黙契秘旨

 この学校のいいところのひとつは、敷地内にコンビニやクリーニング店、書店、コピーセンターなど多種多様な小売店のみならず、銀行や郵便局なども完備されているところだろう。
 色々と気苦労の絶えない職場であったが、体育教師とてその有り難みは身をもって実感している。
 月曜から金曜日の平日は働きづくめで、帰宅は夜以降。特に郵便局なんて、こうした近距離にないと行きようがないではないか。
 今日も今日とて昼休みに訪れたそこは、大勢の人間でごったがえしていた。
 大半は教職員だが、生徒の姿もちらほら見える。出入り口にある発券機の番号札を取ろうとして、本日の用事は払込みなのでATMで済ませられることを思い出した。
 そちらを伺うと、五台ほどの機械にはフォーク並びの列ができているものの、せいぜい2、3人待ちといった案配だ。
 まずは払込み用紙に記入をしなければと、局内中央の記入用カウンターに足を向けた途端、すごくとても聞き覚えのある声音が耳に飛び込んできた。
「あ、書き間違えちゃったー」
「ファイ、そんなあせんないでってば」
「だって、オレ次授業だしさー」
 つくった拳を握り直し、どうにか踏みとどまった。ここは職場ではない。公共の施設である。健全な社会人としては、ふさわしい注意の仕方を心がけるべきだ。
「お前……騒がしいぞ」
 プラチナブロンドの頭を突き合わせているふたりの背後に立つと、なるべく抑えた声でそう話しかける。先に振り向いたのは右側の男、黒のタートルネックに暗い色のトラウザーを合わせた、きぃきぃ騒いでいた方だった。くしゃくしゃと紙を丸めようとしていた両手が止まる。
「あれ黒るーだー。黒ぴんも払込み?」
 彼、ファイ・D・フローライトは悪びれもせず、同僚兼隣人兼他まぁ色々な黒鋼の顔に惜しげもなく満面の笑顔を送った。このくったくのなさは美徳だろうと黒鋼も理解している。生徒だったら、その長所を伸ばしてやりたいところだが、彼は既に社会人なので事情はがらりと変わらざるをえない。
 普段だったら裏拳を容赦なく後頭部にお見舞いする場面だけど、遅れて黒鋼に笑いかけてきた弟ユゥイの前であるので、再び思いとどまった。
 同じ顔立ちでも、こっちはアースカラーの服装を隙なく着こなしている。カジュアルながら内面からにじみ出るものも手伝い、遥かに落ち着いた印象だった。
 別にユゥイが不都合だとか苦手というわけではないが、化学教師の弟だということ以外は、まだあまりよく知らない。
 そして、そうだというのに兄と著しく親しい間柄と知ってか知らずか、あるいは性格的なたまものかお国柄の差か、やたらと気やすく接して来られるせいでもある。普通に話す分には問題はないが、ファイとのことに触れられると何ともいたたまれなくなるのだ。
 その複雑な心情は説明しがたかったけれど、以前大学時代の同級生から結婚生活の悩みをこぼされた折り、この感覚は配偶者側の家族との付き合いに最も似ているかもしれないと連想しかけ、鳥肌が立ったことがあった。
 ともかくも、ファイの右隣に割り込み、専用用紙とボールペンを確保した。財布以外に唯一持ってきた私物……携帯のメモ画面を開いて表示された文字をカリカリとすみやかに書き写しだす。今日ははじめから郵便局に来るつもりで、手早く済ませられるパンを買ってきたが、昼休みは短い。
「ネット通販でスニーカー買ったから、その代金の払込みだ」
 手短かにそう説明すると、ファイは大仰に左てのひらを右手でぽんと叩いた。
「そっかー、この前パソコンの前で1時間以上悩んでたやつだね」
 余計なことを言うんじゃない! そう叫んでやりたい。事実ではあるが。
 ちらりと化学教師を挟んだ左に視線を送ると、美術の教科書に載っていた絵画のなかの大天使のように、蒼い双眸を穏やかに細めたユゥイがいる。長身を丸め前傾姿勢をとっていた黒鋼と同じ高さに顔があったのは、彼もファイが書き損じたものの代わりを、記入途中であったかららしい。
 「相変わらず仲がいいですね」とのユゥイの言葉に、ボールペンを持つ手が強張る。別に単なる感想だ、含みなどない。そう自らに言い聞かせ、続きを書く。背中には何故か冷や汗が流れだした。一刻も早く用事を終えて立ち去りたい。
「ファイ終ったよ」
 ほっとした。ユゥイはファイに書き終えた紙を渡したが、机の上に置いていた別の用紙を持った。どうやら、ふたりともそれぞれ払込む用事があるようだ。
 ファイのずっと黒鋼の顔を眺めていた蒼い目の焦点が遠くに動く。
「ありがとー…、ん、ATMも丁度開いてるねー。じゃあ、黒ろんお先にー」
「おう」
 連れ立って去ったせいで、ぽかんと空席となった左側に目をやると丸められる寸前のような、中途半端によれた紙くずがある。白地に青い文字の用紙。
 おそらく、黒鋼が現れたとき、ファイが失敗したと言っていたものだろう。本人も足下にしつらえられたゴミ箱に捨てるつもりだったに違いないが、思わぬ人物の登場のせいで、すっかり途中放棄になったようだ。
 ちゃんと、ゴミはゴミ箱に捨てていけよ、コラ。
 黒鋼も捨てるつもりでつまみあげたが、その拍子に書面が見えてしまった。盗み見る気など毛頭なかった。
 けれど、一瞬で内容が判ってしまったほど、見慣れた筆記の文字列は少なく簡潔だった。
 まず目に入ったのは数字。振込番号を書き損じたらしく、3桁書いた数字は棒線を引いて消されてしまっている。
 次に気付いたのは振込先。振込先名はそのままで、黒鋼でも知っているとある団体の名称だった。広告などで「開発途上国や紛争地域の子どもたちへの支援」を訴えている。
 そういえば。
 と、結びついた事柄がひとつあった。
 化学教師は家も持っていない寮住まいであるし、副収入もないくせに、毎年確定申告を行っている。
 税務署から書類を取り寄せ、部屋で書類を記載していた。実家絡みのことかと、内容には言及していなかった。
 団体にもよるが、募金は所得税からの控除対象となっていたはずだ。
 だから、それなりの額の募金だったら、店頭でなく領収書がもらえる方式が一番いい。一般常識としてその程度は知っている。
 しばらく、くしゃくしゃの紙を眺めていたが、用事を終え自動ドアから出て行く金髪のふたりの男の背中を見送ってから、それをいったん縦横にちぎってからもっと小さくしっかりと畳み、いかにも味気ないステンレスのゴミ箱にきちんと放り込んでおいた。








08.04.09
短い。
前回アップした双子が酷かったので、名誉挽回戦。ほりつば双子は壊れさせたいようなそれでも常識人でいてほしいような、心底幸せでいて欲しいようなそれでも影もちょこっとあって欲しいような……さじ加減が難しい。