店の周囲には豚骨由来の濃厚な匂いが立ちこめている。
若者の多い街の大通りにあるはずなのに、その近辺だけ女性はまばらで「こうじゃなくっちゃな」と体育教師は上機嫌でいた。
別に男尊女卑の気は毛頭ないのだが、甘ったるい匂いとかきめ細やかなサービスだとか甲高い声のおしゃべりだのと無縁の空間がもっとあってもいいではないかと常々考えている。世の中は流行に迎合しすぎだというのが、その弁だ。何軒か行きつけのラーメン店は持っているが、いずれも凋落はなはだしい。
学生時代から通っている一駅隣のラーメン店に先日訪れたときなんて、出入り口にざっと10人は並んでいるというのに、隣に座った女性ふたり連れは食べ終わったあとにもだらだらと10分以上の雑談に興じ、片方ずつ化粧を直しに手洗いに立ったりしていた。あのときは万感交到り、ひとつの時代が終ったのだと悟ったのだった。
しかし、この駅裏にある小汚い店に関してはそんなことはない。今や聖域といってもいいだろう。
休日の午後、アルコールを交えた自堕落な遅い昼食をすませるにはこれ以上の場所はない。まだ飲むどころか注文してもいないのに、麦芽由来のアルコール飲料が喉を流れ落ちる刺激が、幻覚として感じた。
「おい、食券寄越せ。食券……って、お前ラーメン食わねぇのか」
10年前から変わらない紺の暖簾をくぐり、化学教師から紙片を数枚受け取った体育教師は眉間の皺を深くした。頭ひとつ下からのほほんとした声が届く。
「ここの店、オレラーメンよりも、チャーシュー飯と餃子が好きでー」
受け取った食券は、炙りチャーシュー飯と餃子(6個)とビール(小)が3枚の計5枚。ちなみにビールが小なのは「なるべく冷えたものが欲しいから、大ジョッキは頼まない」という彼自身のポリシーによる。不経済だと何度か注意したが、改善には至っていない。ともかく、今の問題はそこにはない。
「……ラーメン屋来てラーメン食わねぇでどうすんだ」
それは体育教師の美意識に反することだった。ラーメン屋でラーメンを食わずしてどうするのか。ハンバーガー屋でハンバーガーをオーダーしないのとは訳が違う。袈裟懸けに斬って捨てられても文句は言えまい。体育教師にとっては、それくらい重要なことなのだ。
「いや、だってー」
だってもくそもねぇだろ、という言葉をどうにか飲み込んだ。一応ここは飲食店だ。それくらいの分別はある。
そして、文句を垂れる代わりに、席を案内するため出迎えた店員に自分の持っていた替え玉券を渡し、キャンセルを申し出た。
「仕方ねぇな。俺の替え玉キャンセルするから好きなラーメン一個追加しろ。食えなくなったら、残りは俺が食ってやる」
「はーい」
黄色い頭が、店内外に据え付けられた食券売り場に向かうため、するりと暖簾とすりガラスの向こうに消えて行く。そして、それとは入れ替わりにゆらゆら揺れる暖簾から同じ顔が現れた。だが服装は違うし、別の人物であると黒鋼は知っている。まとっている雰囲気が異なった。
肩が触れ合った化学教師と目が合って何ごとか理解したように、ふっと笑う。あり得ない話ではあるが、この双子に関しては言葉以上のものが介在しているのではないかと、黒鋼ですら感じることもある。
今回も黒鋼は何も発していないのに、化学教師の双子の片割れであるユゥイは、取り次ぎの店員でなく黒鋼に食券を渡した。まるで、先ほどファイに「食券寄越せ」と指示したのを聞いていたかのようだ。
「オレはこれ」
白く細いたおやかな手がおしつけてきた紙は全部で7枚。ひとりで食べるには多すぎると……深い仲であるところの兄とは違い……こちらは検閲するつもりはなかった黒鋼だが、確認のためまじまじと小さい文字列をみつめた。
「……ラーメン2杯、豚骨味玉と焦がし醤油全部のせとネギ増量に替え玉、特製焼き飯とチャーシュー単品と杏仁豆腐でいいの、か?」
日本に帰国してから日が浅いので、日本のラーメン店独特のオーダー方法に不慣れだったかもしれないと読み上げるも、ユゥイは涼しい微笑を浮かべたままだった。
「あ、はい。仕事柄外食したときにはなるべく沢山食べて味をみてみたいんです。そうそう、焦がし醤油を最初にお願いします。麺は最初は普通、二杯目は固め。替え玉分は二杯目のあとに言います。ネギ増量は焦がし醤油の方です」
しかも慣れたもので、矢継ぎ早に店員へと詳細な注文をしてみせた。ラーメン屋ははじめてといった風情でない。むしろその逆。
黒鋼どころか部外者の店員ですら、この細身の青年の身体のどこにこれらが入るのかと、目をしろくろさせている。
その肩越しに、戻ってきたファイがひょっこり顔を覗かせる。途中から話を聞いていたらしい。
「その代わりユゥイはあまり飲まないよね」
「酔うと味覚が鈍くなるしね。そもそもファイは飲み過ぎだよ」
「……これで全員だ」
頭を抱えつつも店員に人数を告げ、案内された4人がけのテーブル席で、化学教師の追加分の味玉豚骨1枚と自分の食券……豚骨辛みそ風味全部のせとチャーシュー2倍盛り、ビール(大ジョッキ)の3枚を加えたものを店員に全て渡し、一息に氷水を飲み干した。落ち着け自分。冷静になれ俺。この双子と関わってしまった以上、この程度のこと日常茶飯事ではないか、と。揺らぎだした聖地の土台に踏ん張っているかのように、歯を噛み締めた。
「黒様よっぽど喉乾いてたんだねー」と、黒鋼の隣に座ったファイがテーブル備え付けの水差しを持ち、かいがしくお代わりをそそいでいる。それを対面席で優しくみつめていたユゥイが不意に立ち上がった。
「ちょっと失礼」
長椅子側から、狭いテーブルの隙間をすり抜け出入り口の方に歩いていった。
「どうした」
「あれじゃない?」
椅子に座ったまま見やると、どうやら食券販売機前で途方に暮れていた外国人客に詳細を指南してやっているようだ。体育教師と化学教師は出入り口を背にして座っていたので気付かなかった。
白人男性ふたり、女性ひとりの3人連れは、無事目当てのものを買えたようでユゥイに感謝の言葉を述べているようだ。
「いいとこあんじゃねぇか」
「オレの弟だもんー」
にへら−と微笑むファイにあえて同意はせず見守っていたのだが、外国人3人と一緒に暖簾をくぐった白い男はこちらではなく、店内中央にあるコの字型カウンターの向こう側に迷いなく歩いて行った。
「あれ?」
「手洗いにでも行くんだろう」
あっち側にはトイレがある。黒鋼がそう指摘すると不思議そうにしていたファイも合点がいったようだった。
「そうだねぇ。現役の調理師さんだしねぇ」
四月一日君尋は、たった今肩に触れていった感触に恐れおののいていた。
まるでそこに呪いでも受けてしまったかのように、伏せていたカウンターの板面から顔を上げられずにいた。その姿勢のまま低く呻く。
「肩を叩いていったのは……」
両隣の百目鬼と小狼がそうっとカウンター内部の店員越しに、そのまた向こうのテーブル席群を見やると、背中越しでも判った。
座っている金髪の人物はファイ・D・フローライトだと、皆そう断定した。体育教師と不自然な近さで喋っているのがそう判断した理由だ。つまり……。
「ユゥイ先生の方だな」
四月一日から小狼を挟んでカウンターに座る小龍が端的に告げる。そっと四月一日が見やると、体育教師化学教師のテーブルに、ユゥイが戻る場面だった。座る直前また目が合ったような気がして、背筋が一層冷えた。
ぶるぶると震えている四月一日たちの前には、人数分の店名が施されたラーメンの器と共に琥珀色の液体の入ったグラスがある。大半は消えているが、まだ表面には白い泡の痕跡が残って漂っていた。
「……『麦芽由来の酵素を発酵させてできたアルコール飲料が入っているとおぼしきグラスがあることには目をつぶるから、オレたちに気付かれる前にとっとと退店しなさいね』ってことだろうな」
小狼が冷静にそう一連の所作を解釈する。それに一同無言で同意を示した。
実のところ、四月一日たちが教師3人組の入店に気付いたのは、ユゥイが外国人客と共に2度目の入店をした直後だった。気付かれぬよう全員で頭を低くしていたにも関わらずユゥイは背後を通り、四月一日の肩を叩いていったのだ。声すらかけてはいない。
理事長がああであるから生徒の飲酒には比較的寛容な校風ではあるが、こんな町中で昼から飲んでいては、何かと世間様はうるさい。気付いてしまったら、教師として咎めないわけにはいかないだろう。
ユゥイは肩を叩いただけだった。会話を交わしてもいないから、店中に充満している酒の匂いにまぎれて生徒の飲酒に気付かなかったといっても、どうにか通る。
ユゥイなりの気遣いであろうが、それに感謝するよりも先に恐慌に陥ってしまった一向だった。あまりに大胆不敵すぎる。
「……顔はああだし物腰柔らかくてファイ先生より常識人っぽいのに、随分いい性格してるよな」
もう食欲も失せてしまった四月一日が、ぼそぼそと呟く一方で百目鬼はさっさと退出するべく丼を抱え、残り物をたいらげにかかっている。いつもなら、それに突っ込みを入れる四月一日だが、その気力もないようで何もしないでいた。
それとは対照的に、この期に及んでグラスのビールを片付けている最中だった小龍が口端を意味ありげに上げた。
「何言ってるんだ。ファイ先生の弟だろ」
そして「一筋縄じゃいかないさ」と続けると、四分の一ほど残っていたアルコールを全部飲み干したのだった。
08.04.05
短いな!
ホリツバ双子に間違った方向で萌え萌えしているのは充分判ってる。