呼びに来た使いを振り切り、黒鋼は回廊を迷わず進んだ。名前を幾度か呼ばれたが、追いかけるつもりはないらしく、そのうち小さくなり、じきに聴こえなくなった。
ここ白鷺城の春の訪れは城下町より、若干遅い。小高い丘にあるせいだろうか。城の庭園には、町中ではとっくに葉桜となってしまった桜の花がまだ残っている。
とはいっても、やはり緑の葉が多くなり、風が吹く度、散る花びらが目立つ。木目が艶やかな廊下には、朝夕と城の人間が手入れしているだろうに、あちらこちらに桃色のものが散っていた。
あるいは、粋を尊ぶ城主の意向で、そのままにしているのかもしれない。生粋の武人気質のくせに、玄人なみに音楽をたしなんでいる帝の言いそうなことだ。
中庭を突っ切る廊下にさしかかった際、ひときわ強く晩春の風が吹き抜けた。途端、胸当てに一枚がぶつかり、何故かそのまま貼り付いてしまう。
こんなものを貼り付けたまま謁見すれば何を言われるか。仕方なく、手ではらうと、花がはらはらと去った代わりに、指に赤いものがべったりと付いた。血だった。
無論、黒鋼のものでなく返り血だ。早朝に侵入者を撃退し、剣を置く間もなく、月読──知世に呼ばれたのだった。
今日斬ったのは何人だったか。両手の指では足らないはずだ。この血の主も最早生きてはいない。
だが、黒鋼の心に浮かんだのは、死者への哀悼や憐憫などでなく苛立ちだ。
今日、相手にしたのは己よりもずっと格下の相手ばかりだった。「剣を交える」という例え以前、戦うというより嬲り殺しにした。
返り血を浴びた憶えなどとなかったから、例え一滴とはいえど、気づかずにいた自分自身が不愉快だ。
たったそれだけのことと一笑に伏す者もいようが、殺し合いでは命取りになりかねない。多対一の戦いでは、一人がおとりとなって懐に入り込み、毒の類を仕込む技もある。
己の未熟さを見せつけられたようで、拳でその血の跡を擦り落とした。手の甲に、化粧でも施したかのような朱がひかれる。
歩みは止めず城内の奥の方へ向かうが、既に黒鋼が召されていることは通達を受けているのか、行き交う者に呼び止められはしない。
ただ本丸に入る直前で、慣例通り手水を使うことを求められた。普段ならば、無視を決め込むことも多いが、今日ばかりは血に汚れている手を、素直に水に浸す。
警備の男二人に女官一人は、赤くそまるその水を見、眉をひそめた。女は袖で口から鼻を覆っている。腹立たしいがここで怒鳴らない程度の分別はある。
この城とお前らを警護しているのは誰だと思ってるんだと諭してやりたいが、いちいち相手をするだけ時間の無駄だ。
諏訪のことを。一夜にして滅ぼされた望郷を思い出さぬ日はない。あのとき、自分に力があればと、今も悔いている。
ただ、ここ白鷺城の忍軍に迎え入れられたことは僥倖だった。実力主義の精鋭のなかで技を磨き、強くなれたことと同じくらい、領主の息子のままでは体験できなかったろう、色々なものが見られたことに感謝している。
知世などは「あの頃のあなたはとても可愛らしかったのに」と、揶揄めいた嘆きを時折発しているが、聞く耳を持つわけがない。今の自分が最良と思うほどうぬぼれてはいないが、ある程度満足はしているのだ。
手ぬぐいを脇に放り投げ、すました女官が豪奢な絵が施された襖を開ける前に、引手へ手をかけた。
開けた視界の向こう。左右に女官らが控えた広間の奥に、少女は立って待っていた。高座にはいるが、御簾は隔てずに前にだ。
「黒鋼」
御前であるのに頭すら垂れない無法者にも動じず、知世は薄い桃の袖を口元に当てた。着物がゆるりと揺れる様子に、さきほど貼り付いてきた花の一片を思い出す。
「また、人を殺めたそうですね。しかも、降伏しようとしていた者まで。嘆かわしいことです」
わざわざ呼び出されたから何かと思えば。黒鋼の悪びれぬ舌打ちに、周囲が眉を寄せる。
よくよく目をこらせば、知世の一番近くに、浅黒い肌をした女が控えていた。蘇摩だ。告げ口をしたのは彼女だろう、こちらに視線を合わさないためか、顔を背けている。
聴いていられるかと、踵を返そうとしたその矢先だった。
「全く……せっかく良い夢を見ましたのに。一日の最初が叱責からはじまっては台無しです」
「……『夢見』か?」
それなら話が違う。呼ばれた理由はこれだったのかと、大股で高座に近付くのと同時に、女官たちは波が引くように後ろへ下がっていく。菖蒲の描かれた衝立をどこからか運びこみ部屋を区切ると、その向こうに皆行ってしまった。その一連の行動にはまるで無駄がない。
「夢見」の話は、みだりに聴いていいものではないのだ。月読側付きの女官たちは、特に徹底して教え込まれている。蘇摩だけは微動だにしていない。
主人である少女に手が届く範囲まで近づいてから、黒鋼はようやく膝を付いた。
とはいっても略式で、頭は上げたままだ。これは別に非礼ではない。自分を呼んだ以上「夢見」の内容は関係の深いものであるはずだから。一言一句も聴きもらさないように耳をこらす。
蘇摩は最初から「夢見」の話を知っていたのか、姿勢を変えず顔を伏せたままだった。
人払いも終え三人きりになった空間で、少女はすぐには喋りださず、もったいぶっているみたいに首を傾げた。口元は綻んだままだった。
「翡翠の瞳をした女の子たちの夢を見ましたの」
夢の情景を思い出しているのか、当人の黒い目は焦点を合わさぬまま、斜め上を見ている。
蘇摩も夢の内容までは聴いていなかったらしく、表情を強張らせている。国の大事にも関わる可能性もあるのだから、聴き逃すわけにはいかないのだ。
きっと、自分はもっとすごい形相だろうと思う。こうして「夢見」の語りに居合せる度、故郷と父母の仇の手がかりはないだろうかと期待し続けている。
否。「夢見」に限らず、人ごみに入れば周囲を見渡し、雑談している人間があれば耳をそばだてる。そして、人の顔色を伺うのだ。そうやって、ずっと手がかりを捜している。この癖はすっかり身に付いてしまった。おそらく一生消えまい。
「女の子は私と同じくらいの年頃。すこし癖毛がかった薄い髪色をしていらして……きっと、この桜色の打ち掛けが良く似合うでしょう」
「実は夢を見たから、今日はこの着物をださせましたの」とも。
あらたまった二人の気持ちなど知らないように、知世は楽しそうに「うふふ」と笑い声を上げた。
「……そして、やはりその子と同じ年くらいの男の子。意志の強そうな顔をしていらっしゃったわ。あと、もう二人と一匹。白いふわふわした丸い生き物が跳ねているのです。耳が長くて額に奇麗な石のようなものがありました」
そして、「これくらいですわ」と、両手のひらで丸いものを捧げ持つような格好をしてみせる。犬猫より小さいがネズミにしては大きい。
脳裏でその言葉の通りの生き物を想像したが、そんな動物は知らない。昔話や神話の中にも、そんなものが登場した憶えはなかった。
同じく心当たりの動物がないことを不思議に思ったらしく、ようやく顔を晒した蘇摩に無言で目配せをしたが、首を振られるだけだ。
「どんな動物か、それとも魔物か。もっと詳しく言えよ」と促すけれど、何がおかしいのか知世は尚も愉快そうに笑うだけだ。ひとしきりそうしたあと「そうそう」と、少女は真珠のように白い両手をぽんと叩く。
やれやれ、ようやく続きが聴けるのかと姿勢を正したが、未知の生き物の話題ではもうなかった。
「午前の日差しを集めたあわい金色の髪に、貴石めいた蒼い瞳をしていらっしゃる男性も」
金色の髪か。海の向こうにはそんな容貌のやつが大勢いるらしいが。
この国の南方には蘇摩のように肌が黒い者、北国には雪のように真っ白い肌の人間はいる。だが、目と髪は黒か茶色だ。
黒鋼だけでなく、大部分の者は、金色や赤い髪をした青や緑の目の異人なんて見たこともない。噂話の中に登場するだけ。
白い生き物よりも想像はしやすいが、頭に浮かんだのは、人型をした異形の化け物だ。
気味が悪ぃと、肩をすくめる。そんな気持ちが通じたのか、知世がさも意外そうに眉を上げた。
「あら、黒鋼。その方の隣で、あなたもとても楽しそうにしていましたのよ」
「ああ?」
「その4人と一匹とで旅をしているんです。あなたは相変わらず眉間に皺を寄せたままだけれど、何だか雰囲気が少し和らいで。その金色の髪の方と軽口なんて叩いていました」
ありえねえ。
知世は楽しそうであるが、その光景はありえない。前半の少女と少年はまあいい。
しかし、その見知らぬ白い生き物と金色の髪の男と一緒にいるということは、少なくともこの土地から離れているということだ。
この地で結界を張っている知世が、領地から遠出することはありえない。
だから、日本から黒鋼が離れ、そんなわけの判らない一行と軽口を叩きながら旅をするなんて、あるはずがないのだ。
最初からからかわれていたのかと、苛立ちまぎれに乱暴に立ち上がった。
「『夢見』でなく、ただの夢だろう。まだ寝ぼけてるんじゃねえのか。用がないなら出てくぜ」
「黒鋼!」
蘇摩の制止の声も聴かず、衝立を押し倒して、黒鋼は広間から辞した。広い部屋のはじっこの方で、声をかかるのを待っていたらしい女たちが、悲鳴を上げた。
与太話につきあわされたのははじめてでない。たおやかな外見に似合わず、姉妹揃って悪戯好きなのだ。
むかつくが、気持ちを切り替えて持ち場に戻るのが一番いい。
行き以上の早足で、廊下を。そして、その上に散った桜の花の上を遠慮なく踏みしめながら戻った。
女たちは黒鬼でも通っていったかのように、一様に恐怖におののいている。今は御前だから口を閉ざしているだろうけれど、下がれば城の者たちに黒鋼の非礼を触れてまわるだろう。
あの男自身の性は善ではあると思う。
だが、それを知っているものが何人いるかは不明だ。同じ忍軍の大多数すら、彼が血に飢えた乱暴者だと信じているに違いない。
問題を起こす度、蘇摩はどうにか味方に立って代弁を試みるのだが、流石にもう手が回らない。痛い頭を押さえる代わりに、知世姫を振り仰ぐが、幼い主君は未だ笑顔でいる。
元々笑みを絶やさない御仁であるが、どうも様子が変だ。
蘇摩の注視に気付いたらしく、他の者たちには聴こえない程度の声で、そっと囁いた。
「黒鋼にお話しするには、少し説明不足だったかもしれませんね」
黒鋼の行為については、一切お咎めなく。
しかし、黒鋼が怒ったのは判らないではない。姉妹そろって、人の関心を玩ぶのが楽しいらしい。とくに変なところで真面目な黒鋼は格好のえじきだ。
少々同情はしているが、主君の手前「そうですね」と、頷くにとどまった。
それにしても、本日の知世姫の「夢見」はわけが判らない。真夜中に、戦いから戻り次第黒鋼を召すよう言い渡されたかと思えば、語って聴かせたのはさきほどの話だ。
例えば、自分ならば。月読の配下とはいえ、天照帝の遠征に付き添うことも度々ある自分ならば、そういうこともあるかもしれない。ただ、それが黒鋼となると首を傾げざるえない。
ああ見えても知世姫に絶対の忠誠を誓い、白鷺城から遠くに離れることはほとんどない。例え、追放されても、自ら戻ってくるだろう。そういう男だ。
女が茶を入れるか、姫に伺いを立てにきたが取り合わず「いいですわ」と断ってしまう。
女は姫の機嫌が損なわれていないか心配しているが、おろおろしているのは蘇摩も同様だ。黒鋼に決して冗談ではないと取りなしするべきかどうか。
迷っていた目が凛とした少女のその上で止まった。
「私、決めましたわ……あんな黒鋼の顔、見たことないですからね」
決めた? 黒鋼の顔?
最後に見た怒りに燃える男のそれを思い出したが、姫は想像を見抜いたのか「夢で見た方の顔ですよ」と、正された。
あっけにとられたままの蘇摩をよそになおも喋り続ける。
「困難が定めであったとしても、ああして安らかにすごせる時間が存在するのは、他の何にも代え難い貴いものでしょう。私はあの方に従います。蘇摩、ご苦労でした。この件に関してはもう結構ですわ」
そうして、春色の襲をひるがえすと、少女は御簾の内に戻っていった。
07.05.13
知世姫の口調難しい……!