食前方丈

 あの魔女に対し思うところは多いが「衣食住確保してこその雇用よねー」という意見には賛同せざるえない。
 教職員専用の寮は1LDKで、単身者住まいにしてはやや大きめだ。単純に居住面積の広さにとどまらず、天井が高い点も評価できる。上背がある人間にとっては重要事項だ。 風呂場も、よくあるワンルームのようにせせこましくはなく、広々としている。
 例え、平日は夜遅く寝に帰るだけの場所とはいえ、居心地の良さは何にも代え難いことだった。
 そんな平日、自宅に帰ると、テレビ横のデジタル時計は18時半過ぎを示している。
 対外試合等を控えていない部は、定期試験前の休部。授業の用意もほとんど必要なかったおかげで、随分早かった。テスト問題は一週間前に作成済みだ。こんな安息は滅多にない。
 時計上の壁面には、独身男の住まいには不似合いな、手のひらほどの版画がかかっている。プリントではなく、きちんと額装された本物だった。
 いわゆる抽象というやつか。ざくざくと鉛筆でひっかいたような青色の固い筆致の線が縦横無尽に走る。
 そして、絵のかかった壁の向こうには隣人が住んでいる。
 体育教師は、拳でその壁をやや乱暴に叩いてみた。
 当然、額がカタリと揺らいだが、壁の向こうでも同じ絵にかかった同じ額が動いたはずだ。
 しっかりした造りの部屋だが、ちょっとしたいわくがある。
 元々4LDKの間取りだった管理人用部屋を、この部屋と隣の部屋とにリフォームで分割したそうだ。そのせいか、隣室との仕切りだけ、他に比べて著しく薄い。叩けば振動が伝わるし、外の騒音よりもよっぽど大きく響いた。
 それを知らされず入居した当初、隣人の生活音がうるさくて怒鳴り込んだのも、今や懐かしい。
 ぴくりともしない絵を見やってから、夕飯の予定を考え直す。
 もっとも、隣人は終業すぐに双子の弟と連れ立って帰っていったから、不在は予想の範囲内だった。
 ひとりなら適当にインスタントラーメンでも作るか、近くの弁当屋にでも行くか……。
 冷凍した飯をあたためて惣菜は外で仕入れるかと、財布を手にしたとき、それまで微動だにしなかった額がカタと突然揺れた。地震ではない、他のものはぴくりともしていない。動いたのはその絵だけだった。
 体育教師は財布をカバンに戻し、サンダルをひっかけると廊下に出、そして隣室のドアを叩……く前に、自動でないはずの扉がひとりでに開いた。
「すごいな、本当にすぐ来た」
「えへへ」
 その先には同じ顔がふたつ、片方はふわふわとして笑い、もう一方はしきりに感心している風である。
 抗議する間もなく部屋のなかへと招きいれられ、リビングの――黒鋼の部屋と同じ造りだが――4人がけの正方形のテーブル上に、PP容器がずらりと並んでいるのにまず面食らった。
 表面に印字されているのは、有名スープ店チェーンのロゴだ。不透明な蓋が被せられたその数は、軽く10はあるだろうか。
 いちいち確認はしなかったが、その円筒の形状と店名からいって、中身はスープに違いない。
 運動部への差し入れに、ドーナツを買って長机に並べたことはあった。甘い香りが部室に漂うのに辟易したが、別の意味でこれは壮観だ。
「何やってんだ、お前ら」
「夕飯兼試食ー」
 端的ながらへらへらっと説明を受け、試しに一番手前のものを開けると……濃い茶のなかに人参の赤とブロッコリーの緑が垣間見える――デミグラス系のスープらしい。その隣は白いクリームベースだ。牛乳の香りが湯気となり、むわっと顔にまとわりつく。
 熱くはないが、触るとまだどれもぬくい。朝から晩まで若い女性たちがひしめき合っている、支店の様子が思い浮かんだ。
「……どれもこれも汁物ばっかりかよ」
「すいません、ボクが買ってきたんです。仕事の参考に」
 同じ顔をしたうちの、家主ではない男が全く悪びれた様子もなく詫びをいれる。反省が足りないのは遺伝らしい。片割れなら怒鳴りつけているところだ。
「黒みーなら、こんなの軽いもんでしょー」
 化学教師が、椅子をひく。その席には既に青いランチョンマットとスプーンと箸とが用意してあった。選択の余地はないらしい。
 もっとも、量と献立の特殊ささえ除けば、夕飯をごちそうになるという事実は歓迎ではある。
「飯も出せよ」
「もちろんー」
「これ以外にもっと食いでのあるもんはねぇのか」
「うん、あとオレのお手製料理もあるよ」
「何だ?」
「豚汁」
「殺す」
「あはは、有り合わせでよければ用意するって」
「おう」
「ボクも手伝おうか?」
「ユゥイは座っててよ。どうせ、解凍したり残りものばっかりだからさー」
 化学教師はぱたぱたっと、キッチンのカウンター内に小走りで向かった。腹を決め黒鋼も自身の指定席に座すと、右手にユゥイも腰かける。
 机上には容器以外に、未使用のスプーンが数本マグカップに差され、小皿とスープカップも幾つかが重ねられていた。テイスティングをするためらしい。
 間もなく、キッチンから水音、何かを炒める音と共に、醤油とかごま油の香ばしい匂いが漂ってきた。
 先に食いはじめようかと、黒鋼が手前の容器に手を伸ばすと、やんわりと右から制止された。
「レンジで温め直したのがくるので、そっちから取り分けますよ」
「……この上、まだあんのかよ」
「はい」
 嫌みが通じないのも遺伝らしい。爽やかな言葉に、肩の力が抜けた。
「……そもそも、こんなチェーン店の飯食って役に立つのかよ」
 せめてもの意趣返しと、あらぬ方向を睨みながら呟くと、片眉が上がる。
「そっちの方がいいんです。個人の店よりも、最大公約数の味覚が判るから」
 ユゥイは銀のスプーンを一本取ると、並ぶ容器のなかから4つ選び出した。
 それらの中身を、小皿の端。その半径へ均等な間隔に盛りつける。
 まるでパレットへ載せた4色の絵具のようだ、「試食しろ」ということらしい。
 渡された皿へ舌を伸ばすと、ユゥイが止めた理由がよく判る。どれもこれもなまぬるい。
 けれど、求められているものが判らず、綺麗になった皿を端にどかし、黒鋼は話の続きを待った。意図は不明だが、素人にこんなことをさせるのは、何らかの口火には違いない。
「例えば、今試してもらったグーラッシュや参鶏湯、ボルシチにしても、オリジナルよりもあっさりめなんです。パプリカの風味もそんなきつくない。店のターゲットが若い女性だから、控えめな風味なんでしょう。でも最後の……」
「カニとエビだな」
 4番目に味わったのはオレンジのスープ。皿を唇に近づけたとき、匂いだけでもう何だか判った。
「そう。このカニとエビのスープの味付けはそこそこ濃厚じゃないですか。甲殻類の味はかなり癖があるのに。日本人ってカニとエビが大好きなんだとよく判ります」
 そう語るくせに、目を閉じて聞けば丸きりネイティブにしか思えない、奇麗な日本語を喋る。
 正直、黒鋼には完全に理解しえない。実家の食卓に上がるのは和食ばかりだったし、各国料理を食べ歩く趣味もなかった。オリジナルだなんて引き合いに出されても知るものか。
 けれど、そんな人間の舌にも関わらず、今選ばれたスープはすっと馴染んだ。こういうのを「日本人好み」というのか。
 それらに比べると、カニとエビのスープの風味は遥かにどぎつい、でも、どこか懐かしいような味がした。耳と頭でなく、口と胃袋から言いくるめられたのははじめてだ。
 視界にはないが、キッチンでは化学教師が忙しなく動いている気配がする。見なくとも、ふとした息づかいや、食器などの合わさる音。それらが、ひそやかに存在を主張している。
 別に内緒話ではないが、しばらくこっちに戻らないだろうことをあらためて確認してから。
「常勤じゃなくて非常勤なんだってな」
「はい。空いた時間で料理本の翻訳やレストランのプロデュースに協力するつもりです」 「それが日本でやりたかったことなのか。向こうの店はオーナーシェフだったっていうじゃねぇか」  事実だけなら、ある程度は聞いた。
 だが黒鋼のなかで、この弟の突然の来日と教師になった事情が、未だによく掴めてない。
 おそらく、双子同士に息づく謎めいたもので、化学教師はその機微を感じとり納得しているのだろうし、それ以上に謎めいた理事長も、全てを織り込み済みといったところだろう。
 そしてそのふたりは、外目はオープンに見えるくせに、ぽろりとも口を割ろうとはしない。
 自分だけ仲間はずれにされてひがむ年でもないが、どうにも腑に落ちないでいた。
「……うーん」
 問いただされた本人は、怒るでも明るく笑いとばすでもなく、眉を寄せ苦笑する。困った顔が、一番片割れに似ているようだ。
「……日本では、イタリア料理はとても人気があるみたいなんですが……欧米の料理界だとどうしても『格下』に見られてるんです……卑下するつもりはないんですが、それで色々と考える部分が……」
 いつものひょうひょうとした様子は失せ、言葉を選び語る。別にみなまで知りたいわけではないから、ここまで言ってくれれば充分だと、黒鋼はユゥイの前に手をかざし止めた。
「料理のことはよく知らねぇが、言いたいヤツには言わせときゃあいいじゃねぇか。それに、詳しいことは知らねぇけどよ、そういうことする奴も必要だろ」
「…………」
 いきなりかざされた分厚い手に、途切れ気味だった口をつぐんだユゥイは、はじめ目を見開いていたが、小さく笑いだした。
 微笑からはじまった笑いの発作は激しくなっていって、ついには唇に手をあてて、こらえきれない様子になる。
「なんだ」
「いや……」
 バカにはされていないようだが、どうにも原因が判らず、やや憮然と尋ねてみても、一向に抑止に繋がらない。
 もうしたいようにさせようと、放置を決め込むと、ついには背を丸めてまで笑い続ける。
 そうしているうちに「はい、お待たせー」と、ユゥイの背後へ、大きなトレイを持った化学教師が近づいて来た。らしくもなく慎重な足取りだ。
「小茄子のお漬け物とほうれん草の白和えとこんにゃくとごぼうのきんぴらーと、ほかほかの白いご飯ーとスープー」
「寄越せ」
 トレイに並んだ皿を順々にテーブルに移していく。身体を折って笑っていた男も途中から加わって、温め直した容器を3つ、注意深く開けていった。本職だけあって、難しい汁物の取り分けにもそつがない。
 スープの内訳は、中華風かきたま汁に豆がごろごろ入ったカレー味のスープと、かぼちゃのポタージュ。
 きんぴらからたちのぼる醤油とカレーが混じり合い、たちまち馴染み深い日本の食卓の匂いができあがる。
「楽しそうだったねぇ。黒ぽんとユゥイ、何喋ってたのぉ?」
 「いただきます」はなく、思い思いにテーブル上のものをかっこみだしたが、食べるより喋る方へ傾きがちな化学教師から水を向けられた。
「別にたいしたことじゃないよ」
 食べている振りをして黙っていると、助け舟がきた。黒鋼相手にはどこまでも食い下がるくせに、弟は別物なのか、これだけで「ふぅん」と、ファイが納得してしまったのに、黒鋼は多少苛ついた。
「……ああでも、黒鋼先生と話してて、久しぶりに思い出した」
 それで、いったん話は切れたと思っていたから、突然の混ぜ返しに、やましいことなどないのにあやうくむせかかった。
 口にスプーンをくわえたままのファイが、首を傾げる。
「ん?」
 答えるまでは少し間があった。思い出し笑いなのか、また喉奥でユゥイが笑う。
「……ファイが前飼ってた黒い犬」
「あ−あれね。うんうん。でもオレがってわけじゃなくて二人で飼ってたじゃない」
「最初はね。でも、ファイが主に面倒見てたし、ずっと懐いてた」
 はじめは、話題の関連性が判らず不覚をとって、ほうけてしまった。かつての飼い犬と自分が酷似している、という指摘なのだと気づいたのは、白和えを咀嚼していた最中だ。舌の上のほうれん草を丸飲みにしてから、怒鳴る。
「誰が犬だ!」
「すいません」
 普段、化学教師を叱り飛ばす勢いで叫んだはずだが、ユゥイはまるで表情を崩さず笑ったままだ。
 とどめに、ファイからはぽんぽんと肩をはたかれ、まさに犬ころでもあやす勢いでなだめられた。
「黒わんのこと誰が見てもわんこだっていうのが証明されただけじゃないー」
 肩越しに睨みつけても、したり顔で頷くのをやめない。鉄拳制裁をしたいところだが、あいにく食事中だ。握った拳をいっんおさめておく。 「……そうか。それならじゃあ言ってみろ……俺のどこが犬だ?」
「色々あるけどー」
 たわいもない会話の流れだった。ここでやめれば良かった。
「何だ」
 口を開く直前の「言っていいのぉ?」という目の色だけで黒鋼の背筋がぞくりとしたが、次の発言で全身が凍りついた。

「舐めるのが好きなところ?」

 時が止まるとはこのようなことを指すのか。
 ひとり動けないでいる黒鋼をよそに、ファイはひたすらににこにこと。ユゥイはきょとんとしていた。
「なめ……?」
 ユゥイが語尾へ辿り付く前に、金縛りが解けた。これ以上喋らせたくないという気持ちが無意識に働いたのか、首根っこでなく、顔面に手が伸びた。鼻にかけて塞がれた口から、「ぐえ」とかいう呻きが漏れたが気にしない。
「忘れてた! お前のクラスの生徒について言っとかなきゃならねぇことがあった!」
 「ぐぐぐ」と、おそらく「そんなの知らないよー。それより黒たん、苦しいから離してー」とでも言ったのだろう。
 まだそんな余裕があったのかと、もう一方の腕で後ろから首も締めあげたら、今度こそ応答がなくなった。このまま「落とし」てやろうかという算段もよぎったが、後々の言い訳が面倒なので、椅子から無理矢理立たせ、本来の目的のまま寝室の方に引きずる。
「こっちの部屋で話すぞ、来い! お前は来るんじゃねぇ、個人情報保護の必要があるからな!」
 苦し紛れの理由だったが、追っ手はかからない。言いくるめられたというよりも、呆気にとられたままというのが正解だろう。
「……げふ」
 後ろ手にリビングとの境目のドアを閉め、回収した獲物を解放すると、喉を押さえたまま呻いている。棚に載ったDVDコンポをオンにし、ラジオに切り替えると、流行りのポップスが流れ出した。かん高い女声が、英語のサビをひたすらにまくしたてている。
「いい機会だ……一度確認しておくぞ」
 床にへたれこんだファイの前で仁王立ちになる。
「あいつは俺たちのこと知ってんのか?」
「……ううん」
「本当か?」
「ユゥイは頭いいんだけど、そういうとこは今イチ鈍いんだよね。昔っから」
 まだ息苦しいのか、ややしゃがれ声になっているが、誤摩化している感じではなさそうだ。
 とりあえず、ひとつはやり過ごした。だが、常からの懸念は払拭されていない。ずっと以前から、ユゥイが来日してから抱きっぱなしの案件だった。
「……仮にだ」
 音楽も流しているし、聞かれる心配はまずないはずだが、しゃがみこみ、化学教師と目線を合わせ、声の音量をひそめた。
「仮に、知ったらどうすると思う」
「別にどうもしないと思うけど……ああ、親に報告くらいはするんじゃないかなぁ? めでたいことだしねぇ」
 「めでてぇのかよ……」と、黒鋼は心中でため息をついた。ファイは、情人が浮かない顔をしている全てが理解できてないようで、くしゃくしゃっと、乱れた髪を手櫛で直している。
「『もしも』が続くが、それでお前んとこの家族が知ったらどうなると思う?」
「んー。多分、黒みゅうと家の方に挨拶しにくると思うんだー」
「マジかよ……」
 漏れたのは、相槌というよりも呻きだった。拉致の衝撃も去り、ファイは平静になった。つまり、天真爛漫に笑って、言った、
「オレの妹も日本人と付き合ってるんだけど、そのときも来日してるんだよね。うちの国、同性結婚オッケーだし」
「来日……わざわざか……?」
「観光も兼ねてだけどねー」
 脳貧血を起こしたときのように、意識が遠ざかる。その刹那、体育教師の脳裏にある情景がよぎった。



「勝手が違うかもしれませんが、どうぞ楽になさってください」
「お気遣いなくー」
 庭からはししおどしの音が響く。閉められた障子が、木々を通し柔らかとなった日差しを受け止め、独特の陰影を部屋に落としていた。
 廊下に囲まれた中庭は、両親自慢のものだ。その庭園に面している、もう半年は帰っていない実家の一部屋であった。
 平屋の屋敷には田舎ゆえいくつもの間があったが、大切な客人を通すとしたらここだろう。立派な床の間と適度な広さ、そして景色と立地。
「それにしても愚息にこんなかわいい彼女……じゃなかった彼氏がいただなんて初耳でした。すみません、進学のため家を出てから、つい放任になってしまって」
 そう語る母の着物には隙がない。
 若い娘のような華やかな柄や艶やかさはないものの、亜麻色の着物に女郎花色の帯が良く映えている。シックだが、古くささは漂っていない。「着物は色を生地にしてまとうものよ」とかねてから語る母らしい。この会合にかける、女らしい気合いのほどが知れた。
 隣の父親は歯を見せ、豪快に笑う。息子が彼女でなく彼氏とその両親を連れて来たような状況であっても、父は動じたりしないに違いない。
 その父の豪放さを尊敬しているが、もう少しは世間体を気にしてくれたっていいのではないかと、黒鋼は生まれてはじめて感じていた。
「いえいえ、私たちも弟のユゥイから聞いたのがはじめてだったんですよぉ。それで失礼がないかと思い、こうして駆けつけた次第でしてー」
 かのように詳細な状況設定ではあるが、机を挟んで両親の向かいに座す男女ふたりについて、黒鋼は何の予備知識も持っていなかった。
 取り急ぎ脳内で配置したのは、双子と全く同じ顔格好の男女ふたり。おざなりすぎるような気もするが、これが想像のファイユゥイの両親だ。にこにこにこにこと、邪気無く微笑んでいる。そして、これも正座に慣れない化学教師と同じで、やや足を崩していた。
 片方がシルクハットを、もう片方が内側にレースがあしらわれた豪奢なヘッドドレスを斜に被る。和装である黒鋼方の両親と見事な対比になっていた。
 対面同士でやり取りする双方の両親を眺める己の横には、やはりにこにこにこにこにこにことしている化学教師が居た。
 つまりこれは、とてもとても和やかな場であった。黒鋼の心中さえのぞけば。
「息子! 照れるのも判らないでもないが、こういうことはとっとと言うもんだ!」
「世間体なんて気にしなくて大丈夫ですよ! 私たちはいつだってあなたの味方ですから!」
「おう! 大船に乗ったつもりでいろ!」
「まぁまぁまぁまぁ。そんなしゃちほこばらないでもー」
 頬を伝う冷や汗は、妄想のものか現実のものか。激励を遮りたいのだが、よくある悪夢のように、舌は強張ってしまいぴくりとも動かない。
「お言葉は有り難いですが、こういうことはきちんと進めなくてはなりません!」
 そして、黒鋼の父母が額を突き合わせ「……やっぱり、この場合はファイさんを養子として迎えるべきかしら……?」「確かにうちは一人っ子だが、あちらのご都合もあるだろう」と、ひそひそと内緒話をしている……つもりらしいが、元々音量のつまみが壊れ気味な父と、大声ではないが凛として良く通る声の母ではあまり意味がない。筒抜けな会話に、双子と同じ顔の母親にあたる方が、ぽんと胸の前で手を叩いた。
「その点についてはご心配なく−。ファイは跡取りなど考えなくてもいい立場ですんでぇ、お好きになさってくださいな。それにうちの国では同性結婚が可能ですから」
 途端、両親の顔が一面喜色に染まった。
「あらあらあらあらあら!」
「なら、早ぇうちがいいな」
「黒さまー。オレクラ▲スみたいなドレスを着るのが夢でー」
 それまで黙って、にこにこにこにこにこにこにこにことしていたファイが突然こちらにしなだれかかってきた。甘えているつもりらしいのか、いつもより鼻にかかった甘い声音だった。
 「やめろ、離せ」と、ふり払いたいが、身体も動かない。黒鋼の肩にかかったファイの白い手に、負けぬほどの白くたおやかな指が重ねられる。母だ。
「ファイさん。洋装もいいけれど、よければ白無垢も着てくださいね。お色直しでいいから」
「もちろんです、ええと……」
「どうぞ『お義母さん』と呼んでくださいな」
「お義母さん!」
「ファイさん!」
 ひしと手を握り締め合う、未来の姑と嫁。この様子なら嫁姑の争いは心配なさそうだ。父親同士も明るい未来を思ってか、穏やかな顔で頷き合っていた――。



「黒たん、あぶら汗ー」
「…………」
「わー、拭いても拭いてもまだ汗がふきだしてくるー」
 死に際には、人生の出来事を走馬灯のように視るという。では、今のは何であるのか。未来視か。妄想か。それとも……。
「おい」
 微動だにせず、手近にあった台拭きで顔を拭われるがままだった黒鋼だが、ファイに向き直ると、がっしとその両肩を掴んで顔を寄せた。
「言うな! 悟られるな! 全力で誤摩化せ!」
 隣室のユゥイに聞こえないよう、耳元で鋭く囁いた。強めの語気であったのだが、化学教師はへにゃんと笑う。
「判ったー」
「……いいんだな」
「うん。黒ぴっぴがそう言うのなら」
 正直とっくに「デキて」いるにも関わらず、つくづく虫のいい願いであるとは思う。だから、こんな簡単に承諾されるとは考えていなかった。黒鋼の念押しに、ファイは小さく首を振った。
「大丈夫。まだまだ自由でいたい黒みーの気持ちちゃんと判ってるよ。結婚を考えるような年じゃないもんね。だから気にしないで」
 俯いて「俺はまだ待てるからー」という台詞は、男でさえなければ健気に思えただろうか。
 そこじゃねぇ。問題はもっと根本的なもんだ。
 見解の相違を正したいが、その気力もなく、リビングへ戻る。
 そこでは、椅子に座ったままのユゥイが食器ではなく、電子機器らしきものとにらめっこしていた。
「ユゥイ?」
「あ、今のってこっちの意味なんだね。やっと判った」
 近寄れば、電子辞書だ。モニタには、

  なめる【嘗める・舐める】   相手を小馬鹿にする/あなどる

 と、表示されている。
「ああ、そうだ。まさしくそれだ」
 黒鋼は重々しく頷いた。そのような解釈は予期していなかったが、渡りに船である。
「でも、別にあの子がこんな態度とった憶えは……」
「ほらほらユゥイ、次に温めるの何にする?」
 「ナイスフォローだ」と、黒鋼はファイに心で喝采する。実に自然な話の逸らし方だ。ユゥイは、残った容器に集中しはじめている。
「あ、うん。ありがとうファイ。じゃあミネストローネと……」
 しかし、残ったものを選ぼうとしていたユゥイの動きが止まった。ジーンズのポケットに手をやる。
「ごめん、電話だ。はい、少々お待ちください――」
 シルバーの携帯電話を耳に当てながら、たった今黒鋼とファイが一時避難した奥の部屋に、今度はユゥイが向かう。再び扉が閉じられ、そこからは流しっぱなしにしてきたラジオが微かに響いてくるだけだ。



「また仕事の電話かな」
 ファイが3人分のほうじ茶を注ぎながら、小首を傾げる。
「携帯を連絡先にしてるから、電話とかメールとかよくあるんだよ」
 その説明に黒鋼は先ほど交わした会話を思い起こす。
 到底己が直接手助けできることなどなさそうだが、夕食にスープを付き合ってやる程度だったら構わないだろうと、黒鋼が腹を決めたとき。
 閉めた扉を背に、ユゥイはやや声のトーンを落とし、言った。
「もしもし……うん、小龍くん。あ、日曜の件か。待って、今予定みる……」
 ユゥイは、首元と頬とで携帯を挟み、電話が入っていたのとは別のポケットから取り出した手帳で、今週末の予定を指で追う。
「今? 今はファイの部屋。そう、黒鋼先生も一緒――訊いたかって? そんな当人たちが言い出さないのに、核心に触れるわけにもいかないよ」
 付属のペンで何行も書き連ねられた予定欄の空白に、メモを書き込んでいく。
「『まどろっこしい』って? そうだね――でも、急ぎの用件でもないしこんな日本風もいいんじゃない? 少なくともボクはとても楽しいよ――ん、14時以降ならフリーになると思う。仕事先のレストランでランチ取りながらの打合せだから、昼食はいらない、すぐ映画だね。リザーブ席取るのお願いするよ。うん、待ち合わせ場所はメールする。じゃあ」
 通話を切った携帯に「試験前なのに余裕だね」と、囁きかけてから、ユゥイはリビングに戻ったのだった。








09.02.15
ほりつばは(黒ファイを中心とした)ラブコメだと信じている私が通りますよ。