ふんわりとした花の香が鼻腔をくすぐっていく。
隣にいた少年も同様のようで、下品にならない程度に鼻をひくつかせ、ふっと横を向いた。整備された街並みであるが周囲に花は見当たらない。刈り込まれた植え込みも緑ばかりだ。二頭立ての馬車が、がらがらと走っていった。それを引く馬の背には蝶の羽根が生えているが、やはりというか獣の匂いが僅かにする。
匂いの正体は間違いなく、すぐ横をすれ違った女性の一群からだろう。
この世界の女性は皆ひらひらとした着物を着用しているが、彼女たちは特に華やかだった。光沢のある生地に、鮮やかな彩りの布を合わせている。
皆一様に若く奇麗で、そして商売女特有の艶めいた仕草を持っていた。けっして肌を露出したり、客引きをしているわけではないが、どことなく判る。身にしみついたものというのか、そういう匂いが振りかけている香水よりも強く漂ってきた。
そのうち一人が振り返って笑ったので何事かと思えば、そばの少年を見つめ返したらしい。彼は熱に浮かされたように、ぼんやりと彼女を見ていた。栗色の髪に緑の瞳をした、どことなく同行の姫を連想させる女だ。
「あんま、見てるとちょっかい出されるぞ」
鋭くささやくと、我に返ったようで背筋がぴんと伸びた。
「……あ、は、いえ! そんな……!」
目を白黒させ、素っ頓狂な声で弁明をしようとする。うぶな反応が面白くて、からかいたくなった。意地悪く、口角を上げながら。
「どっちにしろ『買う』には、少々懐の余裕がねえけどな」
その途端に、赤かった顔に紅が増す。
「そんなつもりじゃ……!」
声の調子が跳ね上がり、周囲の視線が突き刺さった。複数の目にさらされて冷静さを取り戻したのか、顔色がみるみるうちに赤から青に変わる。
通行人も事件性がないらしいのを確認したのか、すぐに目を逸らした。日本国でもそうだったが、村より町、人口が増えれば増えるほど他者への関心は薄くなる。
ここレコルトは、同行の魔術師に近い薄い肌と髪色の人種が大多数を占めるらしい国だが、歩いている分には排他的な言動にさらされたことはない。たったそれだけのことだが、旅の身には随分と僥倖なのだ。
しかし、少年はすっかり俯いてしまった。さきほどの出来事から、せっかく気分が上向いてきていたのに、だ。
「……すいません」
「ま、あいつらも商売やってるんだ。そんな騒ぎたてるな」
「…………はい。その…蔑んでいるとかじゃないんです……が……」
それきり黙ってしまう。
宙を浮く乗り物に、婦人に紐で散歩紐で引かれる異形の生き物も珍しいが、何より、石造りの建物が並ぶ美しい街だった。審美眼に乏しい己がみとれてしまうくらいには。
だけれど、こんな長時間待たされていると流石に見飽きた。魔術師は姫と白まんじゅうを連れて、目的地に向かうための乗り物を手配にしに行った。治安はいいので心配はしていないが、待つ方としては退屈だ。別に話し相手となって欲しいわけではないが、しょげられていると、理不尽だが苛つく。
互いにベンチに座ったままでいると、隣の頭が少し動いた。眼前を、寄り添い合った老年の夫婦が歩いていったすぐあとだった。
「……その……むなしくならないんでしょうか」
「はあ?」
「だって……結局、本当の恋人じゃないじゃないですか」
少年の目は真剣だったが、一瞬何を指しているか全く検討がつかなかった。前後を思い出し、ようやく思い至った。
「ああ。『買う』方のこと言ってるんだな」
ややためらいがちに頷く。
あの姫の国に落ち着く前は、各地を親と放浪していたと言っていた。真面目な少年だが、そういった場面を見る機会も多かったろうし、自らと関係ないが故に考えるきっかけにもなったんだろう。
己の年頃はどうだったかとも思ったが、既に諏訪を出て忍軍に入っていた。大勢の人間に囲まれて、葛藤する間もなく現実に晒された気がする。本来なら父親など、身近な男の役目だ。
誤摩化して逃げることもできたが、何故かそれは念頭になく、自然と口が開いた。
「むなしくはならねえよ」
「…………」
「気持ちは関係ねえんだ。買う方は金、売る方は身体。それだけのやり取りだ。『気分』は出しても、それは興醒めするからだろ」
少年は絶句してしまったようだ。「しまった」と思わないでもなかったが、そのまま続ける。
「男の甲斐性なんて言わねえが、もう少し立てば事情くらい判るようになるぜ。その上でどうするかはお前の自由だ」
「……はい」
半ばけむに巻かれたような顔ながらも、小さく返事する。
自らの答えとて、本音と建前が半々だった。買った経験はあるが、そういった女性たちの最下層を思うに、罪悪感がないといえば嘘だ。反対に、夢のような生活を送る「高級品」もいる。ただ、誰が悪いのでもなく、個人を越えた大きな何かをどうにかしない限り、仕組みが変わらないことにも気づいていた。
そして、商売と割り切ってはいるものの、事前事後の間に味わう、奇妙に親密な空気が好きにはなれない。馬鹿な男だったら錯覚してしまうのもいるだろう。あれは良くない。
ふと、顔を上げた先に薄い金髪が見えた。だが、似ているのは髪色だけで、どっしりとした体躯のうだつの上がらない男だった。急いでいるのかどこかに走って行く。襟足に垂れた長い髪が、身体の動きに合わせて上下に踊る。
「──ああ」
もう喋らないつもりだったのに、ひとりでにため息の延長のような言葉が漏れた。
「もちろん、そこからどっちかが惚れた腫れたになることはあるだろうがな」
久々に思い出したのは、あの夜な夜な月の城に進軍した国での出来事だ。
均衡した勢力では、戦う爽快感はあっても勝ち戦の開放感は得られない。戦場から去ったあと飲む酒も、自然と控えめとなった。その翌日も、確実に戦いがあるからだ。大勢で集まる席も、そのうちに三々五々となって出席者は散っていく。
ただその日は、あの魔術師と二人。差し向かいでだらだらと飲んでいた。
会話はあるのだが、ない。俺の言葉は断片的にしか伝わらないし、あっちはあっちで二人きりでいる気安さか、片言で喋るよりも自らの国の言語を並べ立てる方を選んでいた。
全く意味の伝わらない言葉を聴かされるのは鬱陶しかったけれど、この国に来てからこの魔術師はこういった日々を常に送っているのかと。そう思うと、したいようにさせておくしかなかった。
はじめは杯を傾けながらも、意味不明な音の羅列に注意を払ってはいたのだが、そのうちに飽きる。そっぽを向いた俺が気にいらなかったようで、細い外見に似合わない男の力で、背中からしなだれかかられた上に顔を掴まれた。
耳横で、抗議めいた口調で問いつめられているようだが、馬耳東風とはこのことだ。尚も取り合わないと、肩から首に絡められた腕に力が込められる。
仕方なく顔を横に向けると、少し驚くくらい眼前に、端正な顔があった。白い。鼻筋の通った。金色の睫毛に縁取られた瞳が黒いのが、不自然で奇妙に色気を漂わせている。それとも、酔いで目の焦点が合わなくなっていたせいだけかもしれない。おそらく、久しく禁欲を強いられていた身体に、人肌の温度を感じたのも半分。
劣情を煽られたのは、相手も同様のようだった。後ろから、首筋に唇があてられた次の瞬間には胸にまわされた手を掴んで、床にひっくり返した。
ただただ性急に、互いのものを直接掴んで達する。手っ取り早く欲望を叶えると、少々荒くなった二人の息遣いだけが耳奥に大きく響いていた。
まだ、満足はしていない。放り出した杯に例えれば、底に溜まった程度だ。こんな、自慰を肩代わりするような内容で済むのならば、娼婦など必要ない。下だけ割っていたため、揃えられていた襟を乱しはじめると、下から伸びてきた手も同じようにしてくる。させたいようにさせた。
広げた胸元に、白い石を彫ったような鎖骨の陰影が現れたが、顔を近づけると血が通っている証拠に赤や青、紫の血管が浮いている。皮膚一枚下で息づくそれらに舌を伸ばしたが「ああ」と、吐息めいた声が上がったのは触れる直前だったように思う。風呂は使ったあとのはずだが、酒に汗ばんでいたのか、気にならない程度に塩の味がした。
鎖骨を噛んで、気まぐれに敏感な耳裏や脇を吸い、乳首を嬲ると、うなじと背中に回されていた十指がわななく。耐えられなくなったのか、首だけ振るたびに髪がばさばさと床を流れるのが頭上に聴こえた。
今ならまだ止められる。胸の奥の方で、そういった理性の声は上がったが、制止の素振りはない。それどころか、中断された愛撫に焦れたのか、下肢に下肢が下から擦り付けられる。特に中心の、一度いきりたって再び起き上がっているものを。
放出したものはお互い拭き取ったりしていない。腹や自身にこびりついたままだった。
敏感な粘膜の密着で、体温や脈動。それにねちゃねちゃとし粘液の音が重なった。既に冷えて固まりはじめていたけれど、直接分け与えられた快感よりも尚、肌に塗られた相手の体液に留まりかけた背中を押されたのだ。
最初は唾液で湿した指先を奥に。けれど、先に進むどころか、痛むのか全身を震わせた。何より手近にあった酒を用いようとして止められて、やむなく携帯していた軟膏を入り口の輪から指の頭が潜り込む程度の場所に。それが限界だった。
結局、思い通りにいかず追いつめられてのぼせ上がった顔に指がつきつけられ、指す方向を追えば、淡い灯火が揺れていた。その明かり用の油を使えということらしい。
唾や軟膏、酒は口にして、体内に入れるものだ。油そのものを敏感な箇所に注ぐのは少々躊躇われる。が、男は仰向けになったまま腰を浮かせ動かなかった。
紅潮した頬、潤んでとろんとした目。欲情はしているようだったが、先を促して「早く」と片言で告げる。そう急かされれば、続けるしかない。油差しから指とそこに直接注いだ。
人差し指と中指とを揃えて突き入れている様に、まるで自身がもう沈んでいっているかのような錯覚を憶えたのが、今思えば不思議だった。今までは、そんな妄想めいた比喩にひっかかったことなどない。
きめの細かい白い肌と、髪と同じ金色の体毛。色彩に乏しい男の中の数少ない、紫を帯びた赤い肉色の部分。そこに二指を抽送する度に、嬌声が上がった。ところどころに混ざる単語らしいものだが、最早意味など成していないのかもいれない。けれど、何を訴えているのかは理解できる。おそらく「もっと」と。
押し広げるようにし、性急に指を増やし、横に倒した身体に腰を進めた。
快感をすくい上げるみたいに、ただただやみくもに同じ動作を繰り返す。額に玉の汗を浮かんだ。魔術師も目尻と眉間に皺が寄るくらいに、ぎゅっと瞼を閉じて行為に没頭している。
苦痛でなく快感を感じている証拠に、歯を食いしばってはいなかった。唇は閉じずに細かに震え、しっとりと粘膜が濡れていた。赤い舌が見える。
「……おい」
熱に浮かされ茫洋としている男の頬を、軽く叩く。
「おい。目ぇ開けろ」
その要求はすぐに果たされた。言葉を理解したのではなく、単に覚醒したからうっすらと瞼を開けただけだろう。潤んだ黒い瞳が覗く。焦点はあっていない。
視線に両眼を捉えたまま、舌で唇を辿った。これはこれでいいとは思う。
けれど、やはり蒼色が見えないことに失望したのは否めない。それならもっと違う風に感じられたように思ったのだ。そんな感想を殺したまま、中で。そして、男のものは握りこんだ手のひらで受け止めた。それを朝まで緩慢に繰り返し、そのうちに寝入ってしまったらしい。
起きたのは、ほんの少しだけ魔術師の方が早かった。俺は、隣の男が身じろいだ気配で目覚めたのだ。動かずに寝た振りを続ける。
うっすらと日が窓から差しはじめていて、その中で男は上半身だけ起こした。名残か、乱れた髪が頬や額にかかっているのだが、はらいもしない。俺が起きて、観察しているのには気づいていないようだった。
なぜなら笑顔が消えていたからだ。つい数時間前までの、あまやかな表情など一片もない。酔いのあやまちへの痛悔だけではない、もっと深い複雑なものを抱えた横顔だった。かねて「寒い」と語った自国のように、冷たく凍えている。
張り付いた笑み自体が、男にとっての障壁なのだと思っていたが、違う。案外低いその柵の先には、底の知れない深い深い穴があった。男自身その入り口すぐで右往左往している。
手を取ってやるのは容易いのではないかと思う。だけれど、それでは一緒に迷うだけだ。それは本意ではなく、解決はしない。
連れていってやるには、道標となる火が必要なのだろう。そして、今はそれが何であるのか見当もつかなかった。だから、眠っていた振りを続け、起こったことは全て不問にした。相手もそれを望んでいたようで、微塵も態度に匂わせたりはしなかった。
「黒鋼さん?」
まだ男にはなりきれないやや高い声に、深い夜の世界から煉瓦敷の陽光に満ちた世界に引き戻された。少年は、不意に黙り込んだこちらを不審に思っただけのようだった。
「なんでもねえよ」
座ったまま、膝の前で組んだ拳を開いて、また握った。
もう少し。もう少しで、何かが掴めそうな気がしている。きっかけがあればいい。それですぐに辿り着ける。全ては勘ではあったが。
手持ち無沙汰な手で、少年の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜて立ち上がる。見慣れた金と青色を、真っ先に見つけるためだった。
07.03.31
07.04.29修正