隣に騎乗しているファイの背には、十数本の矢の入った矢筒が負われていた。肩に引っかけた弓はてっぺんは頭の遙か上、下は馬の足を擦るほど長い。長弓であった。
黒鋼が苛立ちまぎれに手綱を引いて馬を時計回りに反転させると、ファイは「どうしたの?」と、見上げてくる。
長弓の方が威力も射程距離もより大きい。だがその長さのため、騎馬での扱いは難しい。歩兵が扱うのが常だ。
夜魔の武器庫にて、ファイが真っ先に手にしたのがこの弓だった。
月の城での戦いは騎馬戦になると聞き及んでいたため、すぐに近くにあった短弓を渡したのだが、どうしてもこちらを選ぶ。馬屋を指して、身振り手振りで説得したが、結局最後には笑顔で「こちらがいい」と示すだけだった。
しかも、鎖帷子をまとった腰には何も下げていない。せめて短剣でも携帯させようとしたのに、拒まれてしまったのだ。
そして、そのままここ、月の城に到着した。憎々しいが過ぎてしまったことは仕方ない。もうこちらの陣地は小高い丘の上にあって、遙か眼下では修羅の軍隊も同じように陣形を整えつつあった。両軍の兵の数や戦力は、たいして差はなさそうだと黒鋼は踏んだ。
はじまれば入り乱れての会戦らしいので、それならばどうにかなる。作戦など斬り合いがはじめれば無きに等しいので、数に紛れたなら誤魔化せる。どのみち「不殺」を貫く以上、まともにやり合うつもりは黒鋼になかった。隣のボンクラが致命傷を負わないよう、気を付けるだけだ。
そう、黒鋼が諦めに似た気持ちで覚悟を決めていたとき、周囲の馬がいっせいに前を向いた。突撃を前に夜叉王が自軍を鼓舞しに廻っていたのだ。この国の王は、垂らした黒髪を揺らしながら、悠々と端から端に馬の歩みを進ませていた。
だが、ファイの前でふと止まった。目を細め彼の装備をしげしげと眺めている。「ちっ」と舌打ちしたいのを我慢した。戦上手ならば、それほどに異様な組み合わせであった。
けれど、叱責や呆れ言を唇にのぼらせることはなく、逆に顎に手を当てると、旗持ちの侍従に耳打ちをすると後方へ走らせる。戻ってきた兵は布でくるまれた一本の矢を大事そうに携えていた。
それは鏑矢であった。鏃がぼってりとして丸い。円錐型の先に四つの孔が空いている。
「余興だ」
夜叉王はファイを陣の前にひとり進ませると、その鏑矢を預けさせ、修羅の軍を指で指した。「射よ」というのだ。単純明快故に意味は判ったに違いないが、言葉が通じないためか未だとまどっているファイに再度告げる。
「そうだ。真っ直ぐ、中央の奥を狙ってみろ」
そこには阿修羅王がいる。中性的な容貌の将が目視できなくとも、周囲の旗や進軍のための銅鑼持ちで判別がついた。
最初どうするべきか思慮していたらしいファイだが、ついには弓に矢をつがえ弦を精一杯に引き絞りはじめる。
注目こそしていたが「無理だ」と、その場に居合わせた誰もが思ったに違いない。あまりに遠すぎる。
近く見えるのは、こちらが高台に陣取っているせいだ。直線の距離にすればどれほどか。そして、弓は弧をえがいて飛ぶ。到底不可能な技だ。
弦がきりきりと大きく後ろに引き絞られ、今は黒い双眼はいつになく鋭い。
細い身体の遥か後ろ、通常の幅の何倍にまでなってしなる弓を、限界に達し震える弦を、それを掴んだ指が前触れもなく放された。
普通、遠方を狙う矢はやや目標よりも上に放たれるものだ。例えば船に向かって射る火矢のように。その鏑矢は一直線に進んでいく。その軌道に「しくじった」かと、黒鋼は当初感じた。
しかし、風を切り甲高く鳴き叫ぶ矢は、自身が意志を持っているかのように、揺らがず失速せず飛んだ。その声と相まって、猛禽類が獲物を狙い急降下する様を、見る者に想起させた。
敵も味方も、その軌跡をただただみつめていたが終わりは呆気なかった。射られた阿修羅王自身が、軽く一閃させた剣でそれを叩き伏せたのだ。矢箆竹が折られる音は案外遠くまで、この夜魔の陣地にまで響いた。その軽い音が終わった瞬間、どうとばかりの歓声が両軍からあがった。
それは、射手に向けられた惜しみない讃辞だった。夜魔の軍はもちろん敵である修羅の方も。
その歓声にひとり取り残された黒鋼は驚きのかたちに口を開いたまま、何故かいつかの主君の言葉を思い出していた。
《もう少し違う風景をご覧なさいな》
《色々なひとと会って過ごしてみるのもいいでしょう》
《そうすれば、あなた自身の有りようの糸口も掴めるのではないかしら》
「黒鋼」
名を呼ばれ、はっと回想から我に返ると、すぐ横に夜叉王が近づいてきていた。
「『無能な唖』だと言っていたな」
そうだ。夜魔に迎え入れられてから、言葉が通じない同行者についてはそう言い逃れてきた。少し肝が冷えたが、王は低く静かに「面白い同行者殿だ」と、無難な感想を述べるにとどまった。
08.06.23
08.06.08のオンリ−で無料配布したもの。これ、いつか出したい連作短編本の一部に収録する予定です。