僕は透さんから鍵を借りた。
 普段は入ってはいけない屋上の鍵だ。僕は時々この鍵を使って屋上へ入って、空を眺める。
 蒼い空を。
 それは、僕が行き詰ったとき。
 悩んだとき。
 自分がどうしようもない様に思えたとき。
 理由は色々だけど、空を見ていると自然とそんなもやもやとした思いは洗い流されていく。空の蒼に抱かれていると、フッと肩の力が抜けたりするから。僕にとっては秘密の場所。
 そんな場所へ今日は綾乃と翔を誘った。
 昼休み、一緒に秋晴れの空の下で昼食を食べようかと思ったからだ。
 綾乃が家出をしたらしいとわかって、何も出来なくて過ぎた数日。
 そして、綾乃は帰ってきた。笑って帰ってきた。それだけで、ああ全ての問題は解決したんだなと思ったけれど、僕の心の中はまだ晴れなかったから、空の下で話したかった。

 休日明けの今日。何があったのか、綾乃の機嫌が良い感じ。
「ほんと、もうすっかり良いんか?」
「うん、もう万全。ごめんね、翔。慣れないノート取りさせて」
 胡坐をかいて心配そうにじっと見つめている翔の視線に、綾乃は少し照れている。わざとからかうような言葉を口にして、そんな思いを誤魔化していたけれど。
 それを察しているのかいないのか、翔が怒った顔を作ってパンチを繰り出してきた。
「痛いよ」
 肩にHITしたそれに、綾乃は笑顔を浮かべる。
「綾乃のノートを取ったおかげで、翔の今度の中間テストは期待できるかもね」
 僕はフェンスにもたれてにやっと笑って言ってやると、ますます翔の顔はぶーたれていく。きっと透さんにも、口やかましく言われているんだろうな。
「中間って今週末からだよね?」
 綾乃が今も思い出したかの様に聞いてきた。随分余裕なのかと、僕は笑顔を浮かべたままで頷いた。
「やばぁーい。全然勉強してないし。まずいかも」
「別にいいんじゃねーの。病気だったんだし、誰も怒んねーだろ」
 翔は、ちょっとうらやましそうだ。翔に病欠なんて事はありえないからね。
「だめ。そんな事言い訳にならないし。・・・がんばんなきゃ」
 ・・・・?
 その綾乃の決意をにじませたような言い方が、僕には以外だった。いつもと違う様子に、ゆったりとフェンスにもたれていた上体を起こす。
「何?なんかあったの?」
 笑って、明るく綾乃は帰ってきた。文化祭には、弟の雪人くんや執事の人まで見に来て、綾乃は真っ赤になって照れながらもとても嬉しそうだったのに、問題はまだ何かあったのだろうか?
「ううん、そうじゃなくて」
 心配する僕の口ぶりに綾乃は笑顔で首を横に振る。
「そうじゃなくて、なんだよ」
「ん・・・なんていうかなぁ。がんばりたいっていうか――――吊り合うとか無理だけど。近づきたいっていうのかな」
 前半は翔に。後半は僕に向けられた、綾乃の言葉。
 ――――ああ。・・・そうか。
 なるほどそういう事ことかと、僕はホッとして、そして思わず笑ってしまった。顔が、うれしくて緩んでいくのが自分でも止められない。
「そっか。――――良かったね。おめでとう」
 本当におめでとう。本当に、よかったね。
「うん、ありがと」
 ちゃんと、中途半端な状態から、綾乃も――――そして理事長も踏み出したのだ。
 だから、綾乃の笑顔が前より一層綺麗に見えたのだ。より困難で険しい道だとわかっていても、それでも2人はその道へと進むことを決めた。それが1番幸せな道だから。
「・・・俺、全然話が見えない」
 すっかり嬉しさに浸っていると、翔の拗ねた声が聞こえた。綾乃との間に流れる空気に、話しの流れが全然わからない翔はぶすっとした顔になっている。
「翔はいいんだよ」
 うれしくて。
「ん〜だよ、それ!!」
 うらやましい。
「綾乃は幸せだって、話」
「うん」
 不安に揺れる思いを抱えているのは自分も同じなのに。一歩先にいかれてしまったようだ。
「全然わかんねーっ」
 翔が胡坐をかきながら、吠えている。

「・・・でもさ、どうせだったらうちの家とかに来れば良かったのに。一体どこ行ってたの?」

 これが、僕のもやもやの原因。今日の――――本題。
 どうしてもその事が不満だった。
 家出するならするで、1番に頼ってくれるのは自分だろうとちょっと思っていたのに、綾乃は自分でも、翔でもない違うところに行っていたのだ。
 それが悔しいと思っていて、悔しいと思っている自分がまたもやもやした。

 綾乃を初めて見た印象は、違和感だった。そして、理事長から透さん経由に綾乃のことを頼まれて、興味を持った。興味を持って、調べてもらった、どんな人物なのか。
 知った時は、衝撃だった。言葉には、出来なかった。
 僕は結構恵まれた家に生まれたんだと思う。父は弁護士事務所を継ぎ、本人も成功を収めているし、母は家庭的な人だ。これで、母は家庭を顧みないで――――とかに続けば良かったんだけど、残念ながら栄養士の免許も持っていて料理も上手。寂しいなんて思いをした事もなかった。だから、綾乃の様な環境は、ブラウン管の向こうの出来事で、他人事で、遠い世界だった。
 僕の興味は一層沸いて、同情心も沸いて、仲良くしてあげようなんて思っていた。出来るだけの手助けをしてあげなくては、なんて思っていたんだ。
 それが、いつ頃からか綾乃にどんどん引き込まれていった。
 理事長と恋をしているんだと気づいたときには、驚愕なんて言葉を通り越していた。一体どうするんだろうって思っていた。実るはずなない想いを、綾乃はどうするんだろうって。そしたら、歯を食いしばって真っ直ぐに体当たりでがんばって。


「えーっとね、適当に電車乗り継いで、行けるところまでいって・・・公園で寝てたら、偶然知り合った人がいて。その人のところ」
「は!?なにそれ。見ず知らずの人の家にいきなり行ったの!?」
 てっきり知り合いか誰かを頼ったんだと思っていた。その知り合いに僕は負けたんだと思っていたのに、まさかそんな事になっているとは、さすがに想像していなかった。
「なーんーのーはーなーしーっ!?」
「翔はちょっと黙ってて」
 信じられない。何かあったらどうするの!?
「はぁ!?さっきからお前、感じ悪いぞ!!」
「鈍い翔が悪いんでしょ」
 世の中には悪い人がいっぱいいるのに。きっと、いい人の方が少ないのに。
「なっ!?鈍いっ・・・っ、鈍いってなんだよ!」
「あーもー、二人とも」
 思わず前のめりになっていく翔と、たぶんキリキリと怖い顔になっていっている僕の間に、綾乃は手を伸ばして割って入る。
「あのね、翔。僕が長い間休んでいたのは、病気じゃなくて――――家出だったの」
「――――は!?・・・って、まじ?」
 まったく知らなくて、気づきもしていなかった翔は、驚きのあまりでっかく目を見開いてしまっている。
「うん。でね、その間どこにいたのかって事を今聞かれてるわけなの」
「そ、だから黙ってて」
 今大事なトコなのに。やっぱり翔はどっか追っ払うべきだったかな。
「・・・・って!なんで薫はその事知ってるんだよ」
「あんなに長期で休むほど具合悪そうじゃなかったし。第一、あの日・・・・綾乃様子おかしかったし。だから、もしかしたら何かあったかなぁってね」
 そう。それも、もやもやの一つだ。どうしてあんなに揺れていた瞳を、見逃してしまったんだろう。
「じゃぁ、じゃぁ!まず俺にも相談しろよ。薫なんも言わなかったじゃん!!」
「そんなの、鈍い翔が悪いんでしょ」
 どうして自分の失態を言わなきゃいけないんだよ。みすみす、手を離してしまったミスを。
「あ――――!また鈍いって言った!!」
「はいはい、もー喧嘩しないっ」
 ほっておくとどこまでも行きそうな会話に、綾乃は再度割って入って、押し迫ってくる翔を引き剥がした。
「綾乃はさ、なんでそんなトコいくかな」
「え?」
 なんとか引き剥がしてとりあえず翔をなだめている綾乃を、僕はもう待ちきれなくて。自分でもわかる、怒った声を出している。
「家出っていえばさ、普通友達の家に行くでしょ!?泊めてっとかなんとか言ってさ」
「え・・・だって、そんなの」
「そんなの?」
「あの、怒らないで欲しいんだけど・・・・・・あの時は、本当に南條家を出て行こうって思ってて。もう帰ってこないつもりだったから。そしたら、薫や翔とも、もう関係なくなると思って・・・」
 ――――なにそれ。
 綾乃が口を開いて言葉を紡ぐにつれて、僕の眉間にしわがよせられていく。もやもやが、ムカムカに変わっていくのをどうにも止められない。
「だって、僕は、ほら・・・・普通の人だし。全然、二人とは住む世界が違うって思ってたし。ほんとに、僕は何も持ってないって、思ってたし。だから、・・・きっと・・・卒業するまでだろうなって思ってて。それなのに、南條家出るって思ってて、ここにも来ないつもりなのに、・・・・そんな頼るとか・・・迷惑かけるとか、出・・でひ、ひゃい・・・か、かけりゅ?」
 綾乃が僕に向かって一生懸命説明していると、後ろの翔から手が伸びてきて。――――ほっぺたがぷにーっと引っ張られた。
「むかつく」
「ひぇ?」
「普通って俺も普通の人だし。別に人造人間とかじゃないし。住む世界って、同じ地球の日本に住んでるじゃん。それに、何?卒業するまでって!」
 それ、僕のセリフっ。
「いひゃっ」
 翔の頭が、綾乃の頭にゴチンとぶつけられた。
「そういう事言う口にはこうしてやるっ、立って!立って!よっこ!よっこ!丸かいちょ――ん♪っと」
 綾乃のほっぺが縮んだり伸びたりして、最後には思いっきり引っ張られて離された。その、顔が・・・・・・
「いたぁ・・い」
 思いっきりひっぱられた頬を、綾乃は思わず両手ですりすりしながら、じとりと翔を見つめた。
「綾乃が悪い」
「う・・・・っ、薫も笑いすぎ」
 言い返せなかったらしい。僕に向かって、ちょっと目を吊り上げている。頬は赤くなって伸びてるのに。
「綾乃が悪いんでしょ」
「・・・今は違うのにぃ」
「え?」
「ちゃんとがんばって、卒業しても、ずーっとずーっと友達でいられるようにがんばろうって思って、ちゃんと帰ってきたのに」
 ・・・ばかだな。もう、全然わかってない。
「あのね、がんばらなくても卒業しても友達でしょ」
「だろ!!」
 ――――あーあ、なんで、ここでそんな泣きそうな顔するかなぁ。本当に、無鉄砲なくせに、そういうトコだけ全然ダメだね。
 綾乃の顔は、僕と翔の間で奇妙に歪んで。泣きそうになるのを、一生懸命耐えているらしい。本当はもっともっと言いたい事とかあったけど、もっといっぱい言ってやるって思ってけど、そんな顔されたらもういいやって気になってしまう。
「――――いい?今度から家出する時は1番最初に僕の家に来る事。いいね?」
「はー!?ずるい。俺ん家でもいいじゃん。なぁなぁ綾乃、俺に家にしな。俺の家の方が広いぜ」
「っ!僕の家だってお客さまが泊まる部屋くらい十分あります」
 なんでここで翔がでばってくるんだよ。全然鈍くて家出に気づきもしなかったくせに。
「俺の家の料理人の作る料理はおいしいぞ」
「僕の母だって料理上手です」
「え、薫の家ってお母さんが料理するの?」
 綾乃が思わず僕を見る。
「ええ、母は栄養士も免許も持っていますし、料理教室を開くほどの本格派ですよ」
 僕はにっこり笑って勝ち確信した。ああ、お母さんありがとう。お母さんが料理上手なのをこれほど感謝した事はないよ。
「いいなぁーそれ」
 ポツリと呟かれた言葉は、別に家出するときにどっちが良いとかじゃなくて、ただ母親の手料理という響きにふと漏れた言葉だったのだけど。
 僕はこれ幸いと勝ち誇ってやると、悔しいらしい翔がまた口を出してきた。ふふ、この僕に口喧嘩で勝てるはずもないのに。
 そう思いながら、本日何回目かの言い合いが、今また始まろうとしていた。






「もやもやは晴れた?」
 鍵を返しに行くと、生徒会室には透さんしかいなかった。その顔がなんでもお見通しみたいな顔で、笑っている。
「ん。・・・こんな感情はじめてで」
 話していてわかった。僕は友達としてのポジションで、1番でいたいんだと思ってる事に。それなのに、綾乃はそう思ってなくてムカムカして、誰に負けたのか知りたくてもやもやして。自分はどう思われているのかもわからなくて、もやもやしていたんだ。
「友達、だよね」
 机に腰を少し掛けるようにして立っている透さんと、真っ直ぐに立つ僕の視線が絡まりあった。
「・・・もちろんです」
 本当はそんな事心配なんてしてないくせに、こういう事を言ってくる。本当は、「さぁ」とか言ってやりたいけど、言ったところでどうせ相手にもされないんだろうな。
 僕は少し顔を伏せて、そのまま立ち去ろうとすると、それより早く透さんの腕が僕の腰を捕らえた。
「透さん?」
 こんな誰が入ってくるかもわからないところで、こんなことするなんてらしくない。
「理事長は、あの子を取る事に決めたんだな」
「みたいです」
 ・・・・僕はどうなるんだろう?この人も跡取りには違いない。きっと、今回の綾乃と同じ思いに、問題に直面するのは間違いない。その時僕はどんな選択肢を選ぶんだろう。
 透さんはどんな道を選ぶんだろう。
「薫」
「はい」
 この人に名前を呼ばれるのが好きだ。きっと、声が好きだから、呼ばれただけでドキドキする。
「信用されてないの?俺は」
「・・・え?」
「絶対薫を泣かせるような事はしない、そう言わなかった?」
 少し、怒っている透さんの顔。きっと他の人にはわからなくらいの、微妙な変化。それすらもわかってしまうくらいにこの人の顔を眺めて、見つめて、一緒に過ごしてきた。
 信じていないわけじゃない。でも、どうしたって不安は拭えない。だって、僕はまだ16歳で、透さんは18歳。全然子供で、来年には透さんは大学に進んで、今よりもずっと会う時間も減ってしまうに違いない。
 新しい世界が、今のこんな関係を変えてしまわないなんて、どうして言えるだろう。
「おいで」
 でも、今はまだ考えたくない。だから僕は、透さんへそっと腕の伸ばして背中に手を回した。
 今はその温もりだけが、不安を解消してくれるから。








  kirinohana    novels    top   

だいぶ前のお話ですが、一言感想で「綾乃のほっぺむにゅーってつねって・・・」って話があったんです。
ずーっと気になってっててやりたくて。
案を下さった方の想像とはだいぶ違ったかもしれませんが。喜んでいただけたらうれしいです*^^*