two alone

 士官したらしいオレたちに割り当てられたのは、兵舎の一室だった。
 言葉が通じないから確認できなかったものの、どういう状況となったのか、そして、そこがどこかなんて一目瞭然。
 王宮から近すぎず遠すぎずといった立地に、仰々しい門と塀と大きいばかりで装飾に乏しい建物、連なった厩舎を背景に号令らしい鋭い怒声が響く。敷地に入れば、鍛錬に励む兵士たちが剣をまじえる金属音がひっきりなしに聴こえた。
 そして、敷地内で顔を突き合わせるのはことごとく男ばかりで、女性の姿が一切なかった。どこの世界でもこれらには変わりない。
 愛想のない同行者は、案内の兵士から矢継ぎ早に説明を受けているようだが、オレはすることが見つからない。彼にしては従順に、時折兵士へと頷いている。
 まくしたてられる言葉は何かの呪文のようで、右から左へと抜けていく。仕方なく、数歩前を歩く大きな背中越しに周囲をじっと観察を続けた。
 かといって、ところどころの文字らしい看板が読めるわけもなく。傾斜角度の低い屋根に「さほど積雪のある地方ではないのだ」と、うすぼんやりと捉えるにとどまった。
 平屋の建物内に入ると、長い廊下に簡素な扉が等間隔に並んでいる。日中のせいか人の気配はほとんどない。案内人はその一室へ入るよう、同行者とオレに手招きしたのだった。



 招かれた部屋は、大きく質素で、味気ない寝台が数台並ぶ。雑居に異存はないが、今は状況が状況だ。
 じきに日が傾いて、訓練から戻ってきたらしい男たちは新入りの……特にオレを見ると目を白黒させた。
 どことも知れぬ異国出身の傭兵二人に、片割れの風貌はここの民と異なる上に唖である。不審がられてもやむなしだ。どこかの密偵だと疑われはしないかと、心配はしていた。
 だけれど、幸いともいうのか先住の男たちはオレのことを白痴とでも思ったらしい。  おそらく、着衣にも不慣れであったり、言葉が判らない分、表情の変化から読み取ろうと他人の顔を凝視していた様子から判断されたのか。この世界に来てしばらくは、それが顕著だったからやむなしといったところだろう。
 初日に少々遠巻きにされた後は、髪や肌色が珍しいのか無遠慮に引っ張られたりつつかれたりした。
 もっとも、子どもに対するような邪気のない行為だったため、したいようにさせた。嫌疑をかけられるより、こうして遊ばれる方がずっといい。
 なので構わず笑っていると、警戒心もすっかり薄れていったようで、他の部屋の者も訪問するようになった。彼らはオレを囲み酒を臓腑に流し込みながら、判らない言葉を投げかける。一方的なやり取りだ。
 戦う最中に用いる命令はごくごく限られる。「前へ」とか「引け」など、あとは銅鑼や進軍のラッパの音。日中の訓練や月の城での戦闘にて、学ぶか肌で感じとればいい。  比べて、日常に使う語彙の何と膨大なことか。騒々しい雑音の中からよく聴く語、耳につく音を拾い上げて、検討を付けるが核心はない。酔っぱらいに問うても、徒労に終わりがちであるし、連れに尋ねるにも、この環境では二人きりになる隙がなかなかないのだ。
 彼らは、その同行者にも時折語りかけているようだが、その応答は芳しくはない。
 彼は、いかにも周囲の喧噪がわずらわしそうな佇まいであるにも関わらず、場から離れることはなかった。オレを中心とした人の輪の外周よりもずっと遠くに座し、酒を飲んでいる。
 たまに下卑た話題なのか、嘲笑めいたものが沸き起こるたび、眉間の皺が一層深くなった。内容については大体の想像がつくが、気にしなければいいのに。もっとも、そんな一言すら伝えられないのだけれど。
 自分がというより、あちらが不快そうなので逃れようとは試みたけれど、敷地内で逃げられる範囲は知れているし、まだあまりうろうろしていると不審がられそうだ。寝台で寝ていたとしても気付けば枕元ではオレを肴にして宴会がはじまっている。外に出ようとしたが勝手が判らない上に門限もあった。出陣し、自由時間となると、就寝するまでずっとそんな調子だ。
 しかし、そんな生活が続いたのはほんの一週間ほどのことだった。
 相も変わらず眉間に皺を寄せている男に、少ない荷物をまとめるよう身振り手振りで指示されると、敷地内の別の棟に連れてこられた。
 そこも兵舎ではあるが複数人の雑居でなくて、ゆったりとした室内に寝台が二つあるきり。簡素な個室には変わりないが、人の住むべき場所に大分近い。木で組まれた格子の戸は、立て付けの悪かった大部屋と異なり、軋む音もなくするすると開閉ができる。幾つもの四角い隙間から伸びた光が床を照らす。窓からは、風向き次第で臭いが漂ってくる厩舎でなく、ささやかな庭園が覗けた。
 ほおと、内装を眺め倒していたら、抱えたままの荷物から財布を取られる。一週間分の報奨金の中から、数枚の硬貨を中央にあった机上に並べられた。
 そして、自分の財布からも同じように。どうやら今までいた大部屋とは違い、家賃のかかる部屋のようだ。
 この世界の物価は判らないが、一週間分の報奨金から顧みるに決して大金ではない。この代金が一週間分か一ヶ月分かは不明だが、問題はないだろう。
 ただ、同部屋内や他の男たちの額を見るに、誰しもに稼げる額ではないのだと思う。
 この棟で寝起きしている顔が幾人分か浮かんだが、確かに上官かそこそこの功績を上げている人間ばかりだ。
 でも、大部屋にもそういった人間は混在していたので、兵舎が異なる理由までは判らずにいた。本人の希望か何かで、無料の雑居か有料の個室かを金次第で選べるというのならば納得はいく。
 目配せをされたが異存はなく、同意を込めて頷くと「ふん」と鼻を鳴らして背を向けてしまった。
 オレは廊下と窓の外に注意を払い、周辺に人がいないことを確かめてから。
「……黒るー、あのさ」
 喋っている意味など判るはずもないのに、条件反射からか今は黒い目がオレの唇を注視しはじめる。律儀な習慣だ。
「オレが侮辱されてるのが、そんな気に食わなかったのかなあ」
 わざわざ引っ越した理由なんて、それくらいしか思い当たらない。大きな声は立てられないから、ひそひそと囁く。
 久々に音声で聞いた自らの声と言語は、どこかざらついて不自然に思えた。舌はきちんと動いている、だけれど砂を噛んでいるかのように、どこかざらついて上手く回らなかった。
 だが、男は答えない。答えようもあるまい。オレの言葉など判らないのだから。
 オレがそれだけ言って口を閉ざしても、彼は話さないし動こうともしない。机を間にして、立ちつくすのみ。
 夜、月の城に呼ばれるせいか、兵舎にも関わらずここの朝は遅い。まだ早い時間だったからか、そよ風の音すら耳に滲みる。
 相応の訓練をされた人間らしく、男の呼吸は規則正しく静かだった。が、眼前に立っている以上、人が存在する息づかいは確実にあった。気配としてしっかと胸に届く。  そうしていると、あの訳の判らない音声のるつぼみたいな喧噪から離れたことを強く感じた。どのみち、意思疎通が容易でないのは同じなのだけれど、不安感は不思議と薄い。
 正真正銘、世界にこの男と二人きりなのだと実感したのだ。
「まあ……いっか。礼を言っとくよ、ありがとう。君がものを教えるのは苦手そうなのは判ってるけど、せっかくだから言葉教えてよね。オレ、このままじゃ、昨日までの二の舞だよー」
 案外に義理堅い男は、とっととそっぽを向いて具足を身に付けだす。わざとらしく、へらへら笑いながら、その顔の前に手をかざしたが、冷たくはたかれたきりだった。



 子どもたちとはぐれた今、毎夜毎夜の戦いによって得る報奨金が生活の糧だ。
 どこに行けば合流できるかなどのあてもないから、いつまでの滞在になるかも判らないが、下手に動かない方がいいとは思う。離れて居るにせよ、モコナで同じ移動した以上、そう見当違いの場所に落とされたとは思えない。
 そして、彼も同じ見解のようだ。オレと違い、周囲と言葉での意思疎通が可能な男は、軍に新顔が見える度に声をかけている。
 どうやら、捜し人を尋ねているらしい。全部は聴き取れないけれど、白いのがどうとか男の子どもと女の子どもがどうとかという単語を発していた。
 もっとも、その手間は報われていないようだ。心配は心配なのだが、今のオレにさしてできることはない。せめて、モコナと二人が一緒ならばいいと思う。それなら、最低限言葉の苦労はしていないだろうから。
 日々そうやって送る根無し草なので相手国に恨みはないし、夜叉の国にも義理はない。
 しかし、根無し草とて仮住まいは必要である。おあつらえ向きに、事情が判らぬ敵兵はオレたちにも、同じように斬りかかってきた。
 そうこうして、機械的に弓をつがえ剣を交えている日が十日過ぎ、二十日を越えたあたり。陣形において他雑兵と頭を並べていたところを呼ばれ、先鋒をきるよう指示された。中心が両翼に比べ突出したこの陣形においては、先鋒がどれだけ敵陣をかきまわせるかに、全てがかかっている。
 実際の働きもあろうが、重責を任せられるだけの信頼を勝ち得たのが大きかろう。騎乗したまま、隣を仰ぎ見るが、特に感慨はないようだった。今は黒いまなざしが、高台の下を見渡している。
 自分が異質なことなど、百も承知だ。
 せめて、もう少し人種に多様性のある国ならば良かった。町中や月の城での陣地を見渡しても、皆暗い目と髪に黄色の肌色をしている。たまに色素が薄いのもいるが、せいぜい赤茶程度。初対面の人間は、まずオレの容姿に目を見開き、足を止める。この国で自分は目立ちすぎた。
 きっと、己一人では、このような任務を務めさせられることもなかったと思う。例え、個々の意識はそうでなくても世論というのは排他的なもので、異なるものを排除する方向に動きがちだ。
 だから、これは君が勝ち得た信頼なんだろう?
 そう意思を込めて、男らしいごつい顎から頬にかけての輪郭を見上げるが、感想は戻ってこない。もっとも、返事の予想はつく。
 彼の行動原理は、あのとき聴いたままと同じでひどく簡単だった。単純に、今はこの国を守ると決め、それに従って行動しているだけなのだ。少年少女や……自分に、どれだけ親切にしようと、自国にはもっと優先順位の高い姫がいる。この旅の関係自体が、かりそめのものなのだ。
 そう考えを巡らせている最中、背後から進軍前の合図の太鼓がたからかに鳴らされた。隣は、その味気ない音に唇を引き上げている。いかにも楽しそうだ。
 手綱を引いて馬の向きを直しながら、オレも戦いへと気持ちを集中させようと試みた。  



 兵舎と戦場とを行ったり来たりする毎日だったため、貨幣価値など判らない。だが、酒代などの相場を見るに、溜まった報奨金はかなりの額であるのは間違いないようだった。
 使う手段と用途はあったが、オレはあえて意識して金を溜めるようしていた。
 この世界の貨幣など他の世界に移動すればガラクタだけれど、見立てたところ金含有率がかなり高い。これならば、換金も容易だろうと銅貨・銀貨など小銭も溜まり次第、こまめに金貨に両替する。
 今まで通ってきたある程度の文明を築いている世界において、金や貴石の基準はあまり揺るがなかった。打ち合わせたわけでないが、彼も同様な処置をしているらしい。小狼くんが服をとっておくよう経験で知っていたように。これも旅の知識だった。
 そして、財布がそこそこの重さとなった時分から道でやたらと手を引かれるようになった。
 駐屯地周辺には、飲み屋街が広がっている。純粋に酒と食い物だけを提供する店もあるが、大半は女性も商品として置いていた。あるいは女性の方が間借りをしているのかもしれないが、仔細は不明だ。簡単な単語ならば判別できるようになったけれど、肝心の教師役の男はどうにも指導力不足で、複雑な言葉になるとお手上げになる。
 この外見からか以前は袖引きも遠慮しいしいだったけれど、月の城での活躍と引き立てが評判となったのかもしれない。あるいは、単純に溜め込んでいるとの噂か。
 酒と白粉の匂いをまとって、全体重をかけてしなだれかかってくる女性からすり抜けるのを繰り返す。怪我をさせないように加減が難しいのだが、相手も商売なのだから下手に気を持たせて、貴重な夜の時間を潰してしまうのは気の毒だ。他の男なんて山のようにいるのだから。
 オレがそうして逃げている間、彼も同じような目にあっていた。
 もっとも、こちらについては兵舎周辺の環境を眺めたときから、諦めがついてはいたのだ。
 まず酒と欲情に流されて適当に女を買ってぼられるか、あるいは二度三度と馴染んで情がうつってきた頃合いで、病気の家族などを理由に有り金を搾り取られる。それが定石というものだ。
 だけれど、彼がその轍を踏んでも、一切咎めないようにしようとも心を決めてはいた。
 共に旅をしているとはいえ、今は「待つ」以外に目的もなく、ましてや彼自身が稼いだ糧だ。それを遊興に用いても、ばちは当たるまい。色欲に溺れ財布の中身をすっかりさらわれても、年令を考えるにそれも経験のうちだと見守るのに徹する構えだった。
 唯一心配なのは、この地に腰を据えるという選択肢をとる可能性。でも、彼の望郷と主君への念を伺うに、それはなかろうとたかをくくっていた。
 なのに、一向にその気配はない。
 オレよりも乱暴に、すがる女たちを引きはがしている。たおやかな身体がよろめくこともあったが、力が過ぎていない証拠に倒れるまではいかない。女も笑みをたやさないでいた。
 そして、一ヶ月も立つと、オレはほとんど手を引かれなくなったが、相変わらず彼に寄ってくる女性は尽きない。そして、外から戻ってくる度に残り香を確かめるが、酒以外の匂いはまとってはいないようだった。
 容貌の変わった異人は相手にしない方針に転じたのだろうと納得しかけた、丁度その頃の出来事だった。
 何の祝いかは不明だけれど、やたらと大きい宴席が設けられた夜のことだ。最初に高官からの挨拶が述べられたあとに、大広間に酒食が並べられほぼ無礼講での宴会がはじまった。いつもは部屋でほそぼそと飲む程度であるし、一応軍隊であるから、宿直の者も設けられる。それが最低限の見張りを残し、あとは一同に会しているのだから壮観な光景だった。
 乾杯のすぐあと、普段あまり付き合いのない輩が数人囲んで来て、やたらと酒を注いでくる。顔を見知った者が何度か近寄ろうともするのだが、そのたびに遠ざけられるか、自身も半ば強引に飲まされて進む酔いに誤摩化され、どこかに消えていった。
 中座しようともするのだが、大仰に笑われながら座るよう促される。
 仕方なく、どうせザルであるから注がれるがままに受けるがどうにも様子が変だ。普通の人間なら、二、三人は潰せるくらいの量を飲み干し終わると、ひそひそと囁き合いはじめた。
 不穏な気配に逃げ出すかどうか考えるが、こんな人に囲まれているのならばどうもできまい。宴が続く限り腰を据えて酒を飲んでいようと思った。
 そのまま数杯分を空にすると、男のうち一人が別の杯を「抱えて」やって来る。
 手のひらに収まる規格内でなく、オレの顔よりも大きい大杯だった。木製だが表面には赤い塗料が塗られ、つややかになっている。
 何度か、十数人で回し飲みしたときに用いたことはあった。それを使って、一人で飲めというのだ。
 有無など言えぬままそれを両手に押し付けられると、縁から溢れそうになるくらいまで、どくどくと澄んだ酒が注がれた。この国の酒は度数が高い割に、くせがなく飲みやすいが、こんな風にすすめられては躊躇せざるえない。
 流石に眉を寄せるが、器が大きすぎて、皿がびっしりと並んだ机には下ろすこともままならない。回りは……オレの次の行動を待ってにやにやとするばかり。
 そろそろと口から出迎えて、縁に唇を付ける。だが、喉に流れ込んだ酒はほんの僅かだった。
「…………」
 杯を傾けた瞬間、高台と背中を同時に小突かれた。力はそれほど込められてはいなかったが、バランスを崩して、杯の中のものが顔と身体にかかるのには充分。
 特に胸から腹にかけては、数枚重ねた着衣の奥の肌まですっかり濡れた。酒自体は人肌だったので、冷たくも熱くもなかったが、布がべたりと張り付く感覚に眉を寄せた。
 してやったりという嘲笑を押しのけて立ち上がるが、今度は邪魔されることはなかった。逆にあちらから通る場所を空けられる。未だ宴もたけなわといった喧噪を背中に聴きながら、回廊へ出た。
 肌や髪に落ちる酒は気色悪かったが、それよりも油断した後悔の方が大きい。とりあえず中庭にしつらえられた手洗場で、柄杓の水を頭からかけた。犬猫のように、首を振って雫を払う。けれど、衣服にもしっかり滲みているので、着替えないとどうしようもあるまい。歩くうち、股にまで酒が垂れてきていた。
 濡れ鼠のようになって、人気のない廊下をとぼとぼと進んでいるうちに、自嘲の笑みが口元に浮かんだ。
 そういえば、同行者はどうしているんだろう。途中、連なる人の頭の向こうに、見慣れた背中を見かけたのが最後だ。どのみち、まだ広間で飲んでいるに違いない。部屋には戻っていないだろうから、このみっともない姿をさらさないで済む。入り口や塀の周囲、武器庫、厩舎の方にしか歩哨は立っていないため、それ以外に見咎められることもないはずだ。
 棟違いの室に戻るため屋外に出ると、吹く風が一層身に滲みた。はじめて来たときよりは若干寒くなったような気がする。だけれど、今が秋なのか冬なのか、もっと寒くなるのかどうかも判りはしない。
 月明かりを頼りに歩を進めるうち、その足音に複数のものが重なりだした。気づいたのを悟られないよう、ややゆっくりと歩き続けるが、その差が性急に詰められることはない。しかも、背後だけでなく左右にもいる。おそらく、後ろに二、左に一、右に二。丁度、オレを中心にしてだ円を描いているよう。
 現状と先ほどまでの光景を元に可能性を考えるが、よろしくない企みしか思い至らない。軍隊ではよくある話だけれど、僻地に駐屯しているわけではあるまいしと、高をくくっていた。
 このまま走り抜けて自室に籠ってしまえばとも考えたが、人気のないあそこに逃げ込むのは得策とはいえまいし、距離もある。
 酔いで少々早くなった呼吸を整え、心中で五から一まで順にカウントした。〇になった瞬間に踵を返し、左の脇の植え込みに走り出す。
 追跡者とは、頭の高さの植え込みを越えてすぐに対面を果たせた。いきなり道を外れて飛び出してきた俺に驚いたのか、目を丸くして凍り付く。広間にて、大杯を運んできた男だった。
 しかし止まっていたのも束の間、オレを捕まえようと伸ばしてきた腕をすり抜け、全力で駆けた。振り返ったりはしないが、背後からの追手は多分七名。おそらく、前方に待ち構えていたのもいたんだろう。風をきり走り出すと、濡れた服が一層の重荷となって、更に身体から熱を奪った。
 近くの歩哨の元を目指すべきか。だけれど、相手が多勢に無勢で言いくるめられるか懐柔されては意味がない。既に手だてをしているかもしれない。そうなると、やはりさっきの広間だ。そこまで行けば。
 右に左ともつれることはなかったものの、酔いのせいでいつもよりも身体が重い。まだ僅かな距離なのに、呼吸はもう乱れはじめている。ざるだけれど、飲んだ直後に走るのはかなり堪えた。
 追いついてきた一人が、足に突進をかけてきたのを寸でで避けた。向きを変えるのに身を捩ると、酷使された肺から、息の塊が喉奥にまでせり上がる。
 気味の悪い顔をした二人が、左右から挟みうちを狙ってきたので、並び立つ細い樹木を左右に交わしながら走り抜けると、頭がぐらぐらと揺れそうになった。手指、足指先の感覚がうつろだった。身体に繋がっているにも関わらず、自分のものだという実感が薄い。
 休みたがる足を叱咤して無理矢理に動かすが、限界が近い。両の足だけの問題じゃない。脳みそと肺と胃が悲鳴を上げている。距離はすっかり詰められ、そのうちの一人は手が届く範囲内に入ろうとしている。
 いっそ、応戦してしまえれば楽だった。もう一人に比べ、体力がなかろうと軽んじられているのは知っていたが、体術には自信はある。
 しかし、それははなから考えていない。ここで撃退したとて、あちらはどうでる。翌朝、傷を負って不審がる周囲に、罪をなすりつけられればそれでおしまいだ。弁解する手だてはなにもなく、大抵の軍隊では私闘を厳しく禁じている。問題が起こった際、切り捨てるとしたら、余所者と土地の人間、どちら?
 この国に義理だてする気持ちなどさらさらないが、今やたらと動くのは得策でない。留まれるのならば、ここに居た方がいい。
 そのとき、後ろになびく髪筋に手が触れられ、鈍い痛みを頭に感じた。掴み抜かれたのは数本ほどだろうが、酷使した身体が止まる合図には充分だった。
 走っていたのがゆっくりになって止まる直前、最後の気力を振り絞り身体を反転させると、それだけで世界が斜めになった。迫ってきた男たちもぐにゃりと歪んで目に入る。   すっかり酩酊してしまっていた。汗はあまりかかない体質だが、脳天にまで熱が溜まりのぼせてしまっている。そのくせ、頭の中身だけは氷のように冷たく、背に触れる幹がごつごつとして痛い。
 人の大勢いる広間から遠く離れた暗がりで、木に背中を預けてしまったのにも関わらず、男らも動かない。オレと同様に息を整えるのと、抵抗されないかどうか伺っているらしい。そのうちに、野卑た笑みをたたえた顔がじりじりと近づいてくる。
 実際の行為自体は、不快なだけで恐ろしくはない。オレは女ではないし、下手に暴れなければ、傷を負わせられるようなことはあるまい。
 金品については、財布は同室者と同じであるので、そちらから奪いとれるほどの気概や実力は持ち合わせてないだろう。
 歪む視界に耐えきれずに目を閉じると、生ぐさく湿った空気をまとわせた気配が鮮明になる。酒しか飲んでいないのに、腹の中のものを吐いてしまいそうだった。
 陵辱されるとすれば、身体でなく魂だ。無理矢理に押さえつけ、意に添わないことを強要し、自らが弱者であることを思い知らされる。そういった意味合いでの強姦ならば、幾度も味わってきた。
 人より能力が秀でても、こんな遠くまで逃げてきても。まだ翻弄され続けるのかと。そう思うと我知らず歯を喰いしばり、棒のようだった身体が逃げの姿勢をとりはじめる。
 余裕なく追いつめられているのに、オレはいつまでも往生際が悪い。
 人の輪は狭まりもしなかった。どうしても、逃げる手だてがないだろうと、たかをくくられているのだ。
 目を閉じたままじりじりと後ろに数歩後ずさったのだが、やおら右腕を掴まれた。
 半ば諦めていたせいか、男たちがいないはずの背後からだったことにしばらく頭がまわらなかった。そのまま引きずり倒されるかと思ったのだが、それだけだ。掴まれた片腕以外に、近寄ってくる気配もない。
 そろそろと目を開けて手の主を見上げると、よく見知ったまだ宴席で酒を飲んでいるだろうと思っていた男だ。
 元より据わった今は黒い瞳で、うろたえている者たちを睨みつけていた。見上げると、また男の輪郭ごと視界が歪む。
 無駄な動作はなく。小さく一言二言呟きオレの二の腕を掴んだまま、七名の真ん中を抜けていく。男たちは気圧されたように、動きもしなかった。
 情けないが、オレの息は上がったまま。歩くというよりも、引きずられて進んでいるような有様だった。口もきかないし、こちらをかえりみることもない。だが、進んでいる方向としては、私室だろうか。
 はじめは歩幅の広い歩みに付いていくのに必死だったが、逃げてきた道を戻るうち、まだ二、三人尾行しているらしいのに気づいた。殺気はないものの、逸れる気配もない。
 男とて気づいているだろうに、真っすぐ前を向いたままだった。
 じきに宿舎に辿り着いたが、部屋の扉の鍵をかけるどころか、彼がわざと開けたままにしたらしいことにはすぐに勘づいた。ほんのかたちばかりのつい立ての向こう。広くはないが目で覗けるくらい、扉の隙間ができている。
 さっき瞼を閉じたときに感じた、生き物の存在する生あたたかい気配を感じる。出入り口の方だった。
 夜目がきくからか普段は明かりなど必要としない男が、何故か寝台横のロウソクに火を灯す。扉が開いている証拠に、そちらからの風で橙の炎が一方に揺れた。
 寝台に座るよう示され腰かけると床に膝をついた男に靴の留め金を外され、湿らせた布で足を拭われる。逃げているうちに、すっかり砂だらけになっていた。白い布が茶に染まった。
 丁寧に扱われる心地よさに肩の力が抜けかけたが、そうもいかない。
 本当は、このまま後ろに倒れて横になってしまいたいのだが、どうだか。寝かしつけられ、一人にされては元の木阿弥だ。施錠したとしても、こんな扉、留め金を外し枠ごとどうにかすれば済む。おそらく、顔を見た以上、このまま彼らが引き下がるとは思えない。
 そういったことを彼に色々と話したいが、見られているので口も聴けないのだ。
 いつになく甲斐甲斐しく世話を続ける男の意図が掴みかね、腹の辺りにある顔を覗き込む。真一文字に結んだ口元が印象に残る。赤々とした炎に照らされた顔は案外彫りが深い。髪が黒いせいか、色の変わった双眼もよく馴染んでいた。
 手足を拭き終わると口を開かずに上着を脱ぐように示された。頭から酒を被ったことをようやく思い出す。
 まだ生乾きの衣の袖を抜いた。と、手足を拭いたのと別のものが鎖骨の辺に当てられた。自分でやるよ」と、手を添えようとしたのに、鎖骨から首筋、背中からうなじと一方的に滑らされていく。
 この男らしくもない色々にかえって不審に思うが、こんな近くなのに表情は読み取れない。
 させたいようにさせ、しげしげと眺めているうちに、揃えた膝に手のひらがかかった。
 酔いで火照った身体には、服越しの感触でさえ「冷たい」。嫌悪感からでなく、温度差のため鳥肌が少したった。
 上半身をひねって逃れようとする前に、重心がオレへとかけられ顔が近づく。視界がぐるりと反転し、天井しか見えなくなったのはそのあとすぐ。
 覆い被さってきた男は耳元へ「うごくな」と、囁いてきた。
 もちろん、こんな関係を持ったことはない。本能として、身体は逃げをうとうとしたが、分厚い手足で、腕と足と肩などを拘束されると動く余地すらない。いや、なさすぎた。
 一切の抵抗をやめたのは、それに気づいたからだ。愛撫などでなく、唇や手は押さえつける以上触れてはこない。その、肌自体冷たいままだった。
 オレが微動だにしなくなると、足下にやっていた布団を上の男は自分の頭から被った。そうしても、一切核心には入らないけれど、はたから見れば閨事の最中だと思われるだろう。廊下から人の気配が消えたのは、そのあとすぐだった。
 立ち去ったのちに、男はすぐに布団をはいで寝台から抜け出ると、扉の施錠をし、わざわざ灯した明かりを吹き消した。そして、こちらではなくて、自分に割り当てられた寝台に横たわった。
 このまま寝ていたいと訴える上半身を起こして、彼の方を見るが、もうこちらには何の未練もないようだった。ただ、寝てもいない。そっと床に降り立って、そちらに近づくと、憮然とした自嘲めいた表情で開いた目を天井に向けている。
 とんだ猿芝居だったけれど、オレがこういった目的で手を出されるのはもうないだろう。おそらく明日か明後日中には、隊中に噂が広まる。立場の劣るオレだけならまだしも、もう片割れを敵に回すようなことはすまい。
 寝ている寝台に、横座りしても顔はこちらに向かない。合わない視線に焦れて、顔のすぐ横に手を付いた。先ほどとはまるで逆の体勢だったが、彼は動じない。睨みつけているようなかたちだったけれど、殺気は感じなかった。
「黒様、君さあ。本当面白いよ」
 「目」をこらすと、彼の額に丸い光が浮かび上がる。空いた手でその紋を辿ると、下の身体が居心地悪げにちょっとだけ震えた。ほんの少し。ほんの刹那の動揺に、意地の悪い話だけれど、優位に立てたのを確信し気持ちが高揚しはじめる。
「こんな呪をかけられてるから、どんな極悪人かすれっからしかと思えば」
 親指の腹で、わざとゆっくりなぞる。されるがままになっているのは、この動きのせいだろうか、それともオレの独白を逃すまいとしているせいだろうか。
「知らないだろうし、知っている必要なんてないけど、オレとかあの次元の魔女みたいなのは、君みたいに情の深い人間が好きなんだよ」
 他には、あの少年とか姫のような。正直で義理がたく、迷う弱さもあわせ持った人間くさい。案外、そんな人格は少ない。
「君がこの先何を見ても、変わらないといいね。オレが言っても詮無いことだけれど。だけど……」
 指を離し、腹に力を込めた。
「だけど、オレに情けをかけるの自体が間違いだ」
 オレの話す言葉は、彼には全く判らないだろう。けれど、もし判別がきいたなら言いはしない。矛盾した話だが。
「もし、そのときが来たら迷わずオレを捨ててくれ。高麗国でオレが君もまとめて見捨てようとしたみたいに」
 終止、神妙な面持ちでいる。はたして、オレが何を言ったと思っているんだろうか。
 冷たく、よそよそしくなった雰囲気を溶かしたくて、手をどかす間際に素早く顔を顔に近づけた。子どもにしてやるみたいに、わざと音を立てたキスを頬にしてやる。
 不意をつかれた男が我に返る前に、手の届く範囲から飛び退いた。ふっと振り返ると、追ってはこないものの、手の甲で唇が触れた箇所を慌てて拭っている。その様に声を立てて笑いつつ「おやすみー」と、自分の方の寝台に逃げ込んだ。





07.01.21
07.04.29修正