孟夏

「どうかな?」
 動く箸の早さだけでも感想は知れたが、どうしても聞いてみたくて、酒を注ぎつつ返事を求めた。
「うまい」
 一瞬だけ口と箸は止まったが、本当にそれっきりだった。あとは元通り黙々と膳の上から口に、食材を運ぶだけだ。
 さほど期待してなかったとはいえ、どうにも味気なさ過ぎて、酢の物の入った小鉢を指差す。青味がかった色の硝子の器だ。先日、白鷺城の帝からじきじきに賜った品で、いかにも涼しげな風情が気に入っている。箸置きや小皿などの一揃えがあった。
「いや、それだけじゃなくって。器も初夏用に変えてるんだ」
「ああ」
 今度は手すら止めず、赤い目だけがぎろりと向けられたきり。返事は、お代わりの催促に、空っぽのご飯茶碗を渡されたついでだった。
「……ま、いいけど」
 そう諦め混じりに、おひつから白飯をよそおって渡す。間近に見ると、帰宅してすぐに風呂を使った男の髪は、湿ったままだ。風邪をひかなければいいが……と言いかけたが、既にそんな季節ではないと思い直す。戸から旅立ちを見送ったとき、息はまだ白かった。ささやかな中庭に視線を移すと、先週手入れしたばかりにも関わらず、あちこちには雑草が頭をのぞかせている。
 この家のこの部屋のこの席で、旅立ちの前夜の夕餉には地面も飛び石もまだ雪が覆っていた。冬は終わり春は過ぎ、もう初夏である。
「二ヶ月はやっぱり長かったね……」
 嘆息ではない。それは漏らさないよう決心していたが、客観的に聴くとそれめいているような気もする。後悔したが、言ったことは取り消せない。ファイの呟きに黒鋼が相づちを打つことはなかったが、しっかと聞かれてしまった。
 この忍者が城を離れることはほとんどないがずなのだが、主君である月読が下京するとなると話は異なる。こうして日本国に移ってから、これほど長く別々になったことはない。
 長期の任務に、ファイも付いてこないかと、姫君からそれとなく打診されたが、きっぱり断った。それぞれにそれぞれの仕事があるのだから、好意に甘えるわけにはゆくまい。
 しかし、不在の間は意外と気楽なもので、城の勤めに日々の生活にと追われるうちに過ぎた。辛いのは、やはり見送りの朝とこうして出迎えたときに尽きる。
 おかしな話だが、最中はさほど寂しくはなかったくせに、こうして以前と同じように食事をしているのを眺めているだけで、胸にこみあげてくるものがあるのだ。
 あれこれと話したいが、居るだけでいいように思えて来る。妙なものだと、ぼんやりと見守っているうちに夕食はあらかた男の胃袋に消えた。そして、膳を台所に下げて、入れ替わりに新しい酒と肴を並べてやる。
 明日黒鋼は休みだった。多少晩酌が過ぎても構わないと、多めに用意してある。しかしそれは一人分だけ。
 付き合いたいのは山々だったが、ファイは普段通り城に上る日である。しかも、いつもより早い出だ。
 最初の一杯だけ酌をしてやり、すぐに立った。
「明日の支度してくるよ……ッ!」
 中腰になったところで、後ろから突然拘束された。膝から崩れ落ちるようになったファイがどうにか向き直ると、黒鋼が抱きついてきている。
 体重をかけられると、この体格さではどうにも身動きがとれない。そのうちに回された手が着物や帯の隙間に入りだした。偶然ではない。明らかに着衣を乱しにかかっている。
「あーあーあー、ちょっと待て! 待てってば!」
 なんとなく意図も判って、頭を容赦なくはたいた。「痛ぇ」と、言うが尚もやめない。
 仕方なく顔を両手で挟んで向けさせる。憮然とした面構えを見据えつつ「最初に言ったけど」と、前置きを置いた。
「黒様は休みかもしれないけど、オレ明日朝早いんだよ」
 帰宅の際、風呂の用意をしながら、そう告げていた。そう言うが、返事はない。表情も変わらない。
「……いや、だから」
 そして小言が終ったとみるや、今度は頭を大きく緩んだ衿に潜りこませてきた。止めるつもりは毛頭ないらしい。鎖骨に触れる粘膜を感じ、妥協点をくれてやることにした。
 まるで、犬の仔を持つように首根っこをつまみあげ、再び向き直らせる。
「口とか手とか、そういうのでいいのなら」
 ファイとしては、明日の朝爽やかに目覚め出勤できればいうことはない。普段なら応じても構わないが、これだけの期間空いたうえであっさり終るとは到底考えられないからだ。
 これがお互い譲歩した上での最良の妥協案ではないかと、ファイはややひきつりつつもにっこり微笑んだが、黒鋼はしかめっ面のまま何事か思案しているかのようだった。
 お互いはいつくばるようにして絡み合い、しばらく固まっていたが、おもむろに黒鋼がファイの肩口に顔を埋めた。
「――いれてぇ」
 ファイは、耳元での呟きに一気に脱力した。
「あー……」
 それっきり所作はやんだが、情けなくも切羽詰まった声に脳内で色々なものを天秤にかける。自分の体調に、今夜のうちにやらなければならないこと、明日の仕事の内容。その間も、濡れた髪の発する石鹸に隠れた、僅かながらの個人特有の体臭が鼻孔をくすぐってくる。
 ファイは意を決すると、黒鋼の肩を押しやり、ひとり立ち上がった。
「じゃ、なるべく早く支度を終らせてくるから、正座でもして待ってなよ」
 天秤は目まぐるしく左右に振れたが、結局ほだされてやることにしたのだ。決め手は明日さえ勤めを終えれば、翌日は休みだということに気づいたからせいだが。
 出入り口まですたすた行き、後ろ手に襖を閉めようとしたとき、後ろで衣擦れの音がした。嫌な予感がして、確認に振り返る。
 そのたたずまいに失笑しようとしたが、顔の筋肉が緩みすぎてそれもできなかった。代わりに、力なく中途半端に笑う。
「……本当にしなくていいから」
 「酒でも飲んで待っててよ」と、ファイは今度こそ襖を閉めて、たすきがけをしながら廊下を小走りに急いだ。








08.05.12
酔うと長くなるので気をつけてください。
余裕ができたら続きも書きたいです。