「本っっ当〜〜〜に、ここに来るとお茶しか出ないのねぇ」
艶やかな赤で彩られた爪でついっと湯のみの縁を辿りながら、理事長は同じ色合いの唇を歪めた。いかにもけだる気な風情だが、居合せた二人とも慣れているのか、特に慌てる風でもない。急須に茶を入れていた男は、女性の手中からテーブルに戻された柿渋色の湯のみにおかわりを注ぐ。辺りに、爽やかな茶の芳香が漂いはじめた。
「文句あるなら、とっとと出ていけよ」
上司であるはずなのだが、体育教師の口調は遠慮ない。
「ふふん」と、侑子も気にした様子もなく今口にした不平もどこへやら、入れたばかりの茶を唇に運んだ。一口二口と、優雅に嚥下していく。
「でもまぁ、この緑茶だけなら四月一日と張るわね」
「ふん」
「あたしお世辞は言わないわよー、これはホント」
「黒りんせんせー、お茶だけは自分で入れるもんねぇ。オレには触らせてくれないものー」
テーブルの対面に座っていた白衣の教師がへらへらっと笑いながら。
「当たり前だ!」
はなはだ緊張感がないファイの伸び切った語尾に、黒鋼が勢いよく噛み付いた。怒鳴り声に「こわ〜い」と大げさに身を縮ませるが、わざとらしさばかり鼻につく。
火に油を注ぐ結果となり「あれで信用できるっつー方がどうかしてる!」と、黒鋼が声を更に荒げ畳みかけた。
しかし、今度は侑子がその言葉尻に眉を上げる番だ。
「あら、何か理由でも?」
「いや……」
椅子に座ったままの侑子がじぃっと黒鋼に注目するが、体育教師は目を合わさないようそっぽを向く。顔ばかりでなく反転し背まで向けてしまう、答える気は皆無らしい。
侑子はしばし思案するかのように頬に手を当て黒いジャージの布地をみつめていたが、ほどなくにんまりと笑った。片方が口をつぐんだとて、まだここにはもう一人事情を知るものがいるではないか。そんな表情だった。
意味ありげな侑子の視線と碧眼のそれが絡んだ途端,ファイは要望を読み取って、ただでさえ軽い口を躊躇無く開いた。
「オレが妙なもの混ぜるって言うんですよ〜。酷いですよねぇ」
「事実じゃねぇか!」
再び黒鋼の怒声が辺りに響く。両手を耳にあて騒音をやり過ごしてから、侑子は尻を座面に付けたまま、お行儀悪く椅子ごとずりずりとファイの横に移動した。半ばまで茶が入っている湯のみを持っていくことも忘れない。そして、ファイの左肩に手を置いてしなだれかかる。
金髪碧眼の美青年に黒髪の東洋美人。絵面的には完璧な一対であるはずなのに、性的な要素は微塵もない。本人たちにそういった意識がないからだろうか。それとも両方とも生粋の変人のせいか。
黒鋼は常々不思議なのだが、考えている場合ではない。一瞬油断した隙に、侑子がその左耳にひそひそと……だが、黒鋼にもしっかり聴こえる声量で囁いた。
「それって何かしら?」
「惚れ薬ですよー。試作中でー」
ただでさえきつい黒鋼の目が釣り上がる。怒りに怒り過ぎて声も出ない黒鋼に気づいているはずだろうが、二人はのほほんと雑談を続けた。
「あら素敵」
「古来からの夢じゃないですか〜。人体への影響がなくって常習性皆無効き目抜群! の惚れ薬ってぇ」
「人類の英知はそういった方面にこそ向けられるべきだわね」
「もっと他にやることあんだろ!」。そう叱咤したいが、黒鋼の舌は動かない。喉から下、胸にかけて灼熱の炎が燃え盛っているかのように、手に持つ急須のなかの茶よりも腹の底が熱かった。
ファイとこういった関係になってすぐ、黒鋼の自室でのことだ。
自宅には煎茶しかなかったはずなのに黒い茶を出され、しかも焦がしたような異臭がする。問い詰めれば「イモリの黒焼きの粉末入りー」と白状した。
その他、獣の性器などのゲテモノはもちろん、チョコレートやリンゴ、トリュフなど一般的な食材をベースに調剤したものに至るまで、古今東西ありとあらゆるものを盛られそうになった。
食事の支度はなるべく一緒にするようにしているし、ファイ自身が被験者となる気はないのか、二人でともに摂るようなものに投薬された経験はない。そうなると、ちょっとした軽食か弁当、はたまた茶やコーヒーなど、嗜好品が特に危ない。
……そう、かつてはコーヒーにも催淫効果があると信じられていたと聴いて以来、ファイが入れるコーヒーは飲まないよう心がけている。
色々を思い出し、一層頭に血がのぼった黒鋼を、ファイは寂しそうに横目でちらりと。
「だから、催淫剤とか媚薬とかを色々調合して試してるんですけど、黒みゅー先生ったら非協力的でー……」
「協力したげなさいよ」
「……誰がするか!」
びしっと侑子に指を突きつけられ、ようやく黒鋼の身体が動いた。しかし、黒鋼は口を聴いただけ、手足は意図的に動かさなかった。
もし、このタイミングで身じろぎでもしようものなら、二人ともに手を上げてしまうかもしれない。ファイだけならともかく、まがりなりにも理事長にどうこうしたらどういう結果となるか。真っ当な社会人である黒鋼の常識が、最後の防波堤となった。いや、この場合枷であるかもしれない。
そうやって一縷の理性にすがりついている黒鋼を余所に、侑子は「あら、もうこんな時間ね」と、携帯の時間を確認してから、憎らしいほどゆうゆうと出入り口へと向かった。がらがらと立て付けの悪い引き戸を開く。
「ある程度データとれたら、うちの大学の方でとりあげて予算もつけるわよー」
「わー頑張りますー」
「俺の言い分は無視か、こら!」
最後の最後に爆弾を投下すると、侑子はぴしゃりとドアのあちら側へと去っていった。カツンカツンとヒールが奏でる硬質な足音が壁の向こうで遠ざかっていく。
完全に聴こえなくなってから、黒鋼はテーブルに残された湯のみを水屋の棚へどかした。給湯室自体は体育準備室の外にある。使ったものはこうやって別にしておいて、放課後まとめて洗うのだ。ファイも自分のを同じように。昼休みももうすぐ終るということである。自分たちも支度をはじめなければならない。
マイ湯のみを同じ柄ながらやや大きいものの横に並べて置いたファイを、黒鋼は諦観に満ちた面持ちで一瞥した。
「……百歩譲って、真面目に開発したいってならてめぇ一人で実験しやがれ」
テーマの珍妙さはさておき、教職にある以上アカデミックな探究心を邪魔するつもりは黒鋼にもない。むしろ、世間的に需要が多いと思われる研究であることは認めよう。
ともかく、黒鋼としては実験と称して自分が無理矢理巻き込まれない限り、頓着するつもりもないのだ。
しかし、化学教師はふるふると首を横に振ると、急須の茶殻を捨てようとしていた黒鋼の手をおもむろに取った。そのうち中指と人差し指を揃えると自らの首に添えさせる。
「駄目だよぅ……ほら」
黒鋼の二指はファイの咽頭の横。余分な肉がほとんどついていない肌のなかでも柔らかくくぼんだ部分にあてられている。指の腹にトクトクと命のリズムが刻まれていた。
情事のあと、そのままベッドに沈み込んで身体を重ねているときに、度々耳にしてきた音だ。ファイの寝息を伴奏として、もう何度腕のなかで感じたことだろう。
……しかし、正確に計らないとはっきりとは言えないが就寝時よりも幾分早いようだ。黒鋼で安静時での平常値は1分間に40強程度。ファイはそこまではいかないものの約50。今はおそらく70ほどに上昇しているのではないか。
座って茶を飲んで喋っていただけ。ほとんど動いてもいない状態で、この早さはおかしい。
疑問を抱いたまま無言でいる黒鋼に、ファイが笑いかけた。
「ほら黒るんに触られてるだけで、こんなにドキドキする」
「…………」
「……こんなんじゃ、データ取れないよぅ」
そう言うと、添えるだけだったファイの手が黒鋼の二の腕にかかった。ふわっと載せられたかと思えば、そこに重心がかけられる。急なことに、黒鋼は不意をつかれた。
そこを手がかりに、空いた腕が首の後ろにまわされ顔が近づいて来たのだ。唇が唇に掠めるように、接触し去った。体温を感じる間もない。むしろ、空気の動きによって、逆に熱が奪われた。
けれど、粘膜が触れていった生々しい感触は確かに残っている。
「なら……他の誰かをつかまえろよ」
皮膚感覚を打ち消したいのと、ここが体育準備室だなんて場所であること。
そして、抵抗する間もなかった己の不甲斐なさを誤摩化したくて、咄嗟に唇を拳で拭いそうになったが、恋人に対しあまりな仕打ちだと黒鋼は寸でで思いとどまった。代わりに呟いた声は無様にも掠れていたが。
「それもダメー。うっかり効いちゃって赤の他人に迷惑かけちゃっても困るもの。その点黒わんならいつもオレが側にいるから大丈夫でしょ」
対するファイはご機嫌だった。いつものペースに乗せられているのを感じ、黒鋼は苛立ちを憶えたが抗おうとする気持ちは不思議と湧いてこなかった。
頭ひとつ分下で揺れる金髪に、無理矢理した舌打ちを聴かせ、真意を隠す。
「……大体、惚れた腫れたの成果なんてどうやって調べるってんだ」
黒鋼が半ば観念しかけたその直後だった。
ファイはその問いに答えようと、胸の前に右手を突き出すとまず二本の指を折り曲げた。親指と人差し指。
「それはぁ、心拍数とか体温とか〜。あとはー」
「あと?」
斜め上を見ながらのファイが、三本目に中指、四本目で薬指を曲げた。
「出した量とか、かかった時間とかー」
気が緩んでいたせいか、危うく黒鋼ですら聴き流すところだった。
「出し、た……量……?」
オウム返しにすると、ファイが数えていた方の手でくるくるっと何かを丸めるパントマイムを披露する。そして、脇にそれを捨てるような。その存在しない物体が描く放物線を、黒鋼は何故だかとてもよく知っていた。
ベッドのすぐ脇にある、ゴミ箱にゴミを放り投げるときの軌跡だった。
「黒りんたって、終ったら端くくってゴミ箱に捨てるじゃないー」
「……時間まで計ってやがったのか」
「んー、計るまで厳密って無理だよね。本当なら入ってからじゃなくて、そういう状態になってから計測しないと無理だし。だから入ったときに、こう……」
そして、ファイは首だけ背中に仰け反らせた。白いのど仏が露になる。
「こうやって枕元の時刻を確認してー」
黒鋼は、つい二ヶ月ほど前にファイが「電波時計なんだよー」と、ベッドのサイドテーブルで使っていたアナログ式の置き時計を、デジタル時計に新調したのを思い出した。別に古い方が壊れたわけではないが、たいした出費ではないだろうし自らの懐がいたんだわけでもないので、異存なく受け入れた黒鋼だった。
新しい時計は秒単位まで表示され、文字盤が暗所で光るので夜でも非常に見易い。
「……そうか」
「そうー」
ファイは邪気無く笑い続けている。穴のあくほど見つめていると、何故か黒鋼の口端も上がってきた。単に、常日頃意志の力で引き結んでいる唇すら脱力したというのが正しいかもしれない。証拠に目は笑っていない。
だが、そんなことを知る由もないファイは、てっきり黒鋼の理解を得られたのかと、ますます笑みを深くした。
脇に降ろしていた黒鋼の両手が胸で組まれる。表情は穏やかなままだ。右と左と合わされた両拳から、ぐきがきごきばきと断続的に鈍い音が上がった。
「他に何か言い残したいことはあるか」
午後の授業時間が迫っているために若干急いでいた四月一日たちは、校舎を繋ぐ渡り廊下の途中で、窓から身を乗り出してきょろきょろしている二人の男子を発見した。一対という言葉にふさわしく、遠目にもそっくりである。彼らには珍しく、挙動不審というのか、周囲を忙しなく、そして不思議そうに見渡していた。
「二人ともどうしたんだ?」
一向が足を止めて声をかけると、ようやく小狼と小龍の二人も四月一日たちに気づいたようだ。顔を綻ばせるが、それでも尚何かを気にかけている。
「音が聴こえたんだ」
これは、小狼の方。実直真面目な少年が、四月一日たち……サクラの顔すら見ず、どこかあらぬ方に目を動かしている。
四月一日たちも一緒になって左右の窓の外を眺めたが、不審なものは一切ない。
高等部の教室棟と音楽室美術室などを含む特別教室棟を繋いでいる渡り廊下の左には教職員棟、右側には体育館があって、双子は「多分、右側から不審な音がした」のだと語った。
けれど、辺りはまるでうららかな昼下がりの情景が広がっている。昼休みももうすぐ終るからか、生徒や教員の姿もない。
騒がしかった蝉も姿を消し、咲き乱れていたムクゲの色はない。けれど、静けさのなかにも華やかな豊潤の秋の訪れを感じさせる少し黄味がかった緑へと、風景のなかの樹木は衣を変えようとしていた。空の青は透き通り、日に日に高くなっていく。
「でも、別にただの物音だろ。ほっとけないのか」
言われるがまま体育館を注視していた百目鬼がぽつりとこぼすと、同じ顔が同じ角度とスピードで横に振られる。
「何だか……昔、ラオスの奥地で聴いた、寺社の鐘が十メートルの断崖から落下してひび割れたときのような鈍い音で……」
小狼がそう例えるがスケールが違いすぎて一人をのぞき、誰も想像できない。唯一頷いた小龍は同意しながらも、こう付け足した。
「俺は、昨年南極で耳にした棚氷の崩壊音を思い出した」
「……温暖化って悲しいですね」
「サクラ……」
サクラが切なそうに自らの胸を押さえたので、肩にのっていた白モコナもつられて眉をひそめた。
その感想自体に誰も異存はないだろう。だけれど「でも、堀鐔には鐘も棚氷もないわよ」とのひまわりの言葉通り、核心は不明なままだった。
むしろ、この双子は一体どこからの帰国子女なのだろうかと、謎はひとつ増えた。
「とりあえず、授業行こっか」
しばし頭を抱えていた四月一日が歩き出すと、そのあとに皆ぽつぽつと続く。次の時間はB組C組の化学選択者合同の授業だ。
その10分後、化学教師が昼休み中に昏倒し保健室に運ばれたため、急遽化学の授業が自習になったことを彼らは知ることとなる。
07.08.27
マッドサイエンティストラブ。
小麦粉砦のフローライト先生があまりにも黒かったので記念。きっと、あの世界の黒鋼先生は既にフローライトに薬盛られるかなんかして襲われているに違いない(でも黒ファイ)。