満面の笑みが男の顔に広がった。そう思ったのも一瞬で、すぐに視界は白いもので塞がれる。
口も鼻も目にも布地が押し当てられているものの、その下で息づいている人体の柔らかさと体温のせいか、圧迫感はほとんど感じない。
人体の凹凸は決してしっかとかみ合うことはないだろうに、腕が絡みつき、首から胸にかけてのくびれが密着してくる。女のような弾力はないのだけれど。「血が付くぞ」と、間抜けな喚起が漏れかけたのを飲み込み、されるがままになってやった。
「とりあえず、手当てだな」
ついで届く魔術師のくぐもった笑い声。子どもでも抱いているみたいに頭にまわした両手は緩められることはなかったから、表情は判らない。最後に見たままの微笑か嘲笑か苦笑か、他のもっと別の何かか。
短い髪を根本からかき回される。子どもというよりもむしろ、犬猫と言うのが正解なのかもしれない。
「……今はてめぇに殴られた頭の方が痛ぇ」
ささやかな意趣返しとばかりにそうぼそぼそと答えると、ようやく腕と身体とが離れていった。
そして、いったんこちらに背を向け、コートの懐を探りだす。コートを脱いだ背中は男性のそれながら、細くしなやかな印象だった。それは旅のはじめから変わっていない。
寝台に腰掛けたまま、じいっと見守っているうちに、男は何やら両手に携えて戻ってきた。包帯や携帯用の薬が数種類。明らかに日本国のもので、一体いつから何をもって用意していたのだろうと問いただしたくなった。出国したときには、痛みこそ感じていたものの、出血まではしていなかったからだ。
もっとも、尋ねたところでやぶ蛇になるに決まっているから、これは訊かないことにする。
疑念を抱え黙りこくっている間にも、とっとと鎧と上半身の着衣が脱がされ、滲んだ血を拭われてから軟膏を塗られたうえから包帯を巻かれた。異形の義手に血がながれている傷口だが、男の白いおもてには何の感情も浮かんではいない。べらべらと喋っていた唇を閉ざし引き絞り、ただただ治療に没頭していた。俺が注目をしていることにも、気付いていないようだった。
包帯を巻きおわると、手のひらにのせられた薬包をすっと差し出される。中身は確かめなくとも判る。特徴のない黒い丸薬が入っているはずだ。
小さく折り畳まれた薬包紙に、区別が容易に付くよう朱で簡易な記号が描かれていた。白鷺城内や軍などで使われている鎮痛剤の模様だ。
「鎮痛以外に消炎効果もあると訊いてる」
そこまでは必要ないと拒絶しようとしたにも関わらず、そう押し切られる。
そちらが主目的か、服用させる言い訳か。どちらが本意か。鎮痛や消炎にとどまらず、鎮静の効果もあったように思うので気持ちはすすまなかったのだがあえて折れてやった。
小指の先ほどもない三粒を嚥下すると、目を細め満足げに微笑む。臥せっていたときと同じように、鎧は付けられず肌着だけをかけられた。
「こっちも取るよ」と、額あてに指がかかり抜き取っていく。ついで肩をおされ、ゆるやかに後ろへ倒された。
「オレは起きてる」
暗に「眠れ」と言われている。が、こればかりはそう簡単に応じられない。少なくともここは敵陣で、何らかの作為が働いている状況なのだ。どこで時間が繰り返しているのか確かめる必要がある。こればかりは引けない。
「俺も眠るつもりはねぇぞ」
頭上の魔術師は文句を言いたげにしていたが、ややあって諦めたかのように首を振った。
「本当は休むべきだけど……せめて、横になって楽にしてなよ」
どうにかお許しももらえ、俺は右半身を下に横臥する。これが、互いがぎりぎりに譲歩できる一線だった。
魔術師も、同じ寝台の枕元へと腰かけた。見上げると、後ろに結んだ髪と白い首筋。その頭上には明かり取りのためなのかはめ殺しの丸窓がある。
薄暗い室内で男の姿だけが鮮明だった。白茶けた石作りの壁よりも、くっきりと浮かび上がる。
旅の最中に「金髪」の人間には大勢出会ったが、ここまで淡い色合いの者はついぞいなかった。
肌の白い人種も多かったが、ある程度以上白いと下の血管が透けるせいか、桃色の印象が強まる。この男は血が通っているのか心配になるくらい、ひたすらに白いままだった。
本人は望んでいないだろうが、どの世界においても、いやがうえに目立つ容姿である。何度も第三者に「お連れの白いひとは」と、名指しされたきた。
振り向きどころか微動だにしなかったが、見ると呼吸で上下する肩と背中につれ、ひとつにくくった毛筋がそれ自体息づくように揺れていた。夜魔の半年間でもまめに揃えていた髪を、伸ばしだした理由は知らないし、尋ねてもいない。
「静かだな……昼間はあんなに賑やかだったのに」
他に見るべきものもなく、あらわになったうなじを眺めていると、誰に問うでもなく独白めいた声が響く。
「……丸い窓が珍しい」
あえて相づちは打たなかった。
「サクラちゃんや小狼くんも見てたんだろうね」
無言で窓へと視線を移した。物珍しいのは窓のかたちだけでない。濃淡の陰影となって広がる暗い風景。砂ばかりが広がるこんな景色は、少なくとも己の知る日本国には存在しない。
セレスではどうだったろうか。あの束の間滞在した凍てついた世界の、実際目にした範囲および過去の情景のなかにはなかった。雪と氷に覆われた国。
そうやって回想していると、どうしても付随して隣の男の様々な姿も回想してしまう。幼児から少年、青年から現在へと。
思いを巡らせている最中に、白い五指が頬の方へふっと伸びてきた。受け止めた部分が冷たい。
「冷えてるんじゃねぇのか」
住人の言葉通り、気温は日中より大分下がっていた。凍えるほどではないが、野宿には厳しいぐらい。
押し当てたままの指先が手のひらの方へ滑っていく。部位が移動すると、今度は逆に暖かく感じた。
「君もね」
さするというよりも頬骨のかたちを確認するみたいに、ぐっと力を入れて撫でられるうちに、段々と互いの体温が近づいていった。
完全に温度が一致してから魔術師は立ち上がり、床に置いていたコートを拾いがてら、俺の足の方でわだかまっていた毛布を胸元にまで引き上げられた。
そうされると余計に眠気が誘われるような気がし、払ってしまおうと身じろぐ。
首をもたげた刹那、コートを羽織り再び腰をすえた男に頭を抱えられるようにされ、クッションから別のところへ着地させられた。魔術師の白いおとがいの真下だった。
「おい」
枕になった膝を軽く手の甲で叩く。
「じっとしててよ」
「だからっつってな……」
状況に不似合いな格好に尚も足を叩いて抗議するも、解放する気はないらしく、なだめるためか眉間の皺を指でたどられた。けれど、男の顔は真っ正面を見据えたままで、目が合うことはない。
「判ってる」
最初は、こちらに答えるよう。
「判ってる」
二度目は、自らに言い聞かせるみたいだった。
尚も顔や頭をさぐられるが、それ以上ではない。くすぐったさや痛みはなかった。そのうち髪の毛先を指に絡めるようにされたが、傷ついた肩に触れまいとしているのか、首から上だけだ。
眼前を横切って動く手は、この左手が最後に掴んだ手だった。あの時力なく垂れ下がっていたそれは、鎖骨のあたりにまで毛布を引き上げていった。
口に出しても詮無いことだけれど、この先どう歩いて行くのか。
もう今更進んで終わりを望むとは思ってはいない。けれど、もう家も国も世界も何も残されていないなかで、何を選ぶのだろう。
ゆっくりと顔の輪郭を辿られた。最初は顔のかたちを確認しているようだと思ったが、触覚だけでそれを憶えようとしているみたいに飽きることなく、同じルートを往復している。
寝転がったままで背に手をまわし、髪を結わえていた紐をほどいてやった。ほんの少し、首筋とほどけた髪が肌に触れた。
身体を重ねたのはほんの数度。にも関わらず、記憶は五感全てに刻まれているようで、その僅かな刺激にすら余韻が蘇った。膝枕から布地越しに伝わる体温に息遣いも呼び水となっているのかもしれない。
こんななのに、言葉は感情と振る舞いとに一向に追いついていなかった。自分だけでなく、あちらも。
今しがたのようなやり取りをする一方で、互いに何も告げようともしない。惚れたとか側に居るだとか。甘い語句とは無縁だった。
口約束だけではない。「名」や他のことはどうだ。こうして、両の手に何も持っていない相手に選ばれ唯一となったとしても、自分の背負ったものは多い。どちらが大事かとかは馬鹿げた問いだとは思うが、二択で量れるものではないし、じゃあと割り切れる事柄でもない。
公平でないという台詞が己に到底不似合いだとは判っているが。だが現実にして、了承を求め得られたとしても、それは甘えだろう。
重さに体勢を変えたくなったのか、軽く右足が動いた。落ちてしまわないよう、両の手で頭を抱えられ身を屈めた拍子に、周囲を金糸が覆った。耳に唇からこぼれる吐息がかかるが表情は判らない体勢だ。
「お前にはまだ言ってねぇことがある」
しばらく止まったまま、陰は動かなかった。
「いいよ」
「多分、一生言わねぇ」
「判ってる」
するすると元の位置に戻っていく髪を握ろうとしたが、つるりとすりぬけていった。ほどいた髪紐だけが残される。それきり無言のままだった。
08.03.23
Chapitre.185の話。ツンのまま膝枕萌え。