「抜くぞ」
身体を支える腕はそのままに、腰だけゆっくりと引いた。決して音はしなかったはずだが、ぬめってひっかかる感触が直接聴覚に訴えているようで、その一退ごとにずるずると聴こえないはずの擬音が耳に響く。
最後にひっかかって別れる瞬間は、なるべくそっとしたはずだが、互いに敏感な部分に触れたせいで、浸っていた余韻にさざ波が立った。俺は眉を寄せたが、下の男も「……んっ」と切なげに喉を仰け反らせる。肩を通り過ぎ天井を見つめていた蒼い目の色が微かに揺れた。
また覆い被さりたくなった肉体と気持ちとを理性で持って引きはがし、膝立ちで眼下を俯瞰した。
平らな胸は荒い呼吸に上下し、両足は俺の身体の両脇に投げ出されたままだった。火照って若干色濃くなった白い肌は、窓からの月光と枕元の蝋燭の灯で照らされている。質感が違って思えるのは、裸体がじっとりと汗をかいているせいだろうか。結っていない髪は乱れて広がり表情の大半を隠してしまっていたが、かえってちらちらと垣間見える唇などは艶っぽかった。
うっかりみとれて動かなくなった頭を慌てて振って現実に戻り、脇の懐紙箱から一枚引き出す。四つに折ってどろどろに濡れた局部に当てた。続いて肉の付いていない内股が震えて籠った肉の熱が若干上がった気がしたが、それには気付かない振りをして、なるべく感情を込めず拭き取る。
しかし、二度往復しただけで、何重かに折った紙は湿ってしまい、頼りなくなってしまった。すぐにも破れてしまいそうだ。
対して、汚れた部分は完全には奇麗になっていない。液体が付着したまま、夜目にもぬめって光っていた。
箱のなかに残った枚数を確認すると、その残りで素早く自らの方の始末を付け、片手で下帯と着物をおざなりに巻いた。魔術師には、足下で丸まっていた寝間着をとりあえずかける。
「じっとしてろ。湯を持ってくる」
目もくれずにとっとと立ち上がると「ありがとう」と、消え入りそうな声が退室する背中にかけられた。
後ろ手に戸を閉めながら、思わず舌打ちをしてしまう。
ああ、くそ。何だってこんなに始末が悪いんだ。女相手なら、懐紙数枚で足りるのに。
当ても無く毒づいたが、理由はもう判っている。潤滑用に香油を用いたせいだ。流石に油は水や体液のように、紙で拭くだけでは清められない。
はじめてだからやむなしとは言え、用意の足らなかった己を呪った。共犯である魔術師にまで責を求めなかったのは、男としてのぎりぎりの矜持故だ。
ともかく猛省はあとですればいい。湯と手拭と着替えとは最低限必要だろう。ただ、部屋置きの火鉢には、ここ三晩ほど随分暖かくなったので炭を入れていない。城の桜も満開になっているような季節だ。
鉄瓶も水差しも空だったし、手拭も着替えも置いていなかったはずだ。そして、全てを運ぶには片腕では足らない。隻腕となってはじめて実感した不自由だった。
そうなると炭は諦めて、湯を台所でもらい着物類をどこからか調達してくるのが早い。
ここ白鷺城ほどの規模になると、夜勤めの人間も大勢いるので一晩中火が絶えることはないが、何ぶん台所まではかなりの距離がある。ここは奥の院だから、文字通り城の端から端まで縦断しなければなない。
「面倒くせぇ」と、廊下に続く間に入ったときだった。
帰国して以来寝室としてあてがわれていたのは貴人が滞在する間で、寝室から廊下に出るにはいくつかの部屋を抜ける必要がある。
本来の用途ならば、それらの間ではお付きの家来や女中が控えるのだが、当然ながら無人のままだった。
少なくとも、さきの夕飯までは人どころか、物品も全く置かれていなかったと思うのだが、今目の前には、陶器製の火鉢がある。そして、良くならされた灰には五徳が立てられ、その上の鉄瓶からはこぽこぽと湯気が上がっていた。
それだけでなく、隅の方には布団が一組畳んで置かれ、上には寝間着と手拭が載せられていた。脇には水差しも。とりあえず、夜中に城を歩き回る必要はなさそうだ。
「気が利くじゃねぇか」
床につく前、最後に入室してきた人間は今臥せっている魔術師だけだ。目覚めて以来、医者の診療以外に、直接身の回りの世話をしていたのも彼だった。
何の疑いもなく、魔術師が用意したものだとそのときは思ったのだ。
布団は残し、鉄瓶を下げ布は小脇に抱えた。もう一度行って水差しをとって戻り、寝床をはいだ。
「顎あげろ」
丁度いい加減にぬるめた湯で湿らせた布で首もとから拭いてやると、心地良さげに瞼を閉じ、されるがままになっている。時間があいて興奮が引いたせいか、今度はきわどい部分にさしかかっても動かない。相手の全身を拭ってから、あらためて自分を。そして新しい着衣をまとった。
寝転んでいる男に着せるのは面倒だったのでいったん起き上がるように言うと、けだる気ながらも身を起こし、俺の右肩に顎を載せるようにした。
互いに密着したまま、下帯をまわし寝間着の袖を通す。紐を巻く段になると、だらりと下がっていた魔術師の腕がそれらを素早く結んだ。
性的なものからは遠いが、人の体温と首筋に当たる吐息とさらさらとした髪の感触に、安堵感は増す。重心が徐々にこちらにかけられていくことも。柔らかい金髪が覆う丸い後頭部が少し傾げられた。背中にまわされた手に力がこもったので、俺も同じようにしてやった。
「黒るー、随分早かったね。お湯どころか水もなかったでしょ?」
しばらくそのままだったが、魔術師が微睡みながらという具合にゆっくりと口を開いた。その問いに、すっかり彼方に流されていた事柄が蘇る。
「……火鉢を焚いてたのはお前じゃないのか」
「えぇ?」
頭が上げられ、まん丸に見開かれた目が視界に入った。
「――鉄瓶に水を足したり、手拭や着替えを用意してたのはお前だと思ってた」
「ちょっ、ちょっと待ってよー」
ぶんぶんと首を振って俺の予想を否定した魔術師は、身体を離すと、十数回ほど大きく息を吸って吐いた。考えをまとめていたらしく、俯いたままぼそぼそと力なく喋りだす。
「こんな暖かい夜に、わざわざ火鉢に炭を入れようなんて思わないよねー?」
「そうだな。どうせ入れるとしたら、無人の場所じゃなく、寝床こしらえてるこっちの間に置くはずだ」
「……手拭や替えの寝間着をこんな遅い時間に置いたりしないよねー?」
「そうだな、別に風呂を使う前じゃねぇしな」
ふたつとも疑問というか確認だ。当事者が関わっていないとすれば、導きだされる結論はそう多くはない。そして、この城で余計な気遣いをするような人間もごく限られている。
顔を伏せ四つん這いになった男のうなじが、情交の最中以上に赤くなって、無言で見守るうちに白くもどっていく。そのまま向かい合っていると、布団に突いた左手の指が何か文字のようなものを描き出した。寄せられる皺のかたちには見覚えがある。
「おい、何やってる」
「……世界ごとは無理だけど、今ある魔力でもこの城くらいなら……」
「待て! 早まるな、おい!」
軽く頭をはたくと「げふ」といううめき声と共に、顔から布団に突っ込んだ。もう一度叩くと、たいして力もいれていなかったはずなのに、おおげさに転がって背を向けてしまい、枕を抱え込んで顔を埋め叫んだ。
「うわーん! 残った魔力別のことに使おうと思ってたけど、こっちに使うー!」
何に使うつもりだったのかは知らねぇが「勿体ないことすんな」とだけ言うと、尚も納得がいかないのか、芋虫みたいになったまま左右にごろごろと転がったが、放っておいた。両足を組み、長期戦に備える。
そのうちに落ち着いてきたのか徐々に静かになって、相変わらず顔を隠したままだが、動かなくなった。くぐもった声で問われる。
「……黒様は恥ずかしくないの」
「バレちまったもんは仕方ねぇ。事実だしな」
気恥ずかしさは当然ある。そして苦々しく思う一方、気持ちは諦観の境地に達していた。
思えば忍軍に迎えられて以来、あの姉妹の世話になってきたのだ。良く言えば親族同然に親身になってくれたとも言えるが、多感な少年期だったにも関わらず随分ぞんざいに扱われてきたように思う。
はっきりと思い描いたことはなかったが、選んだ相手が日本国の者であれ他世界の者であれ、男であれ女であれ、この状態は予想の範囲内での帰結だったともいう。
あの姉妹の行動の裏側に悪意はないのだ。ただただ退屈な日々を、身近な黒鋼への茶々というかたちでもって、刺激的に彩りたいというだけなのだ、多分。
だが、部外者である魔術師に諦めを求めるのは酷だとは俺でも思うし、かける言葉も見つからない。まぁ、別に悪いことをしたわけでもないので、あとは本人の気持ちの問題だ。
「どうしてバレたんだと思う?」
あぐらを組んだ膝先に寝転がったままだが、蒼い目だけ枕から覗いた。眉は困惑ですっかり下がっている。同時に乱れた裾からのぞく足に目が吸い寄せられたが、注視に気付いたらしく、すぐ直されてしまったのは実に惜しかった。
「雰囲気とか口調じゃねぇのか」
「――別に前もこんなだったじゃない」
「前」というのは「東京」以前のことだろう。
「いや……『前』と違って、俺が文句言ってねぇだろ」
「どういう……あ……」
「だろ」
指摘すると最初は判らないと目で訴えていたが、思い当たったようで枕を抱えた両手の力が抜ける。現れた口はぽかんと開いていた。
以前は「黒様」だの呼ばれるたびに、怒鳴ったものだ。それ以外のふざけた言動にも同じように応じた。
しかし、帰国してからは言われるがままにしているし、語尾を甘えた風に伸ばしてしなだれかかってきても一切振り払っていない。周囲の目が気になってはいたが、結果を隠しても仕方がねぇ、どうせいつかはバレることだと、そのままにしておいた。
異邦人なため、立っているだけで奇異の目で見られている魔術師としては、その視線も一緒くたにしてしまい、ついつい見過ごしてしまっていたのだろう。
それっきり俺の顔から視線を外すと、何か考えているようだった。ぶつぶつと口中で呟いていたかと思うと、やおら身体を起こし、なれない正座でもって俺と向き合う。
「オレ、やめる」
釣られて居住まいを正すと、開口一番意味不明ながら強い文句が飛び出た。
「どういう……」
「オレ、口調とか変えるから」
「はぁ」と要領を得ずに返事をする俺に、何故か力強く頷く。その様子からは、先ほどまでの甘ったるい時間は微塵も感じられなかった。
一人分の朝食膳を下げて戻ってきた男は、髪を結い終わり、もうすっかり身支度を終えてた。昨日までは着物の下は素足でいたのだが、最初の頃のようにくるぶしまでの履物を仕込んでいる。
「支度はできたかな」
未だ座ったままでいた俺にかけられた肩かけをさばけた動きで外す。昨日以前なら、そのついでに寄りかかったり、耳元にやくたいもない言葉を囁いたものだが、今日は全くそれだけだった。
「ほら、知世姫がサクラちゃんのところに案内してくださるそうだよ。急いで」
取り去ったそれを畳むと、俺を待つことなくとっとと退室していった。昨日までなら、俺の右腕に腕を絡め、引っ張るようにしていったことだろう。
朝日のなか、まだ立ち上がれないでいるそんな俺を眺める二つの黒い瞳があった。
「あらあらあら〜、一夜明けた途端に、随分とさばけた感じになられましたわね」
出入り口から顔だけを覗かせる知世姫はさもおかしげに、袖で口を覆っている。
「お前ぇのせいだ」
重い腰を上げて大股でその横を通り過ぎると、笑いながら後ろに続く。
「人のせいにするなんて、子どものすることですわよ」
そして、俺を通り過ぎて先に廊下へ出ると立っていた魔術師に「行きましょうか」と声をかけ、連れ立って先に先に進んで行ってしまう。こちらを全く顧みない。
「恨むぞ」と渾身の殺気を込め睨み付けつつ、二人の数歩後ろを歩いていった。
07.10.31
色々と酷い。
どっちかというと腹くくったらフローライトのが開きなおりそうですが、嫁入り前の婚前交渉が小姑に知られたらそりゃ恥ずかしいでしょ、というお話。