宿を移った。面倒ごとを引き入れるつもりはない。
 そして、三日後には部屋を探し出して、引っ越した。余計な詮索をされなくなったのは無論大きいが、この方がモコナもきままに屋内を動きまわることができ、嬉しげなのが幸いだった。
 少女がそれを引き合いに出し「気にしないでください」と、笑ってくれたのを、よく憶えている。


 リビングに当たる中央の部屋で、少女は右足をかばいつつ席を立った。行儀よく、めくれそうになる膝丈のスカートを押さえている。
「……時間になるまで部屋にいます」
 食後に出した茶のカップを片付けようとするので制した。さっき昼食の食器を運ぶときもこんなやりとりをしたものだ。
 「でも」と言うので「いいから」と。その二度目で姫は折れてくれ、自室に向かう。足を引きずっていく痛々しさに『小狼』の身体がびくんと揺れ、彼女も気付いたに違いないだろうに、見向きもしない。そのままドアのあちら側に隠れてしまった。
 判りやすすぎるね、サクラちゃん。
 オレは残されたカップをキッチンに運ぶ。シンク内には既に使用済みの食器が山となっていた。油汚れめがけて、蛇口からの水を浴びせると、湿り気を帯びて脂の香ばしい匂いが強くなるが、それは俺の食欲には結びつかない。ただただ、機械的に洗っていくが、こういった雑用は気がまぎれていい。
 もっとも、酷い汚れだけ落とし食器洗い機に突っ込むだけだ。肉料理を載せていた三枚だけ水で擦って、あとは腰を落としシンク下の引き出しに並べていく。
 短期間だが、共に旅をしたおかげで彼女の性格は把握しているつもりだ。
 彼女ならば、例えどんな気まずいことがあっても、相手に余程の非がない限り非難や排除はしない。逆に『小狼』くんみたいな立場の人間には、気を使う。もし、自分が後ろめたさを感じていたのなら尚更。
 ここまで邪険にするには、何かしらの意図があるはずなのだ。懸賞金の件にしても、首を傾げざるえない。
 うつむいて作業をしているうちに、続いて扉がしまる音。部屋の位置からすると『小狼』くんだ。こんな、裏のない素直な芝居なのだけれど、彼には随分と堪えている。気の毒だけれど、かつての「彼」と同様、瞳の奥には強い信念をたたえている。こちらも余裕はないので、その気持ちを信じるだけ。
 それに、オレがフォローを入れたところで、彼は疑うだけだ。
 赤いボタンを押すと、引き出しにあいている小窓から奥で水流が吹き出しはじめたのが見えた。上から左右から、三組分の白い磁器たちを舐め回していく。ピッフルにも似たものはあったけれど、よくぞこんな装置を考えだしたものだと思う。手間はなくなるが、手仕事は好きな方だから、掠め取られてしまうのは少し残念だ。
 曲げた腰を伸ばすと、カウンター越しの光景からは『小狼』くんが消え去り、残されたのは一人と一匹だけ。
 モコナは机上で、この世界にあるパズルゲームみたいな積み木に挑戦中だ。色とりどりに塗装された木片を崩さないよう積み上げていく。なるべく高くしたり、そこから木片を抜き取ったりするのが遊びのルールだ。
 この世界に着いてすぐの頃、歩けないサクラちゃん用にオレが買ってみたものだ。彼女の自室では、たまにモコナと競争をしているらしい。
 濡れた手をタオルで拭って居間に向かい、まずモコナに顔を近づけてひやかした。カラフルでいびつな塔はもうモコナの体長を越えている。こうして眺めている間にも、不安定にゆらゆら揺れていた。もう先は長くはなさそうだ。「うまくいかないのー」と悩み顔でいるので、「頑張って」と声援をおくっておいた。
 問題は、未だ椅子に腰を据えたままでいる大きい男だ。モコナから視線をずらした先、赤い目がこちらを射抜いてくる。
 オレは逸らすことなく受け止め、口の両角をわざと大きく上げた。
「『黒鋼』」
 いつもより低い位置にある顔に手を伸ばし、触れるか触れないかの距離で止めた。人の体温のぬくさを空気越しに肌に感じる。こんな近いのに、男は微動だにしない。
「行く前に、身だしなみくらいちゃんとしてよ」
 彼の顔には黒いものが点々とある。手入れをしていないらしい。もっとも若いからかまだ濃くはなく、肌にこびりついたような汚らしさはなかった。かえって精悍さは増しているかもしれない。事実しっくり馴染んでいる。
「関係ねえだろ」
 指摘すると、ようやく顔を逸らした。
「あるよ。戦うって言っても、結局見せ物なんだから。そのために、こんな服やあんな武器使ってるんでしょ」
 現在、出場しているチェスゲームは、決して無制限ではない。飛び道具や毒の類いなど、殺傷能力の高い武器の使用は禁止されていた。
 その上、およそ戦闘には向かないと思われる黒尽くめのコスチュームを身につけさせる。危険性も高いけれど、ショーの意味合いが著しく強い。
 しかし、黒鋼は椅子を引き席を立つと背を向けてしまう。その先はバスルームなどでなく、彼の部屋に続くドアであった。
「知るか」
「もう」
 低い捨て台詞だけ残し、出て行ってしまう。
 ここは、室内での娯楽が発達した街だ。屋内も夜も変わりなく明るい。
 今、モコナが遊んでいるみたいな玩具だけでなく、スイッチを押すだけで映像も音も簡単に楽しめる機械だってある。彼も時間を潰すつもりなのだろう。内に引きこもりやすい環境だけは、現状には都合よかった。
 内心安堵を憶えながら「やれやれ」と言うポーズを作っていると「ファイ」と呼ぶ声が。振り返るとテーブルの上で、白い生き物がもの言いたげに動かずにいた。 
「モコナ。どうしたの。言ってごらん」
 差しのべた腕にするりと飛び乗る。重さをほとんど感じさせずに、白い丸いものがよじ上ってくるのはいつでも不思議だった。黒衣の上だと、ほとんど綿のお化けのようだ。
 いつもなら、遠慮なく顎と首の隙間に身体を押し付けてくるくせに、今日は躊躇いがちに肩で止まった。長い耳を細微に震わせる。数度言いにくそうに、口をぱくぱくと開いてから。
「……あのね。黒鋼のこと許して欲しいの」
 様子から覚悟はしていた。顔色は変わってはいないはずだ。要領を得ない振りをして、そのまま問い返す。
「うん?」
「黒鋼、ファイのことすごくすごく心配してたの。行っちゃった小狼に叫んでたときなんて、あんな黒鋼今まで見たことなかった」
 言葉で喚起された映像に、瞼を閉じたくなったのを寸ででこらえた。胸のなかにある塊がふくらみ、せり上がってくるのを無視して、表情の動きや声音、表層にのみ意識を集中させる。コツはいるが、訓練を積めば難しいことではない。
「判ってる」
「じゃあ……」
「でも、駄目だよ。無理」
 首を振ってかしいだ身体に重心を崩したのか、すがりついてくるモコナを手のひらで支える。柔らかくあたたかい。
 近くなった距離にも関わらず、オレの口の動き、瞬きも逃すまいとじっと見ている。それは、サクラちゃんの真意を殺した目、『小狼』くんの距離をとろうとする眼差しとも違う。今や懐かしい真摯で一途な視線に似ていた。逃げなかったのは、それ故だ。
「モコナ誤解しないで。オレは今でも、皆のことが好きだよ。モコナもサクラちゃんも『小狼』くんも。『黒鋼』だって。だから、こうして一緒に居るんだよ」
 五指のなかで、オレのつむぐ言葉に期待してもぞもぞしている。そのまとわせているものをはね除けるには、少々勢いがいった。
「でもね、その好きな気持ちと同じものでできてるから」
「同じ?」
「そう」
「よくわからない……」
 寂しい声。そっと机に戻すと、垂れている耳がもっと下がった。切なげに右の方を引きずるのは、付けられた魔法具の重みのせいだけでない。
 はぐらかしたようで実はそうでないのだと念を押したかったが、疑惑だけが膨らんでしまう。
「ごめんね心配かけて。あまりモコナは気にしないで」
「だけど……」
「そうだね。でも『大嫌い』になったら離れちゃうだろ? サクラちゃんも同じ。今はそっとしておいてあげて。そのうち落ち着くから……時間がくるまで、サクラちゃんの部屋で一緒に居てあげてくれるかなあ?」
「……うん」
 「サクラ」の名を出すとしぶしぶながらも、そちらに行ってくれた。器用に扉をノックし、数瞬おいて開いた隙間から滑り込んでいく。
 優しい生き物だと思う。あの魔女に対し全幅の信頼を寄せているわけではないが、モコナを創造した一点だけで、色々を差し引いてもいい。それだけの価値はある。
 一人きりになった部屋で、置いていかれたおもちゃの構造物のてっぺん、赤いものを取り去る。次は黄色を。ゆらゆらとしながらも、塔は耐え抜いて輪郭を残した。
 言われなくとも。  言われなくても、忘れられない。あれは。
 激痛を通り越し、ずっと感じていたのは頭に火かき棒を押しあてられるような灼熱と、続いて訪れた手先足先の冷たさだった。目も開けられず、指一本動かせず。混濁した意識下でぐらぐらと傾ぐ身体に、はじめは世界ごと揺らいでいるのかと思っていた。そのうちに、抱きかかえられているのだと、耳元での叫びで気づいたのだ。
 その一字一句、全てを記憶している。今も耳の奥に残っていた。魔女に指摘されるまでもない。
 俯いて顔にかかる前髪をかきあげ、布切れの上からうつろな眼窩に触れた。これを失ったのもあれだけ一途な人間に叫ばせたのも、自らの責である。他の誰も関係はない。
 あれから一ヶ月以上立つが、彼はオレに対し何ひとつ言い訳はしていなかった。だけれど、決して何も感じていないからでない。むしろ、オレに対し、行きどころのない罪悪感と苛立ちを抱えているが故だ。それでも、口を閉ざしたままだった。
 オレは彼のように沈黙できない。見苦しく口数が多くなる。取り繕うため、笑ってしまう。平気を装いたくなる……それをどう呼んだか……確か。
 慣用句を思い出そうとし気がまわらなかったせいか、続けて取った緑のおもちゃで塔は一気にバランスを失い、崩れ落ちてしまった。いやな符号だった。
 ただの残骸になったおもちゃの一片一片を、あらためて手のひらに集めだす。じきにういっぱいになったそれをケースに戻し、また繰り返す。発つ時間は、まだ大分先だった。



 扉の先、廊下の方から水音が響く。濡れた髪を手櫛で梳きながら、身体を洗っている頃かと想像した。
 風呂は意外と好きだったが自国風らしいじっくり浸かるもの限定で、ここのようなシャワー主体のバスルームを使うときにはかなり早い。ほどなく、上がってくるだろう。
 もう、子どもたちは寝ているので、オレ一人の部屋だ。モコナはサクラちゃんと一緒のはずだった。
 今日も変わらず退屈な試合だった。勝敗はあっという間に決まり、控え室ですれ違った人間に「あんたたちが強いのは判ったから、もう少し長引かせて俺たちを楽しませろよ」と揶揄されたほどだ。
 とっとと終わらせたいのはやまやまだが、決勝の舞台にのぼるにはまだ一ヶ月以上はかかるらしい。ぬるい前哨戦がまだまだ続くのだ。
 そんな風だから、オレを含め一行の疲弊は薄い。しかし、盤上の上でも下でも、皆言葉少なだ。今日も、早く帰ってきたのにも関わらず、食事を済まして風呂を使い必要最低限を終えると、それぞれの部屋に籠ってしまう。今夜もそんな具合。
 間接照明だけにした部屋に、オレの影がひとつきり伸びている。まだ髪が湿っているので、結わえずにおろしていたせいか、シルエットはまるで違って見えた。
 オレもできるなら彼が戻ってくる前に逃げ出したい。今も迷っている。サクラちゃんと同じ手段をとってしまいたかった。それはとても簡単なことだ。
 だけれど、避けるだけでは駄目だ。旅の道程を繰り返すだけでは。
 もし、また逃げるのに失敗すれば、あの「東京」での夜──両目はまだ揃っていた──掴まれて向き直される。そこで、また話をはぐらかすことができるかどうか判らない。
 オレの背後から迫るいくつもの手のなかで──少なくとも現在は──左手のひらに傷を残すそれが、もっとも肉迫し脅威だった。
 バスルームが静かになったのも束の間、足音が近づいてくる。扉が開くと、そちらへ笑いかけた。
「水割りでも作ろうか」
 まだ髪先から雫をしたたらせている男はオレに目もくれず、オープンラックからグラスと酒瓶を一つずつを片手で取った。ガラスがぶつかる澄んだ音。湯上がりらしくゆったりとした白いシャツを着ているが、左手首のリストバンドは付けたままだ。
「いらねえ。余計なもん混ぜんな」
 そして、器用に口で瓶の蓋を取ると、琥珀色の液体をとっとと手酌で注いだ。足も止めず私室に入った男の後ろにオレも滑り込み、ドアを後ろ手に閉ざす。
 居間も暗かったが、ここもそう変わらない。付けっぱなしの電気スタンドの明かりは申し訳程度に周囲をほのかに照らす。カーテンがかかっていない窓外の方が明るい。
 もっとも、この街は昼よりも夜の方がまぶしいくらいだったが。
 やや黄ばんだ元は白いはずの壁と、ベッドに椅子にテーブルとクロゼットが一つずつ。
 テーブル上には、昼間使ったのか鋭い小刀が置かれたままになっていた。白銀が窓外の人工光を受けきらめいて、簡素な部屋に色を添える。備え付けの家具しかないが、他の部屋も似たようなものだ。
 不思議なもので、つい先日まで無人だった家なのに、各々の部屋に主の匂いがもう染み付いている。そして、男の香しかなかった部屋に、アルコールのそれが充満しはじめた。
 侵入者を咎めもせず、部屋の主は窓際にあるこの部屋唯一の椅子にどっかと腰を下ろす。サイドテーブルへ置かれた瓶を、わざとらしく持ち上げてオレは言った。
「この酒強いんじゃない?」
 飲むことはできないが、匂いで酒の強さは大体判別はつく。気化した香りが鼻の奥で焼ける。
「…………」
 無言。
 その半透明の液体を揺らし、透かしながらオレは畳みかける。
「せめて、水を飲むか。つまみをちゃんと食べてよ。間に合わせでできる範囲で、好きなもの出すから」
 この世界に着いてからだ。あのときはまだホテル住まいで、彼が通りの酒屋から酒を手に入れて来たんだった。二本買ってきた片方を、オレに押し付けるので、何の感慨もなくそれを返した。「必要ないよ」と。
 一瞬の出来事だったが、そのとき浮かべた表情。それは、あの石づくりの寝台で目覚め、名を呼んで以来。
 その後彼は油断を見せてはいないが、あの感情の揺れは本物だった。食事や酒の準備など、ただただ佇むだけのオレを目にし、何も思っていないはずがない。ふとした日常から綻ばせた悔恨の念に、こうして付け込み続けている。
「いらねえ」
 そっぽを向いたまま、グラスに口を付けた。
「胃、荒れちゃうよ」
「知るか」
 目を合わせもしない横顔を、外の赤っぽい照明が照らす。
 多少色は変わって見えるものの、微かに日に焼けた黄味の強い肌だ。故郷の国ではありえない肌だった。陽光を相当量浴びないとこんな色にはなれない。風呂で手入れをしたのか、昼間とは違いひたすらに滑らかだった。
 薄茶の酒のフィルターを通してみると、まるで夕焼けの中にいるよう。あれだけ焦がれた太陽と重なり、その質感にしばし見とれ思わず言葉が零れる。
「今日の昼間といい、たいした手間でもないのに面倒くさがっちゃって」
 そうすると、黒鋼の眉が片方だけ上がった。
「うるせぇ。前からいつも……」
 怒声は最初こそ勢い良かったが、語尾にかけ消え失せていった。
「前?」
 見当がつかぬ風を装って、そのまま問い返すがつれない。黙り込んで、再び明後日の方向に顔をそらした。
 憶えているよ。
 あれは高麗国でのことだった。異邦人であるにも関わらず、周囲に気をつかわない君をたしなめたっけ。言葉だけだと聴いてくれなさそうだったから、不意をついてあんな嫌がらせをした。
 思い出した光景に、脳裏の叫びが重なった。あの頃はオレをずっと警戒していたんだった。
 サクラちゃんや小狼くんとは異なる視線、一挙一動を伺う気配を常にまとわせ、振り上げられた手には明らかな敵意がこもっていたはずだ。
 あんな些細なやりとりを憶えていたことにも驚きだが、問い返したときの奇妙な間は何だろう。
 いつから、こんなにも変わってしまったのか。そのことこそが、オレの悔悟だった。
 巡らす思いを伏せ、呆れのみを装い首を振る。
「いいよ。適当に見繕ってすぐ持ってくる」
 踵を返しかけた途端、背中から「待て」と呼び止められる。素直に振り返れば、左手首のリストバンドに指がかけられたばかりだ。
 角張った爪先が布をひっかけてずらす。現れた肌には、幾重にもなった傷が刻まれていた。肉色が生々しい新しい傷も多いけれど、たくましい男の腕にあるせいか自傷めいた痛々しさは薄い。
 露になったそこに、テーブルにあったナイフの鋭い刃が当てられ、またひとつ傷が付けられる。一筋の切れ目が作られた刹那、鮮明な赤がすぐにその浅い谷間を満たし、溢れ流れはじめた。
 見慣れた光景だった。なのに、半ば空然とし目が離せなかった。
 鮮明な赤と共に臭気が空に帯び、鼻孔に届く。鉄の味が舌に蘇り、吐き気を催すどころか、真っ先に食欲と結びついた。鮮血が数筋手のひらの方へ垂れはじめたが、黒鋼はそれを拭いもしない。
 口で摂取するので食事には違いないが、常人のそれとは根本的に異なる。
 娯楽や味などは必要としない。他に選択肢はないのだから。けれど、それを悔しいとも微塵も思わない。草を食む獣や乳を飲む赤子と同じで、はなから選択肢にないのだ。
 空腹というよりも乾き。しかも、それを癒せるのはただひとつしかない。こんな享楽的で裕福な街なのに、オレの飢えを満たすことができるのは唯一この男の血だけだった。
 回想するのは、東京の人々だ。降り続ける雨は肌を焼き、地下の水のみで生命を繋ぐ。オレを構成する大半は生まれた世界へ。そして残りは、まだ砂の国に置き去りになったままだ。左の眼窩だけでなく、この世界に立つ自身もまるで空虚だった。
 赤い目だけで「来い」と。誘われるまま、そちらに。近づくと腰を上げる素振りを見せたので立たれる前に膝を付いて、椅子に身体をつなぎ止めるために、彼の腿へ両手を置いた。わざと爪を立てたが、膝の上にある手首は動かない。
 静止した周囲に比べ、暗闇に流れ続けるものが余計に鮮麗だった。
 そこに顔を近づけて、真紅の道筋を舌で出迎える。真っ先に感じたのは生あたたかさと、水にはないとろみだ。味はただの鉄の味で、これは以前と変わらない。
 そんな味気なさなのに、一滴嚥下した途端、臓腑の奥まで滲み渡っていく。空っぽになったオレの中身を埋めていく。そんな錯覚をするくらい、強烈な体験だ。
 「もっと」。思考がその語句に埋め尽くされる。
 零れた血を舌ですすりつつ進んで、辿り着いた真新しい傷口。最初はぬるかった血が終着点に近づくごと、熱くなるのだ。その温度こそ、求めてやまなかった核心だった。家の暖かさ、春の訪れ、天からの光明。何より、生命の証拠に他ならない。
 だけれど、いつもいつも我に返るのはそのときだ。まだすすっていたい劣情をとどめ、名残に傷の表面を舐めて頭を上げた。
 最後の攻撃に多少の痛みは感じたと思うのだけれど、爪先を立てたままの足は緊張していない。ただただ冷静に左腕に右手をあて、止血をしている。一連の行為全てが、オレたちの日常だ。
 はたしてどんな心持ちかと想像するけれど、口に出しては聴けなかった。それは、あちらも同じ立場だ。当初血を拒んだオレが、むしろ進んで血液を口にしたことを不思議に思っているだろうに。
 目を逸らした隙に、口角あたりを不意に何かが触れていった。指だ。
 くすぐるようにされ離れると、触れていた人差し指と中指の腹がどす黒く汚れている。血を拭ってくれたらしい。
 はじめは、何ごとか判らずにあっけにとられていたけれど、ややあって笑った。
 こみ上げてきたおかしさがどんどん膨れ上がっていき、オレはついに喉奥で声を立て笑い出した。ふとした優しいふるまいが、男自身にも漂う雰囲気にもまるでそぐわない。
 そんな奇妙な発作の最中、震え続ける肩を押される。そして、未だ上下する胸部に這わされた。
「ちょっと」
 近づいた顔をやんわりと押し返す。
「口のなかに、まだ血が残ってるから」
 「吐いちゃうでしょ?」と、 ふさがれる寸前の唇を左の耳もとへ寄せた。
 一応、言ったことは事実だ。まだ舌の上には鉄の味が残っているので、常人が口にすれば吐き気をもよおしてしまう。
 体のいい言い訳をどう受け取ったかは知らない。表面上は従順で、それ以上は求められなかった代わりに、シャツの前ボタンを外していっている。前がすっかりはだけられたところで急に身体が浮きあがったかと思えば、空いていた腕がオレを抱え込んで引き上げていた。
 横座りに膝に降ろされながらも、やわい耳たぶを嬲り続ける。太い首、厚い胸板。たくましい身体に似合わず、こじんまりとしつつも肉厚なそこを吸ってると、時折肩甲骨が不自然に軋んだ。
 そういった反応も楽しみだが、僅かでも手綱を握っておきたいのだ。東京ではじめて身体を重ねたときから、心がけている。翻弄されるまま流されてしまうと、その後どうなるか考えるだに恐ろしい。
 自分がされていることをなぞらえ、前立てから中のものを引きずりだす。指の輪でしごきはじめると、オレのをしている動きが少しやわらいだ。
 実をいうと、彼の仕方はオレにとって性急すぎた。痛みはないが、急激に高められ息が詰まる。きっと、自分でするときのスピードと強さだ。オレとしては、今先走りを絡めながら上下している程度の緩慢さが丁度いい。
 呼吸を整えつつ、五指を狭め追い立てる。早さと強さは、さっきオレがされていたよりも、やや増し程度に。きっとオレと同じで、自分でするよりも若干激しいくらいが乱れ易い。
 思惑があたったのか、じきに真一文字に引き結んでいた唇が解け息をつきだしたが、抗議はされなかった。額から汗が一筋落ちていく。
 肉塊が膨張し、一往復ごとに濡れそぼる。粘膜が限界寸前まで張り詰めだすと、再びオレに施される愛撫の激しさが増していく。閉じたままの左瞼裏に、過ぎた快感のせいで白い光が見えた。
 声が切羽詰まった風に掠れぬよう、舌にのせていた唾液を嚥下する。
「……待ってよ」
 達する直前、耳たぶから口を離して腰を浮かせる。脚をずらして尻の位置を変え、腿上で向かい合う姿勢になった。身体だけでなく、密着したふたつを重ねて扱き立てる。こすれる胸もうっすら汗ばんでいた。
 舌は、愛撫していなかった右の耳朶を。まだ乾いたままのそこをねっとりと舐める。
 腰にまわされた大きな手が閉じていたところを割り広げ、入り口を撫でた。たったそれだけで、喉が仰け反りそうになる。
 暗闇のなか、すぐ横で引き出しが動く音。ついで続くのは、何か容器の蓋をひねる気配だった。全てオレの背中越しに行われている。
「……ッ」
 水とも血とも違う粘性の高いものが擦り付けられた。おそらく軟膏だろう。
 けれど、突然の冷たさに身体が前へ傾いだ。くっついていた鈴口も行き場所がなくなって、互いの腹にぶつかってしまう。腰から下肢にかけて、広がる鈍痛。低い呻きが漏れたのが同時。男二人分の重心が揺れ、安定していた椅子が悲鳴じみた軋みをあげた。
 「ごめん」と、素直に詫びて、今度は手でなく下肢をまわし、粘膜を密に合わせていく。穏やかすぎるほどの前戯だったが、まだ萎えてはいない。もうやみくもに高ぶらせることが必要な段階ではないので充分。
 粘液を帯びた指にも焦心はなく、周辺と入り口を這うだけだった。
 けれど、侵入がなくともそこは弱い、後ろをぐるりとさぐられ、内側の感じる部分を外から押される……臆面もなく左右に首を振って声を張り上げ、取り乱したい。それを堪えるため、薄い耳殻に歯を立てる。
 早る心とは裏腹に、まだそのままの状態が続けられた。早く、早くと懇願したい声を殺すあまりきゅうっと切なく緊張する喉に「おい」と、呼ばれる。
 顔を横に動かせば、至近距離に赤い目があった。下半身とは真逆で、冷静に見える。双眼がすっと右に動いた。ベッドがあるのだ。真意をはかり、かぶりを振った。
 最初から、気遣われっぱなしだ。東京ではじめて血をすすったときからだった。
 生理的な充足感に押し黙ったままのオレに、どうでもいい数言を投げたのだ。
 具体的にはよく憶えていない。「もういいのか」とか「済んだならとっとと寝ろ」だとか。
 ありきたりな内容と最後に背中にかけられた手が、奇妙に睦言めいていて。今夜のようにおかしくてオレは表情を変えずに心中で笑った。
 不釣り合いなせいだけでなく、そんな細やかな優しさがオレに向けられたのは今日がはじめてではないのだと、あらためて気づいた自嘲だ。
 当初の不審が解け親密さに変わったのは、単純に好奇心からの詮索か、彼の性質に由来するものだけだと判断していた。随分深い場所にまで踏み込まれていたなど、思いもよらなかった。
 いや、おそらく「気づかなかった」のでなく無意識下で「気づかなかった振りをしていた」のだ。こんな、あからさまな感情を判らないはずがない。
 楽しく安らかなぬるま湯の日々。現実を直視せず、長らく目を閉じ続けていた。
 そこで、ふっと目頭が熱くなり泣いているのかと、手を当てるが涙は出ていなかった。でも、熱は錯覚ではない。肌の触れた部分だけ火の熱さだった。
 すぐに離すのも不自然に思えしばらくそうしていると、手首を掴まれたのだ。伏せた目元よりも体温が高い。接触それ自体よりも、そのあたたかさに驚いた。
 本当はすぐに振り払うべきだったと思う。
 しかし、オレはまたしても抗うことができなかった。咄嗟の機会を逃し、合わさないようにしていた視線が絡んだ。鮮血に浸した唇が続けて味わったのは、乾いた皮膚とは異なる粘膜の質感だった。
 それきり、言葉もないが和解も歩み寄りも一切ない。最中に交わした会話といえば、彼が止まりかけるたび「続けて」と、オレが数度繰り返しただけ。
 手順も不慣れで潤滑剤も用いていない行為だったから、後半にさしかかった以降は、痛覚がオレのなかに埋められるばかりになった。眉を寄せ、身体が震えるごとに、上になって状況を支配しているはずの男にためらいが浮かぶ。
 痛みは常にあった。蠢くだけで、下肢を中心に内蔵が引きつる鈍さと内壁を抉る鋭さが訪れる。痛いだけでなく、息ができなくなった。意識していないのにあえいでしまい、本能が身体を必死に逃がそうとしていた。
 その頃にはすっかり醒めてしまい、中断の申し出の文句が幾度となく脳裏を走った。
 いっそ告げて楽になろうと食いしばる歯列が緩みかけるタイミングで、額に頬に鎖骨のくぼみに水滴が垂れる。真摯さを映しとったかのように透明で、表皮でぬるまった水だ。
 汗が落ちるたびに、オレは不自由な体躯を動かしてそれを拭うことを繰り返す。
 嫌悪感ではなかった。
 肌を凍らす冷たい雪でなく、全てを焼く降りやまぬ雨でもない。真逆だ。
 身体で受けるものの甘受してしまうことが恐ろしく、慌てて擦り落とす。何度も何度もそうしているうちに、皆終わった。
 それを、拒絶を逸してしまった言い訳にした。
 済んだあと意識を手放した振りをしていると、黒鋼は離れていった。
 そのまま様子を伺っていると再び戻ってきた。広げたままだった足が揃えられ、横たわった身体が宙に浮く。それも束の間でまた元の場所に降ろされる。シーツ代わりに使っていた服を直されただけらしい。血や別のもので汚れた部分を拭かれたが、水も薬も使えないので、簡単なものだった。
 そして、乱れた着衣を元に戻され、シーツがかけられる。このまま立ち去るのかと思っていると、頬に手があてられたのだ。指の腹が、頬骨やこめかみ、おとがいなどあちこちを擦る。汚れを落としているのだと思ったが、力はあまり入れられず。愛撫でもなかった。
 されるがままになりながら、ようやく彼が汗の零れた点を追っているらしいのが判った。とっくに乾いてしまっているから、そもそも意味はない。点々と何カ所も辿られているなんて、まるで贖罪を請う巡礼だ。
 オレの所作は、俯瞰からどんな風に映った? 普通なら、嫌厭したと捉えるべき。でも、違う。
 彼が投げた言葉、成したこと。後悔すべきものなど何ひとつない。全てが誇るべき、生命由来の慈雨だ。
 そんな、たった一言で終わらせられるのに、それを発することができずに、負け惜しみや嘘で誤摩化す──ああ、何といったあれは──。
「……!」
 語句が浮かびかけたのに、たった一本の指で現実に引き戻された。
 慣らされる際、穿たれるとき、それぞれの瞬間は、まだ若干のつらさが先に立つ。
 嬌声はあげずに済んだが、指の節々がくぐるたびに背筋に甘い衝撃が走る。首にまわした腕と、歯列をあてた耳に神経を集中させ気を逸らした。
 本数を増やされるとどうしても圧迫感はあるが、最初よりは大分楽になる。ただ、深いところでばらばらに動き出すと厄介だ。意図的でなく、不意にあたると対処に困る。奥歯を噛み締めているしかない。二本一緒にしごいていた腕を離し、両腕でしがみついた。
 肩越しの風景には窓の外と椅子の背が見えるのだが、黒鋼の背は椅子のそれに預けられてはいない。察せられないよう擦ると、背筋も腹筋も大人ひとりを支えるために張りつめている。
 だが、これも気がつかなかったのを装い、さもけだるげに顎を肩と耳の間に載せた。狭い空間に頭を落ち着かせて、肉体のなかがかき乱される違和感を堪える。周囲の皮膚が限界近くまで広げられているのを感じた。
 切れる。そう思うことも幾度かあったけれど、黒鋼が手首をぐるりと返すことすら、柔軟に受け入れている。その間隔がどんどんと狭まっていくごとに、次の段階にうつることを意識した。
 腰をつかむ腕に力が入れられ、全てが抜かれた。下からせり上がる圧迫感が消え失せ空虚になった。心なしか寒さを感じ、身震いしそうになる。
 しかし、まだ終わりじゃない。高めた自身も、もっと先をと先端を濡らしていた。
 億劫だったが、いざ両足に力を入れると不自然な体勢でいたせいか、うまく立てない。中途半端に脱がされた着衣を取り去って全裸になると、眼前の肩を頼りに身体の正面を反転させた。
 後ろ向きになおろうとするオレの意志を察したか、後ろ手に探ると既に目的のものには手が添えられている。腰骨を再度掴まれて、降りる場所を調整された。
 オレが姿勢を崩して揺れたせいか、見当外れの場所を一度擦った。大きいくせにあてられる肌触りは、指よりもつるりと馴染む、濡れているからかもしれないけれど。迎え入れるのは、話は別だった。これは凶器だ。
 普段よりも大きく深く呼吸しつつ、微妙に沈みこむタイミングで据えていく。身体を二つ折りにされる無理はないが、進むも逃げるも自分次第だということに羞恥が伴う。
 先へ進めないのは、踏ん切りがつけられないからと、今のままでも──まだ先端しか入っていないのに、そこそこの快感が与えられているせいでもある。
 ふっと、胸をよぎったのは、このまま果ててしまいたいということ。それなら、オレは苛烈さを味合わず終わらせることができる。
 だけれど、オレを支える手は無理強いこそしないが、指先に込められた強さに切実さがあった。中のものも、もっと奥に行きたいと、びくびくと痙攣し訴えている。
 深呼吸に大きいため息をまぎれこませ、覚悟を決めた。身体の重心を下に傾けていく。 「はあ……あ、あ……あ」
 一番張ったところが入っていく瞬間は、我慢していた声をわざと漏らしてやり過ごす。こうすると、気がまぎれていい。あとはスムーズだ。黒鋼の胸に背中にがくっつく頃には、くつろげられた道がまたすっかり塞がれてしまった。深くなりやすい格好だけれど、床についている両足でぎりぎり踏みとどまる。
 「動くよ」と、後ろには選択肢を与えないまま宣言した。
 腰を上げて降ろす。単純な動作だった。
 なのに、それを続け内壁が摩擦されるだけで体内に熱がこもる。急上昇した熱気が炎となり血脈を通り抜け、全身を焼かれている。潤滑用の軟膏のおかげで、痛みはほとんどない。
 下腹で勃ちあがったものも身体につれて揺れながらも、また大きくなる。引いて奥にいれるたびに、透明な涙をこぼしつづけていた。
 喉を外気に晒し、顎を上げると顎下の隙間に風が吹き込み、多少は冷やされる。髪がはらはらと、背後の男の肩から胸元にかかった。
 オレからは何も見えないが、あちらからオレの様子は丸見えだったろうか。
 どうにか気勢を奮い立たせ、膝で踏みとどまった。身体を支えているのは、崩れそうな両足と、またがった腿についた両手と鎖骨あたりに押し付けた後頭部。あまり汗はかかない体質なのだけれど、肘裏や鎖骨の窪みに汗が溜まる。
 自分が終わるのは簡単だ。核心に当たるところに導いて、腰を揺らしねじ入れてしまえばいい。でも多分「まだ」だ。
 首を逸らす角度を大きくすると、やっと黒鋼の顔が見えた。こちらを見ていたからすぐに横を向いてしまったけれど。
 けれど、赤い目と男くさい顔が欲情しているのはよく判ったが、やはり「まだ」だった。理性をなくす寸前の、追いつめられた色には遠い。今すぐには終われない。
 多少、がっかりしたかもしれない。オレはもう限界に近かった。
 けれどそれは漏らさず、身体を支えている汗ばんでいた手をいったん腿から離す。すぐに持ち直すつもりだったのに、そのまま宙をかくことしかできなかった。
「あ! んッ!」
 声帯から絞り出される、生理的な悲鳴。最初は自分がバランスを崩して後ろに倒れ込んだかと思った。重い衝撃が下から、足先に抜ける。それが去り、後ろから片足の腿裏を持ち上げられたのだと気づく。抗議もできぬまま、残った方も同じように。
「ッ!」
 眉間のあたりに閃光が見えた。目がくらんだ。酷くあっけなかった。
 結わえていなかった髪が顔にかかってしまい、よく見えない。
 でも、確認しなくても判る。オレに絡みつく身体と、それに添ってかかる重心と無理な体勢に軋む関節。そして、白くべったりとしたものが下腹を中心に、吐き出されているだろう。
 ぜいぜいと、快感の余韻と急さに息を吐きながら首を振って髪の束をはらった。両足を腿裏から抱え上げられる格好にされたまま止まっていたのに、オレが身じろぎしたせいか、ゆっくりと揺らされだす。
 男の腕は太くたくましいが、人ひとり分の体重がかかり動くと、肌がひきつれて痛い。背中を弓なりにし身体を密着させて、重心を逃がそうとする。どうにか抜けようとするけれど、さすがに力が入らない。
「いや……だ……」
 訴えるけれど、全く取り合われない。しかも、オレを抱えながら、萎えはじめているものを弄りはじめた。感じやすくなっているそこが、みるみる熱くなる。
 おそるおそる顎を引いて眼下に視線を運ぶと、真っ赤に充血した粘膜が身体と触れる手に添って揺れているのが垣間見えた。周囲に散った白い液が偽物みたいに、ぴんと張りつめている。指を外そうと手をかけたけれど、それを振り払うためか、逆に早さを増してしまっただけだった。
 芯から貫かれ腑を押し上げて上がる声は、声にもなっていない。聞き入れられないのは判ってはいるものの「いやだ」と繰り返したいのに、一語が繋がらないし、発音すらうまくできないのだ。
 オレの鼻にかかった意味不明な言葉とぐちゅぐちゅという濡れた音が続く合間、胸にも手が這わされた。少々の愛撫が施されただけで放っておかれたのに、まだ堅くしこったままだ。親指でぎゅうっと押し込まれるだけなのに、切ないほど体内に響く。全く関係のない器官なのに、その間にも擦られ続けていたところもつられて熱を増していった。もう一度見下ろすと、鈴口がひっきりなしに物欲しげに口を開閉し、先ほどよりずっと赤くなった表面よりも鮮やかな肉色の内部がさらけ出されている。透明だった雫にも、いつの間にか白いものが混じっていた。
 それっきり、嬲られている三ヶ所と、うなじから肩にかけて感じる背後からの荒い息と歯と舌しか思えなくなった。拘束された手足の不自由さなど些細なこととなり、与えられる快感に存分に酔う。
 よがり声は上げず「やめろ」と繰り返そうとしていたのは、最後の理性だったけれど、最早何の制止を求めているかも判らない。
 昂っているのは確かなのだけれど、単純な吐精感からはどんどん遠ざかり、ぎりぎりにまで追いつめる、それは何とも形容しがたい。はじめて味わったときは混乱してしまい、事後の顔を見られたくなくて、慌てて部屋をあとにした。
 ようやっと解放されたのは、ひときわ激しく突き入れられ内部のものが膨張したあとだ。オレも肛悦の絶頂を味わった。浮いたままの両足指が開き、ふくらはぎが不規則に痙攣する。黒鋼の胸が上下するのに伴い、背中を付けたオレの身体も動く。朦朧としている意識のせいか、まるで緩やかにたゆたう水面に浮いているみたいな心地だった。
 ずるりと抜かれると、内部から液体が内股に零れる。うなじに噛み付かれるような口づけを続けられたまま、手を動かされ二度目の射精を迎えることができた。後戯めいた事後処理だ。
 そして、横抱きにされ脇のベッドに転がされる。クロゼットの開く音。壁に向かされた身体をごろんと反転させると、タオルを持った男がいる。
「自分でするよ」
 そう手を伸ばすが、ベッドの端に腰掛けた男はまるで聴かずに、オレの裸体を拭いだす。
「やるって言ってるのに」
 顔から、胸。腹を通り越して足へ。手足を済ませると、見た目には一番汚れている腹だ。布の端できつく擦る。素早いが乱暴ではない。局部に触れられたときは、一瞬震えたが、あくまで機械的な所作だった。
「自分には手を抜くくせに随分気がつくんだねえ『黒鋼』」
 つぷりと、まだ多少の緩みが残る穴にタオルを巻いた指を差し込まれる。乾いた布地が擦れると辛かったが、口角を上げたまま。
「……またしたくなったら、言ってよ。余裕あるんでしょ?」
 オレに喋らせたまま、奥を探っている。愛撫ではないし、意図的に局所はずらしているからちっとも感じないが、気持ち身体をくゆらせた。
 返事は期待していない。ふとした沈黙が恐ろしい。オレがこうして間隙を与えなければ、踏み込まれることもない。
 もし一度でも許してしまったら、その刹那。もろい楼閣じみた縁は瓦解する。オレたちだけでなく、この旅自体に影響する崩落だ。
 互いにそれを恐れ、かつ機を伺っているのだ。オレは意味のないことを話し続け、彼はそれをじっと聴くだけ。
「悪いね。眠くはないけれど、まだ動けない。ちょっとだけこのままでいさせて」
 すっかり清められた身体にシーツを纏う。これは本当だ。
 胸にまでシーツを引き上げると、黒鋼はどっかと先ほどまで情事を行っていた椅子に尻を降ろした。なにもまとっていない上半身を外の明かりが照らす。まだ汗で湿っているらしく、身体を重ねる前と微妙に質感が異なっていた。
「『黒鋼』。汗ふいてよ。風邪ひいても知らないよ」
 余所を向いたまま、飲みかけのグラスを傾けている。
「『黒鋼』」
 眠くはないといったが、横臥していると自然と瞼が重くなっていく。段々と暗く狭くなる視界。今日見た光景が目まぐるしく浮かんでは消えていった。
 そんななのに、オレはもう一回「『黒鋼』」と彼の名を呼んだ。こんな場面なのに、響きは甘くない。一言でも多く話していないと、いたたまれなかった。
 意識ごとベッドに沈む間際に、ふっと閃いた。ああ、思い出した。オレにぴったりの言葉だ。
 捉えられ、引かれながらも騒ぎ続ける。どうして罪人がそうまでして強がり続けるか、オレは誰よりもよく知っていた。黙ってしまったとき、それが刑を執行されるときなのだ。それで、怯えながらも喋るのだ。
 この旅をはじめたときから、オレはずっと笑っている。この笑みが強張ってしまえば、旅だけでなく長かった生の終焉なのだ。
 そのこと自体は怖くない、むしろ待ち望んでいたもの。
 けれど、サクラちゃんや小狼くんにモコナ、そして『黒鋼』。彼らに蔑まされるか同情をされるのは、堪え難い。そして、皆が傷つくことも。
 暗転した世界で手が何かに触れる。いや、誰かがオレの手を握っていた。
 あたたかい。だけれど、それこそがオレを刑場に引いて行く手だった。一歩一歩確実に破滅へと近づいている。
 だから、君はオレの戯れ言を聴かなければならない。聴いて聴いて聴いて、オレに愛想を尽かして、手を離してしまえばいい。
 もうオレは身体を動かせないから、されるがまま。彼が離れていくその瞬間だけをずっと待ちわびていた。








07.06.30
書きはじめたのは3月。途中中断して、一気に書き上げようとした5月6月で、原作の過去編が進んでしまい色々収集がつかなくなったり、延々と書き直したりした一品です。