「あれー綾乃と雪人はいねーの?」
 綾乃と雪人がでかけて随分たったお昼すぎ。ふらりと南條家に現れた直人が、その静けさに訝しげな声をあげる。
「ええ、二人して柴崎様のお宅へ遊びに行っておられます」
「まじでー。・・・・せっかく遊びにきたっつーのに」
「雅人様がいらっしゃいますよ」
 どうやらその雅人に持っていくらしいコーヒーを松岡はいれているところだった。
「兄貴がいたって仕方ねーじゃん、つまんねー」
 直人はそういって大層にため息をつくと、テーブルの端にお尻を引っ掛けるようにして軽く座る。
「直人様、お行儀が悪いですよ」
「えっ――――ああ、悪ぃ」
「すぐそうやってもたれかかる癖、悪い癖ですよ」
 それは、高校の頃からやるようになった癖で、いつも松岡に注意されるのになおらなかった。久しぶりに注意されて、23にもなった直人の顔が少し拗ねたようになる。
 いや、拗ねた様な顔をして誤魔化しているのだろうか。
「それ、俺が持ってくわ。兄貴に話もあるし」
 松岡が入れているコーヒーを直人が指す。
「じゃあお願いします」
 ちゃんと直人の分も入れられたコーヒーカップを二つお盆に乗せて、松岡は直人に渡した。そのとき一瞬、ほんの少し指先が触れ合った。
 本当はわざと伸ばした指先。その事に、たったそれだけの事に直人はドキリとするけれど。
 松岡は気付かなかったようにそれを無視して、直人に一礼して奥へと消えていった。
 ――――ふっ・・・
 困らしているという自覚は、直人にだって十分あった。それでも、と思う。それでももう少しなんかねーの?――――そんな言葉には出来ない思いを無理矢理飲み込んで。言ったところでどうしようもないと、自分に言い聞かせてみる。
 すると自然に自嘲めいた笑いが口について、口の端が奇妙に上がる。
 ずっとこんな想い、押し殺して無いように振舞ってきたのに。雅人と綾乃を見ていたら、切なくて自分ではどうしようもなくて。
 自制がうまく出来なくなっていた。だからできるだけ、ここには近づかないようにしてしまう。雅人もいるし、今は綾乃もいるから――――そんな風に言い訳をして甘えている。
 ――――どうしようもないなぁ、俺も。
 直人は、ため息と共に笑いを吐き出して、振り切るようにその場を後にした。





「はーい、コーヒー」
「直人。帰ってたんですか?」
 部屋で仕事をしていた雅人は、直人の帰宅にはまったく気づいていなかったらしい。いきなりの直人の登場に少し驚いた様な顔をしたものの、その顔はすぐに笑顔に変わる。
「そ。俺も今夜のパーティー出席だからね」
「そうでしたか。――――なら、私は行かなくてもいいんじゃないでしょうか」
「はぁ!?何言ってんの。メイジン建設の社長は本命兄貴、次点が俺なんだから」
 直人はどっかりとソファに腰をおろして、コーヒーをすすりながら、おもしろそうに肩を揺らした。
「そうでした。今日はメイジンとMTCの合併でしたね。どこだったかさっぱり忘れてましたけど」
「おいおい、メイジンさんはご令嬢を兄貴に押し付けたいんだぜ?ダメだったら俺でもいいらしいけど」
 雅人はふとメイジンの社長の顔を思い出して、思いっきり顔をしかめた。あの脂ぎった顔で娘を紹介されるのかと思うと、それだけでげんなりとした気分になる。
「美人だったら多少救われるんですけどねぇ」
 どうせ何分かは二人きりで話をしなければいけないだろう。ならばせめて、会話が楽しめるくらいの器量と見た目だったらまだ救われる。
「どっちだっていいじゃん。関係ないだろ?」
 直人が思わず驚いて聞き返すと、雅人は軽く肩をすくめる。
「バカな女と話すのは嫌なんですよ。ポーカーフェイスも疲れるんです」
「ひでー」
 直人は雅人のあけすけな物言いにケラケラと声を立てて笑った。元々こういう所があったのはあったのだが、なんだか最近は開き直って拍車がかかっている気がする。
 そんな兄の変化を、直人はもちろん好感を持って受け止めていた。
「そうそう、肝心な話しを忘れてた。あれ、まとまったぜ」
「――――ああ、ありがとうございます。手間をかけましたね」
 雅人はすっかり忘れていたらしいその事に思い至って、直人に頭を下げた。
 それはグラッドホテルという関東から中部にかけて展開しているビジネスホテルグループが、1階の余っているスペースに店を誘致して、賃借料を取りたいとの話が耳に入った時から始まった。1階はロビーさえあればいいので、半分くらいの余ってしまっているスペースをコスト削減をかねて貸したいというのだ。それもホテル側はカフェかコンビニかの業種に絞って考えていた。
 それを雅人は利用した。
「いーえ。でもさぁ、グラッドホテルうちと繋がりが出来たと思ってるみたいだぜ?」
「そうですか」
 綾乃の叔父一家は都内を中心にベーカリーとカフェが併設された店のチェーン展開をやっていて、関東からさらにその範囲を広げる機会を狙っていたのだ。このホテルの1階に入る事が出来れば、一気に中部地方への足がかりができる。彼らにとってかなりおいしい話だった。
 雅人はそれを餌にしたのだ。
「これが誓約書」
 直人はパンツの後ろポケットから無造作に1枚の紙をとりだして雅人へと渡した。
「確かに」
 そこには、金輪際綾乃には近づかないという意味の言葉と、叔母夫婦の名前捺印がしてあった。
 彼らはこのホテルの1階にどこの会社が入り込むか、熾烈な争いを繰り広げていて、彼らは良い位置につけてはいたものの、このままでは選に漏れるところだった。それを雅人はこの誓約書と引き換えに、専属契約できるようにホテルとの間に入るのを、同じホテル経営ということで直人に依頼していたのだ。
「でも、良かったのか?こーんないい話回してやる事なかったのに」
「まだいい話と決まったわけではありませんよ。確かに彼らにチャンスはあげましたけど、それを成功させるか失敗させるかはわかりません」
 雅人はその誓約書を丁寧に折りたたんで、机の一番下の鍵のかかる引き出しに仕舞って鍵をかけた。
 くすりと、冷たく笑う。
「彼らは、店を出店するためにかなりの借金を背負うでしょうね」
「そりゃぁそうだろうなぁ」
「彼らにそんな資金力はないでしょうから、当然銀行からの借り入れということになる」
「だろうなぁ」
 そこに来て、直人もニヤリと笑った。
「彼らがホテルサイドに提出した計画書を見せてもらいましたが、――――あれでは」
「やっぱ、ひでーっ!」
 なんてひどい男だと笑ってしまう。本当に親切なら、この話は彼らにとっては乗らないほうが良かった話。それを、乗せてしまったのだ。
 ここに来て雅人の真意をはっきり悟った直人は、腹を抱えてひとしきり笑った。が、その後急に真面目な顔つきになって雅人を見据えた。
「失敗するまで、何年踏ん張るのかはしらねーけど。その時が来たらあいつら、あんな誓約書無かったことにしてまた綾乃に近づいてくんじゃねーの」
 さっきまでのふざけた空気はいっぺんさせて、声のトーンからも直人の真剣さが伝わってくる。もしそうなれば、また今回と同じ事が繰り返されるかもしれなという危惧は拭えない。その度に綾乃は傷つくかもしれないと思えば、直人も笑ってばかりではいられなかった。
 綾乃が傷つかなければいい、雅人と幸せになれればいいと、直人は直人なりに気にかけ心を砕いてきたのだ。
 それなのに、雅人は余裕の笑みを浮かべた。
「そうでしょうねぇ」
「いいのかよ?」
「直人――――私はただ、時間稼ぎがしたかっただけなのです」
 雅人は軽く手を組んで、ソファにゆったりともたれて窓の外、空を見上げた。
「時間稼ぎ?」
「ええ。綾乃が大人になるまでの時間稼ぎ。綾乃が、強くなれるまでの時間稼ぎです」
 抜けるような青空を、目を細めて見つめてから、その視線を直人に戻す。その瞳は、さきほどの冷たさからはいっぺんして、なんと穏やか色だろうか。
「彼らと南條家はなんの関わりもありません。こちらが毅然としていれば、付け込まれる隙などないでしょう。立っている位置が違いすぎますよ」
「――――ああ」
「付け込まれる隙があるとすれば、それは綾乃です。綾乃の心です。幼い頃より受けた傷が、あの子にまだ大きく影を落としています。それを拭い去れる手伝いを私はしたいと思っていますし、またあの子の周りにはそういう人が今はたくさんいます。けれど、最終的にその影に勝てるかどうかは綾乃自身です。私が手を使って彼らを綾乃から遠ざける事は可能でしょうが、それでは永久に影は消えない」
 見つめられて、直人は思わず息をのんだ。そこに、その想いの深さに雅人の覚悟を見た気がした。先まで見据えた想いに決意に、もう揺らぐことはないのだと。
「でも、今はまだ時間が必要です。そのための時間稼ぎです。いつかまた彼らが現れたとき、綾乃がもう震えないで、彼らをきっぱりと無視できる強さを身に付けるまでの、ね」
 きっとそのために雅人は惜しみない愛を綾乃に注ぐのだろう、直人にはそれがはっきりとわかった。
 きっと本人は気付いていないだろうけれど。綾乃と出会ってから、昔より随分表情が豊かになったし、優しくなった。柔らかくなった。前にもまして、でかくなった気もする。
 ――――ちぇ・・・・
 嬉しくて、悔しくて、置いていかれたような焦る思いと、手放しに喜びたい気持ちと。直人はなんとも複雑な思いで、優しい瞳で笑う雅人を見た。
 そして、ただただ純粋に、うらやましいとも思う。かけがえのない、たった一つの宝物を、見つけたのだから。
 そしてそれを、手にすることが、叶ったのだから――――









 その頃、雪人と綾乃は買い物と散歩をかねて出かけ、公園に立ち寄っていた。
 雪人は嬉しがってマメと遊んでいた。初めは少し恐がっている部分もあったのだが、今はすっかり打ち解けて、真吾がボールを遠くに投げてはマメと雪人が取りにいくということをしながら、じゃれていた。
 その光景を、綾乃と今日子はベンチに座って並んで見ていた。つい先ほど、ひと段落したとかでふらりと公園に現れたのだ。
「問題なくいってるのか?」
「はい。その節は、その、色々とありがとうございました」
 全部の事情を知っている相手に改めて問われて、綾乃は赤くなりながら頷いた。
「良かったな」
「はい」
 このしゃべり方が、なんだかうれしい。
「学校もちゃんと行って、友達にも怒られたけど。それは心配してくれてたからだし。――――今は、なんだか上手くいきすぎて恐いくらいで」
「そうか・・・それならあえて何も言うことはないんだけど、―――― 一つだけ」
「・・はい」
 ふと躊躇った様子を見せる今日子がなんともらしくなくて、綾乃は不思議そうな顔をして隣に座る今日子に視線を投げる。
「誰かの為に身を引くなんて、そんなのは綺麗事だ。結局は相手の為といいながら、自分が傷つくのを恐れて逃げているだけだ」
 今日子は、綾乃の方は見ないで真っ直ぐにじゃれあう二人と一匹の方を見つめて、言葉を続ける。その横顔が、少し硬かった。
「――――もう、逃げるな。相手のためと本気で思うなら、腹の中に溜め込んだ想いを全部ぶちまけてやれ。それでもし、お互い傷ついても、その方がずっとましだ」
「はい・・・」
「泣くな」
「泣いてません」
 確かに何かこみ上げるものがあって、ちょっと声は震えたけれど、綾乃はぎゅっと口を硬く結んで涙は堪えていた。
 今日子の言葉が胸に刺さった。
 逃げただけ。
 自分が傷つきたくなくて、逃げただけ。
 南條家に戻った綾乃を、普通の生活に戻った綾乃を、誰もそう言っては攻めなかったけれど、綾乃にはそれが十分わかっていた。
 雅人の為と言いながら、自分には見合わない生活に、環境に、飛び込んで行く本当の勇気が持てなかった。心のままに必死になって、もしまた失ってしまったら――――?そう思うと恐かった。父を失った時の様な喪失感を抱えて、また傷つきたくなかった。
 そんな思いが、心の中のどこかにあったのも本当だった。
 だから、試すように、帰らないと言い張った。信じるのが恐くて、信じられないフリをした。
 雪人や松岡や、直人や翔や――――薫の顔を見たとき、そんな卑怯な思いを誤魔化す事はできなくて、目をつぶることも出来なくて、認めるしかできなくて。
 誰かにそう言って欲しかった。
 誰も綾乃を謝らせてはくれなかったから。
「ごめんなさい」
「もういい」
 必死で堪えていても、やはり少し震えてしまう声で綾乃が言うと、少し困ったような様子の今日子がぶっきらぼうに強い力で綾乃の肩を抱きしめた。
「私も昔同じ事をした。だから、わかるだけだ。偉そうな事言ってるけどな」
「え・・・今日子さんが?」
 綾乃はあまりに意外な告白に、思わず顔を取り繕うことも出来ず思いっきり目を見開いてまじましと今日子を見上げた。
 そんな反応に、今日子は苦笑を浮かべる。
「ああ。真吾のためだと言い訳をして、あいつの前から姿を消した。――――半年くらいしてかな。見つかってしまって、どれだけ心配してどれだけ探したと思ってるんやーって怒鳴られた。俺は自分のことは自分で決める。勝手に人の人生の心配せんでええーって」
 今日子にとってそれは今はもう良い思い出なのだろう。その日を思い出しているのか、少し顔が笑っている。
「真夜中やのに大声で怒鳴って、そこら中声が響き渡ってるのもおかまいなしに――――そのまま勢いで結婚してくれーって言われてもう、恥ずかしかった」
「え――――でも、なんで・・・?」
 何故、こんなにお似合いに見えるのに今日子は真吾の前から姿を消したのかわからなかった。
「真吾は子供が好きなんだ。結婚したらいっぱい子供作って遊ぶんやーって言ってた。でも、私の身体は子供を生む事が出来なくてな。だから――――」
 その思ってもみなかった告白に、綾乃は目一杯その瞳を見開いた。こんなにお似合いに見えて、こんなに幸せそうに見える今日子に、そんな事があるなんて想像もしていなかったからだ。
「あ・・・ーっと」
 こういうときなんて言葉をかけていいのかわからなくて、綾乃は慌てたように口をぱくぱくさせた。けれど、うまい言葉は浮かんではこなくて、困ったように眉が下がる。
「そんな顔することはない。ただ、――――良かったらちょくちょく遊びに来てくれ。真吾が喜ぶ」
「はいっ。僕も、来てもいいなら是非来たいです、し――――僕今日子さんにお願いも・・・」
「私に?」
「はい。あの、雅人さんに作ったみたいなのを、他の家族や友達にも作りたいんですけど――――だめですか?仕事の邪魔になるなら、全然いいんですけど・・・・」
 事前に雅人には、今日子にこんな頼み事をしても良いものかどうかと相談はしたのだが、それでもちょっと今日子の反応が心配になってしまって、綾乃の言葉の語尾が段々小さくなってしまった。
 が、そんな心配は無用だったらしい。
「ああ、かまわない。来る前日に電話をくれるとありがたい」
「します!全然します!でも・・・ほんとに、ほんとにいいの?」
 うれしそうに綾乃がぴょこっと顔を上げる。そんな綾乃に、今日子もニコリと笑って頷いた。
「なーんの話?」
 突然真吾の声が振ってきて、綾乃が視線を向けると。
「雪人君!?」
 綾乃は真吾の後ろに立っている雪人の姿を見て、思わず声をあげてしまった。
 今日子との話しにすっかり夢中になっていて、少しの間二人から目を離していたのがいけなかったのか、雪人がすっかりドロん子になってしまっている。
「へへー」
「マメとじゃれるときにちょっと転んでもうてな、まぁ男の子はこんなもんやろ」
 ちょっとビックリしたのだが、嬉しそうに笑う雪人と悪びれもしない真吾の顔をみて、綾乃も肩をすくめて笑ってしまった。
 確かに、元気な証拠だ。ただ、帰った時の松岡の反応に若干の不安を綾乃は抱えないでもなかったが。
「風がつめたくなってきたし、そろそろ帰って夕飯の支度しよか」
「はい」
「今日は鍋か?」
 今日子は買い物袋の中をチラっと覗いて言う。
「そやぁ。なんや綾ちゃんらはいつも二人で夕飯やねんて。だから鍋とか滅多に食べへんいうからなぁ、俺らもそうやしええやろ?」
「ああ」
 二つに分けられた買い物袋を真吾と綾乃が一つづつ手に持った。
「持つ」
 今日子は手を差し伸べたのだが、綾乃は首を振って自分が持った。
 雪人はちゃっかりマメのリードを握っている。
「早く行こー。お腹減ったようー」
 そういうと、その言葉にマメが反応してしまったらしく雪人をひっぱるように歩いてしまい、雪人は駆け足気味にひきづられていく。
「おい、大丈夫か?」
 結局、マメのリードを雪人が持って、その雪人の手を今日子が握った。真ん中に立つ雪人はかなりご満悦な様子だ。すっかり柴崎家に馴染んだらしい雪人は、人見知りする事無く今日子にも盛んに何か話しかけている。
 それから2メートルくらい後ろを、真吾と綾乃は並んで歩いていた。
「なんの話してたん?」
 どうも真吾は気になるらしい。
「真吾さんのー・・・・真夜中のプロポーズの話」
 どう切り出して話ていいのかわからない綾乃は、探し出したその言葉を口にした。
「・・・そうなんや?今日子、自分からその話したんや」
「はい」
 真吾にはそれだけで伝わったらしい。ほっと息を吐くのが聞こえる。
「綾ちゃん、また遊びに来てな――――あいつも喜ぶし」
「え・・・、それさっき今日子さんにも言われました。真吾さんが喜ぶからって」
「そっか。あいつ――――・・・」
「でも、今日子さんちょっと嫌じゃないのかなって心配したんですけど、本当に遊びに来てもいいんですか?」
 子供を生めない人が、子供を見ていい気になるのかどうか、綾乃にはちょっと判断が難しかった。嫌われたくはないから、良い距離感で付き合っていきたかったのだ。
「全然、来て来て。あいつも、ほんまはめっちゃ子供好きやねん。でも――――病気してな、仕方なかってんて。その話聞いたとき初めて泣いてん、あいつ」
「えっ」
「想像できへんやろ、今日子の泣いてるとこなんかな」
 そんな事をおもしろそうに話して良いのかと思うのだが、真吾はおもしろそうに笑って言うので、綾乃もちょっと想像できないのは本当で、申し訳ないとは思いながらも頷いてしまった。
「あん時やなぁー。ぜーったいこいつと幸せになろーって思たん」
 真吾はその時のことを思い出すように、目を細めて今日子の背中を見つめた。
 その真吾の顔をまた綾乃は見つめ。うらやましい想いにかられ、すがすがしい気分にもなった。いつか自分も、あの日々をこんな顔をして話せる時が来るのだろうか?
 幸せそうな顔で、笑って、思い出す事が出来るのだろうか?そんな日は、きっとまだまだ先で。もっともっと強くなって、雅人にふさわしい人にならなきゃいけないと思うけれど。

 なんだか今、とりあえず凄く、雅人に会いと、綾乃は思った。


「綾ちゃん、遅いーはやくはやく」
 思い出話に足がゆっくりになっていたらしい。だいぶ間があいてしまった。
「ごめーん」
 綾乃はただただ、こんな穏やかな幸せが切ないほどに嬉しくて。
 雪人に手を振って走り寄っていった。



 ――――ああ、そうだ。


 昔はお鍋が大嫌いだった。みんなが一つのお鍋をつつくから、どこまでが自分のおかずかもわからなくて、何を食べていいのかもわからなくて。
 みんなが手をつけない白菜の芯や豆腐ばかりを選んで食べていた。それでもなんだか、あまり食べてはいけない気がして、お鍋の晩はいつもお腹が痛いくらいに空腹になって。
 なのに今は、みんなでお鍋を食べることがこんなにも楽しみで、うれしいって思えてる。
 昔そんなふうに思えてたことも、すっかり忘れるくらいに。

「あービールあったっけ?」
 追いついてきた真吾が思い出したように声をあげた。
「なかったら僕が後で買ってくるよ」
「まじで?」
 にやりとうれしそうに真吾が笑う。
「僕も一緒に行くーっ」
 雪人が跳ねるように歩いている。
「じゃぁー・・今日は飲むかぁー!!」
 嬉しそうな真吾に、呆れたように今日子が笑った。

 幸せってきっと、こういう事だ。


 やっぱり、早く雅人さんに会いたい。
 この想いを、伝えて、――――ありがとうって言いたい。

 大好きって、言いたい。

 幸せだーって言いたい。











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